幸福実験
ぱちぱちと油が跳ねる音に誘われて、背後ではがさがさ布団から這い出たらしい気配。
春先から始めた一人暮らしの生活にすっかり慣れた身体は、客人が居るという事実に対してどうにも馴染み難い。住人がひとり増えたというだけで人口密度が高まり、自分にとっての城だったはずのワンルームが、緊張も重なり狭苦しく感じてしまうのだ。
見ず知らずの少女を保護した経緯に、今思えば、酔った勢いというものもあったのだろう。回り始めた微量の酒が正義感に拍車をかけ、行動力を後押ししてしまった。
反省はしているが、後悔はしていない。まさにそんな心理状態である。
フライパンの上で転がしていた溶いた卵を傾けつつ、箸で中心より下の方へと寄せながら徐々にオムレツの形を作っていく。

「おはよう。大丈夫?」

挨拶に添えて言葉をかけたのは、ふらふらおぼつかない足取りでやってきたなまえさんの顔色が見てわかるくらいに悪かったからだ。
さすがに制服で寝かせるわけにもいかなかったので、昨夜に寝間着代わりにと貸し与えた僕の服はやはり小さな彼女には首元が緩いらしく、白い鎖骨が目に入って視線をずらす。

「あ…大丈夫…です。低血圧なだけだから」
「そっか。朝ごはん、食べれる?」

尋ねた瞬間、ぐ〜、と鳴る間の抜けた音。どうやら腹の虫は正直らしい。
ばつ悪そうな表情で頬を染めたなまえさんに、皿に盛り付けたオムレツを見せると、ぱっと表情に明るみが差した。
……どうやら常に無口、無表情という訳ではなく、少し感情が表に出にくいだけのようだ。

「潮田さんは、」

今にも崩れそうなオムレツを器用に救い上げながら、控えめに切り出した彼女を見やる。もう少し焼いた方がよかったか、なんて思いながらこれから紡がれる言葉の続きを待つ。

「普段なにやってる人なの?」
「中学の英語教師やってるよ。といってもまだまだ新人だから経験不足で、うまく教えてられるかは微妙なんだけど。…なまえさんの勉強も見てあげようか? 明日にでも」

言いながら見やった今日は月初めの第一金曜日だ。二週間ごとに土曜日には休日出勤を示す丸印がつけられているが、明日は空白。つまりは休日……だからそういってみたのだが、彼女の返答に耳を貸すよりも先に目覚まし時計が表示する現時刻にぎょっとした。
7時45分――あ、46分に切り替わった。
慌てて朝ご飯を口内にかき込んで、腰を上げる。

「っ僕、そろそろ行くからっ! お皿とか流しに置いといて、そのままでいいから。机に電話番号のメモ置いといたから何かあったらそこに連絡ちょうだい。あとこれお昼にでも食べて」

余分に作っておいた簡単な卵料理の皿にラップを被せ、早口で用件だけを手短に伝えると荷物と上着を引っ張って、慌ただしく玄関のドアノブを捻る。

「6時過ぎには戻るよ」

言い残すと、ばたんと扉を閉めた。

***

がちゃり、と外側から鍵が掛けられる音を茫然と聞く。ドアを挟んだ向かい側で遠ざかっていく足音が、どんどん小さくなっていきやがて聞こえなくなった。
薄いカーテンの隙間から垣間見える景色を覗いてみると、水色の短髪を揺らす後ろ姿が遠ざかっていく。
……まるで、嵐のようだ。
オムレツの最後のひとかけらを口に運びながら、そんな比喩を思い浮かべる。飲み込めば、甘いとろみが喉を通る感覚。
「ごちそうさま」と誰に宛てたわけでもない独り言を口にして、手に皿を乗せながら席を立つ。言われたとおり、食器類はシンクに運び入れて水に浸して置いた。

部屋を見渡す。衣類を収納しているらしいタンスと、窓際に寄せられたベッド。朝食をとったそれとは別の、小さな机の上には折り畳まれた状態のパソコンが置いてあり、脇に添えられた紙切れには電話番号だと思われる数字の羅列。
無許可で他人の部屋を物色しようとするほど、自分は躾を疎かにする親の元では育っていない。それでも、普段立ち入ることのない空間には少なからずの好奇心は掻き立てられてしまうわけで。見るだけなんだから問題ない、空しい言い訳を胸中で繰り返しながら、本棚に近づく。
やはり必要最低限のものしか置かれていないのだろうか、と思ったが、本棚に差し込まれた漫画の単行本は同シリーズのものが数巻に渡って続いているので、まぁそんなものなのだろう、20代男性の一人暮らしというものは。
大雑把な感想を抱きながら、潮田渚の部屋に持ち込んだ自分の鞄に手を伸ばす。数冊の教科書と、その奥に収めた財布の中身を確認するが、何かを取られた形跡はない。同じように携帯端末の画面に触れて、ホーム画面を呼び出すと幾つかのメールを受信しており、自分の居場所を問うばかりのそれらは迷わず全てをごみ箱へと放り込んだ。
次いで、通話機能に目を落とせば、そこには大量の着信履歴。著しく恐怖を植えつけるその光景に思わず端末を床に投げ捨てようかとも思ったが……、すぐに理性を取り戻した。

訳もなく、息をつく。この状況は、どうにかしなければならない。けれど私の中に“家に戻る”という選択肢がないこともまた事実で。
いくら潮田さんの人が良いからといっても、親切心に甘えていつまでもここで世話になるわけにもいかない。彼にも彼の生活があるのだから、それを私が邪魔する権利はないのだ。
膝の上で、携帯端末を握りしめた。


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