幸福実験
あぁそういえばもうすぐだったな。と、ほんの少し意識をそちらに向ける程度。
この歳にもなれば自分の誕生日への認識なんてそんなものだ。現に今だって身に覚えのない丸印がカレンダーの日付に付けられていてようやく気が付いたくらいなのだから。
恐らくなまえが書き込んだものだろう。無断で人の所有物に書き入れる辺りは注意した方がいいのだろうが、几帳面な彼女のおかげで忘れっぽい僕は助かっているためそのままだ。
幸いにも自分が生まれた日と勤め先の創立記念日とが見事に重なっているためここにいる間の授業は休みである。当日も出勤することに変わりはないにしろ、いつもよりは早く帰宅できるだろう。
部屋着の袖に腕を通して着替えを終えると、ベッドの上で膝を抱えるなまえの隣に腰を下ろす。その際、「どっこらしょ」という年寄りのような掛け声がうっかり口から出てしまい、慌てて話題を振って誤魔化した。

「どうだった? 期末テスト」

聞いてみるとがさごそと彼女は鞄を漁り始める。

「詰め込み教育について行けるだけの理解力と気力はあるから」

悪戯っ子のような笑みで差し出された答案用紙に並ぶのはたくさんの丸印。
うちの生徒も少しは見習ってくれればいいのに、と嘆息する。

「期末だし、さぼってたし、前より点数落ちたけどそれでも取っつきやすくなったみたいで、会話とか増えた。やっぱりひとりは寂しいからこれでよかったよ」
「そっか。うまくいってるみたいで安心した」

クラスメイトとの会話すらままならないような孤立状態であった以前のことを、他でもない本人から聞き知っている身としてはそれだけでもかなりの進歩に思える。
そのとき不意に、肩に乗せられた少しの重みにそれがなまえの頭であることを一瞬遅れて理解した。珍しい、と思いながら甘え下手なりに精一杯甘えているらしい仕草を受け止めて。

「おいで」

ぽんぽん、と軽く叩いて自分の膝に乗るように促せば、遠慮がちに腰を浮かせて太股に跨る形で体を預けてきた。あまり背丈の変わらない彼女とは、抱きしめ合うとすぐ横に相手の顔が来る。

「なんかなまえ、猫みたいだね」
「なんで?」
「スマホいじってるとこうやって乗っかってくるんだって。かまって〜、って」
「私は人間だよ」
「でも初めて会ったときとか捨猫みたいだったよ。拾ってください、って今にも言い出しそうな顔してるなーとか思ってたら泊めてくれとか言い出すし。つい拾っちゃったんだ」
「渚、お酒飲んでたでしょ、そのせいで幻聴でも聞いたんじゃないの」

顔を背けて半分ほどムキになって否定してくるなまえに、どうだろうなぁ。と意地悪く笑うと回された手に背中を強く抓られた。引っ掻いてこない辺り、本気で猫が嫌な様子なので話題を変えようと試みるが都合よく話題など見つかるはずもなく。
何となく、素直に欲求を口にしてみた。

「キスしようか」
「どうやったらこの文脈で。何の脈略もなさすぎる」

そう文句は言いながら受け入れる体制を整える彼女がかわいらしくて仕方ない。
後頭部に手を回して引き寄せて。そっと唇を重ねれば伝わる熱が心地良い。子供同士のお遊びのような、触れるだけの短いキスは酷く甘美で。
やばい、止まらなくなりそう。
自覚するが早いか、すっと身を引き距離を置いた。それでもまだなまえを腕の中に閉じ込めているのはせめてものわがままだったけれど、少しづつ、氷を溶かすように力を緩めていく。
できることなら抱き締めるこの腕を離したくはない。このまま彼女を帰したくはない――なんて、未成年者に対して馬鹿正直に言える立場ではないのだ。硬く理解していながらも思ってしまうのは致し方ない。
おとなしそうな外見に反して自分のやりたいことは何を犠牲にしてでもやり遂げるなまえは、それ以上の優しさを持ち合わせてもいるから、欲求をそのまま口に出せば健気に叶えようとしてくれる。でもそんな風に甘えていてはいけないのだ、大人として。そうでなければ示しがつかない。
呪文のように唱えた言葉はつっかえ棒のように、間違ってもそれ以上の行為に及ばないよう歯止めをかける。
願わくば、この幸せな時間がずっと続いていくように。


第1話サブタイトルの伏線回収。嘘です。


PREV NEXT

目次ページへ戻る
- ナノ -