幸福実験
かち、かち。と秒針の進む音が静寂の中ではやけに大きく鼓膜を振動させる。
時刻を確かめることすら億劫な、深夜。
夜は嫌いだ。真っ暗な部屋に一人でいると、このまま夜の闇に飲み込まれてしまうのではないかと怯える時がある。音もなく、夜更けに目覚めた少女は、電気のつかない部屋の中で右へ左へ寝返りを打っては自身の気を紛らわそうとしていた。
変な夢を見た。やけにリアルで現実との区別がつかない、時折見る悪夢。ここに来てからは、解放されたと思っていたのに、今になって。

『やっぱり君は頭がいいね』
『さすがは優等生だ』

遠く、意識の底に蘇る誰かの声が、暗闇の中で明瞭に響いて。唇を噛む。
昔から、高水準の能力値を“優等生”だと称されながらも、自分自身に目立つ才を感じたことはなかった。器用であるというだけで、結果だけしか見ていない大人たちから過度な評価を与えられて育ってきただけで、結局のところ自分は優秀だが突出しない人間でしかなくて。
それは決して、“天才”なんかじゃない。
全てに秀でるということは、何にも秀でていない事とある意味では同義だからだ。
暫し部屋に漂う沈黙を聞いた後、彼女はゆっくりと寝床から上体を起こした。

息をついて、うっすらとだが汗に濡れた前髪をかき上げる。
不器用な自分の表面しか見てくれない、周囲の評価が耳の奥で反響して。だけど称賛の言葉はやがて手の平を返したように、期待を裏切りいい子じゃなくなってしまった私への当てつけと失望の眼差しに変わる――そんな夢。
重たい腰を上げて、台所の方へ足を進める。蛇口を捻って、流れ出た冷水を両手に掬うと寝ぼけ眼の顔面にそれを浴びせかけた。が、直後にただでさえ眠れずにいたのにやってしまったと後悔した。誤魔化すように、乾いた喉を水で濡らす。

今夜は晴れた月の夜。カーテン越しに差し込む微量の光を頼りに踵を返せば足を乗せた床がその重みで軋んだけれど、熟睡中の潮田さんがこれぐらいで起きる気配もない。闇に溶け込む薄い青の髪がタオルケットの中から垣間見えて、布の下にある山のような膨らみは僅かに足を折り曲げている状態だとはいえ、自分と大差ない体躯だ。
すぅー、とすり抜けるような吐息に顔を綻ばせる。途端、ぐるんっと勢いよく彼の体が回転して今まで見ていた背中と後頭部が顔に切り替わる。
突然のことに少なからず驚いたが、言葉にならない唸り声の後で再開された寝息から、未だ彼が夢の中であることを確認して胸を撫で下ろした。

枕に半分ほど埋められた、滑らかな白い肌。線が細い中性的な顔立ちは性別を見分け難い。閉ざされた目元を縁取り飾るのは、黒く長い睫毛。唇は桜色で少し薄い。
可愛らしい、という形容詞がぴったりの輪郭が整った面差しを、馬鹿正直に口に出して賞賛すればきっと彼は怒るのだろう。可愛らしく、眉を寄せて。
客人用にと床に敷かれた布団に足先を突っ込んで、腰を下ろすと肩の辺りまで引っ張ってくる。
寝転がった格好で枕に頭を預けると確かな眠気を感じるのだが、いざ視界を閉ざすと無遠慮に貼られた数々のレッテルが私自身に纏わりつくようで。レッテル通りの優等生であることを義務付けてくるそれらは、自分の本心そのものを真っ向から否定してくるようだった。
瞼の裏に闇が無限に広がっていき、自分はその中に取り残される感覚をイメージする。闇の中では、ちっぽけで簡単に消えてしまう位の存在でしかない自分は、広い、広い黒の世界で淘汰されていく……。
ひどく窮屈なあの場所に、きっと私の居場所はない。
自分が生まれ落とされた狭い世界に、居心地が悪く感じたんだ。抜け出したいと、願ったんだ。
そんなはっきりしない行動理念を掲げて、ここまでやってきてしまったけれど。
布団を頭から被ってうずくまり、朝の訪れを待つように。
潮田さんはいい人だ。だが、すごくいい人だと思う反面で、どこか不思議な人とも取れてしまう。
私が人を疑い過ぎる性分なのだろうか。それとも……、なんて。
まどろみに落ちる瞬間まで――ぼんやりと、そんなことばかりを考えていた。


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