幸福実験
折りたたみ傘を鞄に忍ばせ、朝の満員電車に揺られる日々が始まった。
息苦しいほど狭い箱の中にぎゅうぎゅうに詰め込まれて。他人の息遣いを頭上で聞きながら、周囲より頭一つ分ほど小さな自分はつま先立ちでなんとかその場に留まろうとする。
がったん、がたたん。不規則な揺れが起こる度に体制を崩しそうになるが、転んだところで別の誰かに凭れ掛かるだけだろう。迷惑そうな目で睨まれて、強引に身体を引っぺがされて、すみませんだのなんだのと謝罪をもごもご呟きながら再び揺られることを再開する。どれも目に見えるような展開だ。それくらいなら我慢できるかもしれないな。狂い始めた自分の中の感覚に従うわけにもいかないのだけど。
現状、何よりも問題のはこの睡魔だった。

「――痴漢ですッ!」

気が滅入るような静けさの中、若い女性の声が上がって、瞬間、僕はびくりと体を縮めこませた。
自分よりずっと後方を横目で追いかけ、現場を伺うがすし詰め状態の車内でいま何が起きているのかを把握することは不可能で。被害者には悪いが、自分には何か特別なアクションを起こすような真似は出来っこない。
そもそもあそこまで行くことすらできそうもないのだと、自分の心に言い訳を繰り返す。

やがて電車は駅に着く。いくつもの足音が重なり、床を伝って自分の足裏に響く振動が鼓動とは別のリズムを刻む、何とも言えない心地の悪さ。
やっと解放された、と安堵するのも束の間で足取りをしっかりと意識しなければ人の波に流されそうになってしまう。それに自分の身長は関係ない、断じて。



その夜、ニュースを伝えるテレビ画面の画面に見慣れた駅が背景として映し出されていた。朝の痴漢事件を遅れて報道する音声を横目に流す。
携帯端末の画面をスクロールするだけでも諸々の情報は得られるので、リモコンを操作すると慣れない騒音を消し去った。
途端に部屋に満ちる静寂に耳を傾ける。
一人きりの部屋も逆にうるさい静けさも、生活の全てが元に戻ったことを意味している。彼女がここに来る前の、散らかっているとも整頓されているともいえない自室へと空間は何事もなかったかのようにリセットされた。
時間と共に全部が本来の姿へと、そのありようを戻していく。
だけど一つだけ戻らない何かが自分の中にはあるような気がして。

ぽっかりと心にひらいてしまったようなこの穴も、いつか時間が塞いでくれるのだろうか。

わからない。
これまでの日々が“過去のこと”になるほどに時が流れないことには、多分変化は感じられない。

朝露が渇く頃には忘れてしまえるのだろうか
やっぱり僕は君の姿を探してる


PREV NEXT

目次ページへ戻る
- ナノ -