第十章 足跡



 がさりと身をこすれあわせる音、それに伴って何かが落ちる音、折れる音。それらが何重にもなって大きな波のように灰色の世界にこだましても、アスはそちら側を見る勇気がなかった。見れば何かが起こるという本能的な忌避感があった。

 だが、やがて左側でこだましていた音が聞こえなくなり、指を浸していたはずの麦穂の感覚が左手だけなくなった時、忌避感に勝るものは好奇心だった。

 意識して見ていた右側の麦畑は相変わらずの顔をして揺れている。浸した指も麦穂の感覚をよくとらえ、くすぐったい。右側のみに聞こえる波の音は確かに気持ちいいものだ。

 一方で左側から得るものは何もなく、唯一頼るとすれば自らそちらを見ることのみに絞られる。音もしない、麦穂の感覚もない。ならば一体、自分の左側には何があるのか。

 人だ、と誰かが囁く。少年のように若い声だが、まとう雰囲気は老成されすぎたものだ。どことなくイークの声に似てる。無意識に彼の声を呼び覚ましたのだろうか。それにしても人とは、冗談にしては笑えない。

 だが、その言葉を一概に否定しきれないことをアスは知っていた。

 見たくないと思いつつも体は好奇心に勝てず、ゆっくりと左側に体半分を向ける。

 灰色の風景なのが幸いと言うべきか不幸と言うべきか。それまで麦畑であったはずの場所にはおびただしい数の人が折り重なるようにして倒れていた。死んでいるのか生きているのかもわからない。ただ、色を失った幾万もの人々がさながら石像の如く大地に横たわっている。趣味の悪い美術品を見せ付けられているようで、しかし、そのうち起き上がりそうなほどにその表情は生々しい。

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