第十章 足跡
──知っている。
今度は自分の声で内心、呟く。
この声も手も、どこか切望に近い言葉も自分は知っている。知っているはずだ。
だが、どこでと再び記憶を引っ張り出そうとした瞬間、暗闇は深い黒を伴ってアスの意識をも侵食し始めた。頭が重く、次の瞬間には自分が何を考えていたのかさえもわからない。ただじわじわと、今まで見ていたものに黒い幕が垂れ下がる。
石像のように倒れる人々も、麦畑も、麦穂の感覚も、冷たい誰かの手の感覚さえも幕の向こうへ隠された時、あの穏やかな声が耳に届いた。
「だから、君に魔法をかけてあげよう」
+++++
鳥の囀りが聞こえる。可愛らしいその声の背景では木の葉がこすれあう音が大きな波となって満ち引きを繰り返していた。寄せては返すその音は聞いているだけで穏やかな気持ちになり、ゆるゆると覚醒への道を進んでいたアスをもう一度、眠りの淵へ立たせようとする。
だが、手を差し伸べてきた眠気に立ち向かうようにして、木の葉の音は懐かしさを喚起させた。それもただ暖かいものではない。もう二度と目にすることの出来ない、身を切るような悲しみに満ちた懐古の情である。
潮風が常に街を満たしていたあの港町だったか、それとも──
「……よう」
薄く開いた目を鮮やかな緑が焼く。暗さに慣れた目に新緑とも言うべき鮮やかな色合いはきつかったが、目覚めには良かった。加えて、鼻孔をくすぐる香ばしい匂いが、このところ息を潜めていた虫をたたき起こしたらしい。盛大に鳴った腹の音に顔をしかめていると、くつくつと笑う声がした。
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