「……ん…」 ぱちりと目を開けるとずいぶん前に見慣れてしまった天井が目に入った。 台所から本日の晩ご飯の匂いが漂ってきている。むくりと布団から起き上がってぼんやりその匂いを嗅いでいると、条介が扉のあたりから顔を出した。 「起きたか」 「ごめん、寝ちゃってた」 「いいよ。さいきん忙しかったんだろ」 日曜日だというのにテレビを見ながらうとうとして夕方まで寝ていたわたしに条介は怒りもせずにこりと笑いかけた。これだからプー太郎なのにきらいになれないんだ、なんて言い訳をして立ち上がる。 どれだけ疲れて仕事から帰ってきても、アパートの扉を開けて、とても美味しそうなご飯の匂いがして、条介が調理器具を片手に「おかえり」と笑ってくれるだけでわたしは笑顔になれるんだ。 条介と小さなテーブルを挟んで座って、いただきます、と手を合わせた。 目の前に並ぶ料理はいつもよりずいぶんと豪華で、びっくりして「今日の晩ご飯は豪華だね」と言えば条介が呆れたように「当たり前だろ。今日がなんの日か忘れたのかよ」と言った。 「……え、」 今日がなんの日? え、うそ、今日なんかの記念日だっけ? あわててカレンダーを見ると今日の日付は条介と付き合い始めた日だった。 うわ、やば、やらかした。 「ごめん条介…」 「まさかほんとに忘れてたのかよ!」 手を合わせて深く頭を下げると、条介はすこし驚いたように目を丸くしたあと大笑いしはじめた。 「なんも言わねーで寝てる時点でうっすら思ってたけどな…っくく」 「申し訳ないです」 そうだよ今日は条介と付き合い始めた日じゃないか。なんで思い出さなかったかなあ。いくらさいきん仕事が忙しかったからってこんな大事な記念日を忘れるんだ。あーもう、ほんとわたし最低な彼女じゃん。 罪悪感と自己嫌悪で胸がいっぱいになるわたしと対称的に、条介はぶわっはっはっは、と爆笑している。 「あーやべぇ、久々にこんな笑ったぜ」 「笑うとこじゃなくて怒るとこでしょ」 「いやいや、笑うとこだろ」 フツー女じゃなくて男の方が記念日覚えてるか?、と条介がニヤニヤ笑いながら言う。 言われてみれば確かに普通は女の方が記念日を大事にする気がする(男が大事にしちゃいけないわけじゃないよ)けど、そんなことを言いだせば結婚していないとはいえ女のわたしが働いて男の条介は専業主夫みたいなことをしているんだから、なんとも言えないように思った。 「次の休みにデート行こう。約束する」 「おっ、いいねぇ。海なんてどうだ」 「どうだっていうか毎回海な気がするけど今回はわたしが悪いからなにも言わない」 条介のしたいことに付き合うよ。そう言えば条介は料理をもぐもぐしながら「オレのしたいことねぇ〜…」と考え込む。 条介が考えているあいだにわたしも食べよう、といつもより気合いの入った料理に手をつけた。 「…したいこと、っつうか、さ」 条介がかちゃりと箸を置いた。ご飯を口に入れながら「うん」と続きを促す。 「いつも思うんだけどさ、晩飯作りながらおまえが帰ってくるの待ってんのが好きなんだよな、オレ」 これ食ったらあいつなんて言うかなー、とか、あいつ出ていくとき元気なさそうだったから今日はスタミナつくもん作ろう、とか、今日飲み会っつってたけど無理に飲まされてねーかなあ、とか。 そんでおまえが帰ってきて、おかえりって言ったら笑顔で「ただいま」って言われるのが、すげー幸せなんだよなあ。 「確かにおまえとしたいことはいっぱいあるけど、それよりおまえが笑っでただいま゙っつってくれる方がオレは大事なんだよな」 条介が言った。そしてひとりで「あれ、オレなにが言いたかったんだっけ?」と首をかしげて食事を再開する。 「…条介、」 「ん?」 「わたしも、条介に笑顔で゙おかえり゙って言われるの、ほんとにしあわせだよ」 にっこり笑ってそう言うと、条介は「ありがとな」と少しも昔と変わらない笑顔を浮かべた。 記念日も忘れるような至らない彼女だけど、できればこれからもわたしに笑顔で゙おかえり゙を言ってください。 メルヘンがなく 尚さまより |