幸福実験
社会人として迎える1年目――空気が含んだ湿り気から梅雨入りが近いことを感じさせる、夏を間近に控えた6月の日。
修学旅行終了の打ち上げも兼ねた飲み会に出席した帰り、二次会への勧誘を振り切って僕は自宅への帰宅路についていた。
社会に出て、同期との関わりを持ち知ることになったが、二十歳そこらの若者とは事あるごとに飲みたがる。3年支え合ってきた交際相手に突然の別れを告げられ悲しいから飲み、今日は仕事で企画が通ったから景気付けと称して飲み、そうでなくても何となくそんな気分だから飲む……。まぁ、同じ学年を受け持った彼が大層な飲みたがりというだけなのかもしれないが。
同期の愚痴に付き合うとなれば、こちらも少しは口にすることもあるわけで。
すっかり慣らされてしまったアルコールの苦みは未だ舌に纏わりついたままだが、酔いは浅いのか視界が揺れるようなこともない。使いなれた駅の改札口を通り抜けて、どこかでタクシーでも拾おうか、と視線を巡らせた先。
電灯の光が届かない薄闇の中で、身長差の開いたふたつの影が対峙していた。が、どうにも様子がおかしい。ナンパ、だろうか。そんな考えに、僕はどうにも違和感が拭いきれなかった。会話の内容こそ耳に入らないが、攻め立てるような声を上がったからだ。
ただでさえ、この近辺は治安が悪い。じっと一点に集中して目を凝らせば、だんだんと姿が目視できるようになってくる。
見えてきたのは明るめの茶髪と着崩された制服。いかにも不良です、といった風貌の男子高校生は態度の悪さも相まって、威圧感がありありと感じ取れる。対する私立のお嬢様女子校の制服を纏った、幼げな美貌の少女はすっかり困り果てており、上から降る鋭い眼光に彼女の方も萎縮してしまって、逃げ出すことすら頭にないのだろう。
足が竦む恐怖と共に陥ってしまうパニック状態では、思考回路もままならない。あれは危険だと、直感する。

「あんたがぶつかってきたとこさー、痛くて痛くて肩があがらねーんだよ。いいところのお嬢ちゃんなら慰謝料くらい払えんだろ? なんならカラダで責任取ってくれてもいいんだぜ」

華奢な腕に掴み掛かった男が下衆な言葉を吐いたのを引き金とし、足が動いた。

「その子に何してるの?」

出来るだけ、低い声音で。吐き捨てるように。威圧するように。
突然現れた邪魔者同然な自分の存在に、振り返る彼の表情には驚きと困惑の色が見て取れて。だが、少女を庇うように立ちはだかる僕の小柄で頼りない体格を前にして、余裕を孕んだ声が嘲笑う。

「ちっさい兄ちゃんよォ、ヒーロー気取るのはいいけどよォ、ケガしたくなかったら引っ込んでた方が身のためだと思うぜ?」

なぁ?と前のめりになりながら、気持ちの悪い笑みに顔を歪めて囁く男子高校生に、緊張した面持ちでいながらも考えを巡らせる。放っておけずについつい反射的に飛び出したはいいものの、ほとんど勢いだったから打開策など持ち合わせているはずもない。
教員という誠実性が問われる職業上、表沙汰になるような問題を起こすわけにもいかないのだ。況してや学生が相手なのだから、不良といえど訴えられたら弁解の余地はないだろう。
あれでもない、これでもない。と迷っていると。
ダァン!!と、痺れを切らした男が付近の壁に力強く右拳を叩きつけたことで発せられた、鼓膜を貫く痛々しい音が、悶々と思案していた意識を呼び戻す。
相手の顔色を見る間でもなく、苛立ちが滲み出ていることは、誰の目にも明らかだった。
こうなったらもう、手段は選んではいられない。
覚悟を決めて、両手を前に出す。頼りがいのない、恐る恐る、といった腰の引けた態度に自分自身でも驚いたが、殴り合いの喧嘩に持ち込む気はないので向こうが受け身の姿勢を構えたところで関係はない。相手の眼前まで手を持って行くが、彼はまだこれから何が起こるかを予想できてはいないらしく、ただ得体のしれない緊張感をどこかに感じて、額から汗が噴き出している。

心臓が波打つのに同調して、次第に高波を呼ぶ“意識の波長”が確かに見えた。
緊迫感が絶頂に達したその一瞬を見抜き、手のひらを、叩き合わせる――

――パァン!!

破裂音にも似た軽い音が弾けた。
突然のことにほうけている少女に「逃げるよ!」と叫んで手首を掴むと地面を蹴った。
恐らくは人生で一番濃いであろう期限付きの青春を謳歌した、中学校最後の年。暗殺教室を卒業した後は、幸いなことに使わざるを得ない瞬間とは無縁だったおかげで威力にブランクを感じたが、逃げ出す一瞬を作ることが出来たのだ。それによって自分も彼女も無事だったわけだから、まぁ良しとしよう。耳を叩く夜風の音を聞きながら、一人思った。

「こっち!」

走る速度を加速させながら、腕を引いて足を動かす。
そうして彼女を引っ張るように、後ろに流れて行く景色を覚えることもせずに走り続けると、強く腕が後ろに引かれて振り返る。すれば、彼女が息を切らしながら、懇願するように自分を見つめていた。

「あ……、ごめん、夢中で……。大丈夫? どこか怪我とかは?」
「ぜぇ、ありま…せ……」

掠れ声で首を振りながら答える。ぜぇぜぇ言いながら大きく上下する肩を見て、どっと胸中に申し訳なさが込み上げてきた。

「ごめん。駅から離れちゃったけど、家はどの辺り? 側まで送るよ」
「……――」
「どうかした?」
「あっいや……、裏道抜けて、突き当たりをまっすぐのバス停までで大丈夫、です」

その返答に、どこかぎこちなさを感じたがあまり深くは気に留めず、後ろをついてくる彼女の一歩先を先導するように歩き出した。

「あー……っと、名前、聞いてなかったね」

振り向きざまに薄く笑って目を見ると、制服のポケットに手を滑らせて紺色の小さな生徒手帳を取り出し、目の前に突き出される。そこに書かれていたのは予想通りの学校名と指先で隠れて見えない住所、学年、そして彼女の名前。

「みょうじ…なまえ、さん?」

こくり。小さく頷いたので、高3か…受験生だね、とも付け足してみると同じように肯定される。

「僕は潮田渚っていうんだ」
「…名前も女みたい」

ぼそりと可愛らしい声が呟いた。
名前“も”って……。ようやく彼女の声が聴けたと思ったら、まさかそんな感想だなんて思いもしない。中性的としかいいようのない容姿ばかりは仕方ないと半分諦めているものの、どうやら必要最低限の言葉しか発しないらしい少女にまで言われてしまうと、やはりがっくり肩を落としてしまう。
成人する頃には伸びるであろうと思われた身長も、悲しいことに中学時代と大差ない小柄なまま。女性的な顔立ちに加えての背格好なものだから、夜道を共に歩くには頼りない部分もあるのだろう。

「大学生、ですか」

始めて彼女の方から声がかかった。

「うん? ――ううん。これでも社会人」
「一人暮らし…?」
「まあ一応」

その返答で、会話は途絶えたと思われた。
だから再び前を向いて歩き出したのだが、直後に「あの!!」と背中に声がかかって、彼女を見れば視線を外される。妙に慌てているようで、戸惑いを隠せていない挙動不審な様子に首を傾げた。

「しばらく、泊めてもらえませんか?」

彼女の愛らしい声が響く。

「あ……。やっぱり……」
「うん、いいよ」

僕があっさり許可したことに彼女は大層驚いていた。

「けど、親御さんは? 心配して探してたりとか、してるんじゃない?」

問いかけると言葉を見失ったように押し黙る。
こんな時間に、こんな場所で年頃の女の子がひとりでいる時点で、気が付かないわけがない。この子には、“何かある”と。良くて保護者との意見衝突のすえの家出か、酷ければ……。
保護者に無許可で未成年を家に引き上げることも自分にとっては大きなリスクでしかないが、ここで引き離して何か事件が起こるようなことがあってはきっと僕は自分を許せない。

「大丈夫です、置き書きは残してきたし…」

事情を勘ぐろうとする手が中断せざるを得なくなった。さすがに僕の考えすぎだったのだろうか。などと余計な迷いが水を差す。
ますますこの子が見えなくなった気がした。

家出少女を迎え入れてしまうくらいには、酒は回っていたのだろう。


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