第十章 足跡



──人だ、それは。

 イークに似た声が囁く。とうとう自分の内心の声まで失ったかと視線を落とした先、左手に走る黒い線に目が行った。

 胸の高さにまで手を掲げて見ると、左手の甲の中心にインクを落としたような黒い真円があり、その円を中心に複雑な模様が肘の辺りまでびっしりと描かれている。線の一つ一つを目で追うだけで気疲れしてしまいそうなほどに細かい模様はどこか異様で、その模様の向こうで倒れる人々に同じ異様さを感じた。

──それは。

 老成された声が淡々とした調子で呟く。

──そなたが掴むことの出来る、もう一つの明日だ。

 ひゅう、と喉の奥を冷たい風が通り抜けたと思った途端、視界が瞬時にして暗くなった。否、暗くされたと言うべきか、暗闇のところどころから灰色の世界が見え、倒れる人の姿が見える。誰かの手が自分の目を覆っているのだとわかった。

 しかし、この世界に自分以外の誰がいるのだろう。

 そう思ってみても恐怖はわかず、むしろ目を覆う手の冷たさはこの世界で初めて感じ取れる「他人」だった。温もりとも言い難い、ずっと氷に浸してきたかのような冷たさは肌に痛いが、不思議と気持ちを落ち着かせた。

「目を閉じるんだ」

 低い、穏やかな声である。誰のだろうと記憶を引っ張り出してみるも、有無を言わさぬ口調に遮られ、アスは大人しく言葉に従った。

 本当の暗闇が訪れ、しかし恐いとは思わない。目を覆う誰かの冷たい手の感覚、それだけが自分自身を守っているような気がする。

「君は、こんな世界を見なくていい。もっと暖かな世界で生きるんだ」

 だから、と言って声の主はアスの肩にもう一方の手を置く。その手もひどく冷たかった。

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