幸福実験
6月初めの第一土曜日。
数冊の教科書を開いた机を挟んで向かい合う、少女を見ていて思うことが一つある。
彼女が通うというカトリック系女子高は入試レベル、授業レベル共に全国でも指折りの中高一貫校であるが――それこそ自分の母校である椚ヶ丘には及ばないが――、勉強を見てやると持ち出した当人の僕が大して何も言わずとも教科書の内容を理解しているようなのだ。それについて引っかかる点が浮かび上がる。なぜこれほどの知能を持つ彼女が、家を出てここにいるのだろう――と。
いや居場所についての問題は、自分が同居の申し出をあっさり受け入れてしまったことが理由なのだが。

「なまえさん……学校で何かあったの?」
「ないです」

主語を曖昧にはぐらかしての問いも、鮮やかに一刀両断されてしまった。
いじめとか虐待とかでしょ、ありませんよ。そう言って、手に持っていたシャープペシルをくるりとひと回しさせた後、再びノートに先端を滑らせる。
……彼女との、会話が続かない。あ、勉強中だからか。だったら僕が悪いのかな。
少しも言葉を発することなく黙々と内容を書き写していく姿に、自分の必要性が問われているような気がしてならない。これでも教師なんだけどなー、なんて思いながら真面目な彼女と外来文字の羅列を見つめていた。
つくづく可愛らしい字だな、と思う。この年頃の女子に見られる丸まった字体ではなく、整った形状なのだが握力が低いのか、力強さは見受けられず筆圧も薄くて。控えめで。
まぁ、ただ単に字面に特徴がないだけなのかもしれないけれど。
絶え間なく動かされる筆記具が、文字が埋め尽くすノートの上に滑らせていく。
頬杖を付きながらその様子を見守っていると不意に、くんっ、と服の裾が引っ張られた。向かい側だから呼んでくれれば気付けるのに、やはりまだ僕に対して抵抗があるのかもしれない。どうしたのだろう、首を傾げる。

「潮田さん、ここがちょっと……」

遠慮がちに例文を指してきたので、軽く身を乗り出しながらどれどれ、と教材を覗き込む。普段は小さく感じるテーブルが大きな障害として立ちふさがるような感覚。隔てられたそこに左手をついて、空いている右手でこちら側にくるりと向きを傾けて。

「ここはね、“彼女の話し方はまるで専門家のようだ”だよ。ほら、ここが“as if”でしょ?」
「あ、はい」

納得したように頷いて、再び視線をノートに落とすと筆を進めるなまえさん。
静けさに浸る室内では自分の息遣いがやけに大きく耳に響いて、気恥ずかしくなってしまう。それ以外に目立つ音はない。白い手がノート上を滑り、かりかりと芯が削れる音が小さく鼓膜を引っ掻くだけで、何も……。
ふと気づけばそれすらも止んでおり、ちらりと向かい側に視線を投げればこちらを見ていた彼女の瞳とかち合ったので、どうしたの、と言いたげに口を開くが言葉が声になるより前に向こうが話を切り出してきた。よって僕は口を半開きにさせたまま静止する、というどうにも間抜けな恰好で動けなくなってしまったのだが。

「なんで、何も訊かないんですか?」

少しだけ眉間に皺を寄せて、彼女は机に手を置いた。そっと投げ出されたシャープペンシルがころころと木目に沿って転がっていき、やがて自身のフックに突っかかり、止まる。
静かに揺れる双眸が僕を捉えて離さない。返答を促されたような気がしたが、“アルコールが思考を犯していた”ことで発生した“勢い”意外に理由なんてあるのだろうか。
何も言わない僕に向かって彼女はさらに言葉を続ける。

「よくわからない高校生泊めて、不安じゃないんですか?」
「………。そっちこそ、よくわからない教師の家止まってるじゃないか」
「――っ」
「言い難い事情でもあるのかと思ってたけど、もしかして質問攻めにして欲しかった? 」

言葉を飲んだ彼女に対し、強く問う。
「それは――」と続きの見えない繋ぎを発して、唇を引き結んだ彼女は視線を外す。
俯いてしまった彼女に向かって手を伸ばし、丸い頭に掌を置くと子猫の毛並みのように柔らかい触り心地が絡みついてきたので、幼子をあやすように撫でてみる。手を離してしまうのがどうにも名残惜しくて、しばらくはこうしてなまえさんの髪に触れていたいと思ったが、痺れを切らした彼女の方から制止を訴えてくるので、やむなく放した。

「何も撫でなくっても……」

口から零れた一言に、ごめんごめんと苦笑い。
照れ隠しをするように再び彼女は目を伏せた。


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