特に花が好きというわけではなかった。美しいものが好きというわけでも、花の香りが好きというわけでもない。なのに明王は花屋を営んでいた。どちらかと言えば彼は豊満に鼻孔を刺激する花の香りは苦手である。押し付けがましく自身を主張する大輪の花や、枯れゆく花弁の儚さからは鬱陶しさしか感じない。しかし、今では明王の身体には花の香りが染み付いていて、目の端にはいつもちらちらと鮮やかな花弁が揺れている。明王の店の前には季節を問わず、色とりどりの花々が咲き乱れている。アネモネ、ガーベラ、ポインセチアなどなど、形も色も違うけれど、道行く人の足を止めるのに十分な美しさを持っていた。


「明王くん、水止めないと」
「あ、わりい」


いつまでも慣れない花の香りに酔ってぼうっとしていた明王を、同じく店先に出ていた女性が諌める。明王が好きでもない花の世話をしなければならなくなったのは全て、彼女が原因だった。小さい頃からの夢だという花屋を営むことを諦めきれないことを、男女の付き合いを始める前から明王は耳にタコができるくらい彼女から聞いていた。同棲している時も、結婚を申し込んだ時もだ。結局、婚姻届を提出してから半年後には彼女の粘り勝ちという形で店を開くことになっていた。


「次は?」
「んー、そこの植木鉢ちょっと避けといて」
「りょーかい」


心底、彼女は花が好きなのだと思う。そして花屋は彼女にとって天職だったのだと、店を始めてから数ヶ月で明王は実感した。所詮はしがない花屋だが、結構な数の固定客を獲得し、今では店の売り上げのみで食べていくことができる。彼女が育てた花は美しく、香りもいいと評判だ。特に何をしているというわけではない。強いていうなら、愛情の掛け方が違うのではないかと明王は密かに思っていた。


彼女が花たちに向ける表情は、自分が今まで生きてきた中でも見たことのないようなものたちばかりだ。憂いや慈しみを通り越した、底無しの愛情を明王は彼女に出会って初めて知った。重たい鉢を抱えながらちらりと彼女を盗み見る。労るように指先で真っ赤なひなげしの花弁の艶を確かめながらも彼女はいつものように口元に柔らかな笑みを浮かべていた。いつもそうだ。店を訪れた客は花の美しさに幸せを感じ、だがそれ以上に彼女も幸せそうなのである。そのことにただ安心を感じて、明王の一日は始まっていく。鉢を持つ手に力を入れ直して、明王は慣れ親しんだ仕事に戻った。






「お疲れさま」
「おう」


お昼時になり、店が一息つく。普段から客足が激しいわけではないが、ちょうど午前中が終わる頃に一通りの花の手入れが片付くのである。置いてある全ての鉢の水を変え、店先に飾る花束や注文に合わせたフラワーアレンジメントを作る。それらは全て彼女の仕事で、明王は一切触れることはない。と言うより彼が出来ることがあまりないのだ。


彼女が地道に働く姿を横目に明王は店の奥にあるテーブルにつく。足の低い椅子とテーブルは彼には少し不釣り合いで、肘を着いて明王はそこに顎をのせた。


「明王くんもなんかやってよ、」
「だから無理だっつの」
「だってわたしの目標は明王くんにも花を弄らせることだよ?」


花屋を開くという夢を叶えてから、彼女の新たな夢は明王に花弄りをさせることになった。いつもは鉢を動かしたり水を撒いたりと力仕事のみこなすだけでは不満なのだろうか。若干、唇を尖らせながらも彼女の働く手は止まらない。あっという間にひとつの艶やかな花束が出来上がった。

何回見ても感嘆する。明王はほう、とため息をついた。彼女は出来た花束をテーブルの上にゆっくりと置き、棚からティーポットとお揃いのティーカップを二つだす。彼女の仕事も一息ついたということだろう。沸かしたお湯をポットに注ぐと花の香りとはまた違った、紅茶の香りがふわりと二人の間に漂った。


「アールグレイでよかった?」
「あぁ、」
「なんか食べる?」
「今日はいらねえかな」


店に客がいないときにはよく二人で茶を啜る。一仕事したあとの彼女の淹れた紅茶はまた格別だ。老夫婦のようだと明王は時々自分に呆れてしまう。だとしても幸せなのだから仕方ないではないか。幸せを考えるようになった自分に鳥肌がたっても、やはり今の生活を変えようだなんて考えたことはなかった。俺もずいぶん丸くなったもんだ、口の端が少しだけ上がる。


「…なんかあった?」
「なんでもねえよ」


彼女は自分だけスコーンをかじりながら明王を不思議そうに見つめる。真ん丸とした黒い瞳はふと、テーブルの中心のシンプルな鉢に向けられた。


「明王くんの花はいつ見ても優しいね」


その鉢には明王が種から育て始めた花が咲いていた。プリムラという種類の花だ。淡い紫色をした大きめの花弁、中心は薄く黄色がかっていて、シンプルな鉢のなかで緩やかな呼吸を繰り返している。自分が育てた花が優しいとか、ましてや悲しいだとかは彼には全くわからない。ただ、はっきりしているのは、彼女はそのプリムラを「優しい」と形容したということだ。


「優しいって?」
「そのままの意味だよ」


明王には、やはり彼女の真意がわからない。どうして花に対して優しいと言えるのか、何をもってそう思えたのか。だって彼には彼女の瞳にどうこの鉢が映っているかなど知るすべはないのだから。

わかりかねて、眉を潜めた明王に彼女は顔を寄せて、ないしょ話をするかのように声を潜めた。悪戯を成功させた子供のように、少し楽しそうに。


「明王くんみたい」


空気を伝わってくる振動に明王の耳朶が微かに震えた。揶揄されたのだろうか。明王がちらりと鉢に目を向けるとプリムラはそんな彼の戸惑いを見てまるで鮮やかに微笑んでいるようだった。





せかいじゅうの花がある場所 / 雨恋月さまより
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