第十章 足跡
ふと、アスは自分の手を見下ろした。
懐かしい、という感情はどこから湧いて出たのだろう。
アスが幼少時代を過ごしたのはエルダンテの港町である。潮風に弱いからと麦は育ててはいなかったし、港町から離れている場所で栽培していたにしても、ここまで広大な畑ではなかった。生活の基盤は石造りの街にあったのだ。このように牧歌的な風景ではない。
だが、この風景を前にして抱く感情は紛れもなく懐かしさである。しかもエルダンテの港町を思い起こすよりもずっと暖かい、そして絶望的な懐かしさだ。懐かしいと思いつつも、心の奥底で、これは虚像だと断言する自分がいる。
何故、断言出来るのかもわからずに、アスは再び揺れる麦穂の中に手を浸した。
不思議なくらいに麦の揺れる音しかしない。細かな砂が零れ落ちるような音は耳に心地よく、アスは何も考えずに広大な麦畑を見つめていられた。こんなにも心にぽっかりと余白の出来た時間は久しぶりである。本当に、久しぶりだ。
頭の中をうるさく掻き回す黒い線もない。邪魔な声も聞こえない。麦の音だけが支配する世界はこんなにも気持ちいいものだったのか。シスターやティオルなど、街の皆にも聞かせてあげたかった。満ち引きを繰り返しながら穏やかに心をなだめていく技は誰にも真似出来ない。
不意に、左側で揺れる麦の音が小さくなるのを感じた。それまで滑らかだった麦の揺れが一気に均衡を崩し始める。
さらさらとした音はがさりとしわがれた音になり、時折、小さく何かが落ちる音が混じった。それは一箇所だけに留まらず、次第に領域を拡大していき、遂には右側で聞こえる音と左側で聞こえる音では全く違うものと成り果てていた。
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