第十三章 幾多の夜 一つの朝
アスは顔を上げた。その顔を見まいとするかのように、ジルがアスを力一杯抱き寄せる。
「やだね、泣かせるために言ったわけじゃないんだから。……気をつけていってらっしゃい。今度会う時は、私の名前を一番に呼んでちょうだい」
その声も心臓の音も体温も、何もかもが自分と違うはずなのに、一つ一つが柔らかくアスを包み込む。
安らげる場所というような安易な表現は許さない。ひどく静かだった心に投じられた暖かな一滴が生み出す波紋は、小さなうねりと共にアスの目に涙を浮かばせた。
──ありがとう。
声を忘れた喉が再び震えることがあるのなら、真っ先に口にしたい。これまでの旅路で踏み躙られ、跡形もなく砕け散ったと思われた言葉を、再び見出した喜びはそのままアスの足を動かす力となった。
ジルから離れ、袖口で涙を拭く。そして、いってきますの代わりに差し出した手をジルは固く握り締め、もう一度「いってらっしゃい」と言った。泣きたいような笑いたいような顔でジルやメルケンを見て、その後ろにヴァークらの姿がないことに微かに安堵する。きっと、二人の顔を見ればもっと足が重くなるに違いない。出発を急く自分たちに腹でも立ててくれた方が、いっそのことありがたいとさえ思った。
「カリーニン」
メルケンが声を張り上げる。店先で薄明るい光を受けて、カリーニンが振り返った。
「今度こそ忘れないでおくれ。その剣も、わたしのことも」
その、と指差した先で立派な大剣が布に巻かれて立てかけてあった。ジルがくすりと笑ったのを見ると、二人でどうにか動かしたのだろう。それでも鞘に収めるまでにはいかなかったようだが、布で刃の部分を巻いて背負えるようになってるのを見れば、上々を通り越して申し訳なくなってくる。
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