幸福実験
カーテンを閉め忘れた窓から、日が差している。
知らない間に随分と高く昇ってしまった陽光を顔に浴びて、青年の意識はゆっくりと引き戻された。寝起きでぼさぼさな薄い色の髪をかき上げて、緩慢な動作で上体を起こす。
目に映るのは、机と椅子と、その背もたれにかけられた薄手の上着。背表紙の押し込まれた本棚と、その隣の衣装棚。真新しい純白が生活感の無さをそこだけ際立たせる無機質な壁。
寝ぼけまなこで見渡した部屋の中。この場所が、いつも通りの自分の部屋であることを確認して。
いま、何時だろう……。
小さく、そう呟いた。
窓の外から小鳥の軽やかなさえずりが聞こえてくる。それ以外は何も聞こえない自室のベットで、彼は大きく伸びをして。
――次の瞬間、何かを思い出したかのように突然動きを止めた。
ぎょっと見開かれた大きな瞳が硬直したのはおよそ数秒。すぐさま枕元にあった目覚まし時計を引っ掴み、鬼のような形相で食いつくが如く針を睨む。
やがて時計が示す現時刻を認識した水色髪の青年――潮田渚は、心地よく漂う静寂を遠慮なくぶち破って絶叫した。

「うっ……嘘ぉおおお!!?」

大慌てでタオルケットを跳ね除けて隣人から文句を言われかねない足音を響かせながら、通常よりも三倍速の着替えを終えてベッドの前で膝を折り曲げる。正座の必要性はまるでないのだが、緊張感が自然とそうさせてしまうのだ。いくつもの謝罪の言葉を頭の中で並べながら携帯端末のロックを解除し、さぁ電話をかけようというところで目に留まる、現時刻の下に小さく表示されていた日付と曜日を凝視して、停止。

「なんだ……今日、日曜か……」

安堵のため息、そして猛烈な脱力感。危うく布団の誘惑にかまけて二度寝に陥りそうになったところをぐっとこらえる。
今度は疲労困憊といった様子で大きく息を吐き出しながら、肩を竦める渚は台所につま先を向けた。



一ヶ月とは、こんなにも短いものだっただろうか。
時刻的に朝食だか昼食だか分からない食事を終えて、洗面所の鏡の前に立ちぼんやりと歯を磨いているのだが、何だろう、口の中がやけに泡立つ。だがそんな違和感すら、絶望的な眠気を前にしてはすべて「眠たい」の一心に塗り替えられてしまうようだ。
映し出されたもう一人の自分と向かい合う。左右対称の渚はやはり鏡の中でも、歯ブラシを口に突っ込んだ状態でしゃこしゃこ手を動かしており、顔つきといい髪型といい、現実同様どうにもぱっとしない。
さて顔を洗おうか。
息が出そうになったが、それを誤魔化すように置いてあったハンドソープに手を伸ばす。そこで初めて並べて置いてあった歯磨き粉と石鹸の順序が逆転していることに気が付いた。
あぁ、間違えたな、僕。
これで口内の異様な泡立ちにも苦さにも頷ける。というか何だ、この凡ミス。
普段より幾分念入りなうがいを終えて、石鹸の味を吐き出すと蛇口を占めた。

***

夢を見ていた気がする。
宇宙ステーションをハイジャックすることに成功したはいいものの、飛行士たちを脅すために持って行った爆弾――といっても中身は羊羹、のはずだったものが、どこかで詰め替え忘れたらしくそれは正真正銘、爆弾だった。最終的に広大な宇宙のもずくと化し、齢15歳にして人生を終了させられる……というあまりにショッキングな内容に、なぜ自分が跳ね起きなかったのかがひたすらに疑問だ。
どうやら、成功したはずの実体験が滅茶苦茶な失敗体験に置き換わっている夢を見やすい体質らしく、今までに何度か同じような悪夢を体験したような気がする。
なんでだろう、今更ながらに不安感でも感じているのだろうか。
思案に暮れながら本棚の前に立ち、単行本の巻数を数えてみる。脇に積み重なった週刊誌は来週あたりに新聞と一緒に区役所に出しに行くとして、そろそろシリーズの新刊も出ている頃だろう。

ふと肩の力を抜いたとき、室内にバイブレーションが響いた。ベッドの上に投げ出されていたスマホを取る。

「…080……?」

スマホの画面を覗いてみるとそこにはまったく知らない電話番号。誰だろう、と首を捻りながらも通話をオンにする。

『もしもし』
「………」

どこかにあどけなさを残した少女の声。
聞き覚えのある柔和な声音。ほんの一ヶ月前までは毎日のように――正確には2週間足らずの僅かな期間だが――耳にしていたはずの、それ。咄嗟の事に相手の名前が出て来ない。
どうしてきみが。だってもう戻っては来ないと、会えないし声も聞けないと、そう思っていたのに。なんで、どうして。

「なまえ、さん……? だよね?」

同じ単語を胸の内で繰り返す自分の舌が象ったその名前を、噛み締めて。

『お久しぶりです』
「おひさしぶりです…」
『お元気ですか』
「おげんきです――あ、いや、はい元気です」

言い直す途中、声が跳ね上がったように上擦ってしまった。

『なんで番号知ってるの、って思いましたか?』
「まぁ、なんで一ヶ月も覚えてられたの、とは思ったけど」
『教えたこと覚えててくれたなら良かったです。何も言わずに出てっちゃってごめんなさい。ずっとかけようかけようとは思ってたんです。でもなかなか発信ボタンが押せなくて、なんて言えばいいかもわからないし、迷ってる間に気付いたら一ヶ月も……』

彼女の言葉を、聞いていた。
饒舌とはいえない口で一言ひとこと、小さな声でもゆっくりと確かに紡いでいく言葉。
ねえきみは知っている? きみがいないこの一ヶ月、僕はずっと寂しかったんだよ。久しぶりに人のぬくもりに触れてしまってからの誰もいない部屋はとてもじゃないけど広すぎた。ほんの少し前と同じ日常に戻るだけだと言い聞かせても、感情をうまくコントロールできるほど僕は人間が出来ていなくって。
知らないだろう、僕が感じていた寂しさも、孤独感も。

『直接会って話したいって思ったんです』

ピンポーン、と部屋のインターホンが鳴る。相手を確かめる必要性も、一度端末を置く必要性も感じられずに扉を開けた。

「お礼言いに来ました」

受話器を通さずに聞く彼女の声が響くだけで、心地よく鼓膜を揺らしてくれる。
ふわりと静かな風に揺らされる夏服の裾が、視界で眩しく反射した。
彼女が今ここにいる。今更ながらに頭で理解し、だがすべてを信じるところまでは至らずに相手のものと繋がったままである端末と本人を見比べた。

「別に私は偽物じゃないです」
「それはそうなんだけど……。なんかびっくりしちゃって」

ちらりと見遣ったなまえさんが引き締まった表情で何を言うかとこちらも思わず身構える。

「潮田さん、付き合ってくれません?」
「…………」

問いかけへの受け答えに、随分と時間を要したものだと我ながら思うが。しかし。

「……。どこに?」

やっとの思いで言葉を返し、恐る恐る視線を上げれば、それと同時に手が伸びてきて僕の頬に触れた、と思った途端に力が籠って思い切り抓られた。痛い。すごく痛い。ものすごく痛いから離して欲しい。暫しの沈黙の中、互いの視線がぶつかり合って、やがてその行動の真意に辿り着いた時――。

「え!? えっ、…えぇぇえっ!!?」

小さな手が顔から離れ、腕の辺りの服を指先がかわいらしく摘まんで留まる。
予防線を張り過ぎた結果なのだが、現実として受け止めるには脳の回転力が低下しすぎており嬉しい以上に信じられないという気持ちの方が強すぎて。

「それって男女交際で間違いない?」
「それ以外に何がありますかね」

活字に直せば大層な落ち着きを見繕っている彼女だが、薄く色づいた頬からはありありと恥じらいの色が見て取れて。あぁ、この子も同じ気持ちなのだ。
僕の二の腕を掴む力が次第に弱まっていく。するりと服の袖を滑って下ろされた彼女の手に、今度は自分の方から触れた。優しく握って、互いの指を絡ませ合う。
不意に彼女と目が合ったので少し笑ってみると、すぐに逸らされてしまった。
その様子にくすりと笑みが零れてしまう。

「とりあえず、中入る?」
「うん。」

繋いだ手は離さずに還ってきた少女を招き入れると、初夏の訪れを告げる涼やかな風が舞い込んで、頬を撫でた。肺を満たすのは湿り気を感じない澄んだ空気で、気分は晴れやか。
7月、第一日曜日。雨季が去るには例年よりも少し早いが、そろそろ季節が進路を変えて夏の猛暑日へと舵を切る頃。
お世辞にもおしゃべり上手だとは言えない彼女の話を聞いて、口下手なりにも自分のこともたくさん話して。知っているようで何一つ知らない、相手のことはこれから知っていけばいい。
てのひらから伝わるぬくもりは、きっと二度と手放すことはないだろう。
物語は、これから――ここから紡いでいく。

(小指と小指にリボンでも結びましょう)


幸福実験 fin.


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