幸福実験
まず、自分がベットで寝ていることに驚いた。倒れたなまえさんに譲ったはずの場所に、なぜ自分が……嫌な予感に駆られて隣を見遣るもそこには誰もおらず、ますます不安を募らせていく。
まずい、記憶がない。厳密にはキスをしてしまってからをまるで記憶していない。
覚えていないということはつまり“寝た”ということなのだろうが、意味を取り違えている可能性を否定しきれないのが歯痒いところだ。
それでも自分の腕はしっかりとパーカーの袖に包まれている。服を着ている。怠くはない。ベット脇にティッシュが丸めて投げ捨てられているのを見てしまったが、多分あれは彼女の涙を拭ったときのものだ、恐らく。
首だけを持ち上げて慣れ親しんだ景色を見渡す。早朝、まだ6時にもなっていない。いつもならこのまま眠りについてしまうところだが、今日は例外的にベッドを抜けようと脳が訴えていた。授業はなくとも仕事はあるのだ。
床に足を乗せると、なまえさんに貸した洋服が畳まれて壁際に置かれているのが目に入った。あれ、本当に何もなかったよね…? 一気に蒸し返す心配事を振り切って。
先ほどから食器同士の触れ合う音が聞こえるし、彼女が居るのは恐らく台所だろう。朝ご飯の支度でもしているのか、と思いながらマットレスから腰を浮かせた。

「お、おはよう」

喉に詰まったところを押し出すように、ぎこちない挨拶が漏れた。
制服に着替えたなまえさんはやはり青白い顔色で、昨日の発熱を引きずっているのかそれとも低血圧によるものなのか判断に迷う。

「体調、どう?」

コンロのスイッチを切る音を聞き、切り出してみる。

「熱は引いたのでもう平気です、外も出れます」
「ならよかった。けど今日はまだ安静に…」

安静にしてて。
言い終わらない言葉を遮るように、朝食を机に置いた彼女が声を放つ。

「私、郵便取りに行ってきますね」

僕が止めようとするより先に、玄関から出ていこうとする彼女がふわりと目を細めて、こちらを見る。玄関の戸の開閉音が部屋に渡って、小さな足音は次第に遠のいていく。
万が一にも倒れたりしなければいいけれど。
水道を捻ってコップに水を満たす。乾いた喉を潤してから、視線を向けたカレンダーで今日も出勤しなければならないことを確認して、息をついた。再び玄関口を向く。
それにしても、おかしい。
遅すぎやしないか。郵便物をポストから中に取り込むだけの単純作業だ、3分だってかかるはずはないのに。……なのに、彼女は一向に戻らない。
どうしたのだろう。最初に生まれたのは、純粋な疑問。
もしかして何かあったのだろうか。次に脳裏を掠めたのは、一株の不安。
そのとき不意に視界に映り込んできたものが、悶々とした自分の思考を答えに辿り着かせる何よりの確信材料だった。彼女の、荷物がないのだ。置き場を変えることはおろか、自分が手すらつけていないとなれば、答えは一つ。本人が持ち出したということになる。
普通に考えてみれば、ほんの少し外に出るだけなのだから――なまえさんが僕を信用していないということも十分に理由としては考えられるが、それを差し引いても――わざわざ教科書の詰め込まれた重い鞄を持ちだす理由など、見当たらない。
一体何故。
そんな疑問を一瞬だけ抱えた後、電流のような閃きが脳を走る。

“なまえがここを出ていった”

そこでようやく、思考が確信に追いついた。

「ッ!」

考えるより、行動に移すのは遥かに早かったように思う。
慌ただしく扉を押し開け外を見回すが、そこにはやはり誰もいない。
それどころではなかったために寝間着に着替え損ねた昨日に感謝して、地を蹴った。

住宅街、裏道、駅前……。
人影を見つけ出すだけでも苦労する早朝という時間帯だ、家を出たことに時間差があるにしろすぐに追いつけるだろうという考えが甘かったらしい。
あの子にとってここは見知らぬ土地で、居そうな場所の心当たりなどあるはずもない。
とにかく見つけ出さなければ。まだ昨夜のことを謝ってすらいないのに。なまえさんを見つけないことにはそれもできないのだから。
だから、追いかけて――もしも追いつけたら?
そのとき、自分は一体何をしたいのだろう。第一に謝罪を述べてから彼女を連れ戻すのか。連れ戻して、どうするのだろう。それは、また一緒に暮らして、それから……それから?
それからどうするの?
自己中心的な考えの末に至る結末は、あの子の未来を邪魔する以外の何物でもないのに。依存し合う関係を根まで築いたところで、自分も彼女も幸せになどなれっこないのに。
じゃあ、どうして。盲目的になまえさんの姿を探す自分。何をしたいのか、と胸の内で繰り返すそれはまるで自問自答のように。
最初は同居人として側にいられれば良いと、純粋に思っていたはずなのだ。しかし、純な好意は一変して相手に触れたいなどという生々しい欲望にすり替わる。誰よりも近くにいる、それだけでは満たされず、行き場のない欲求だけが募っていく。もっと、と。
何故あのような行為に及んだのか、自分自身も理解には及ばない。敢えて言うなら博打のような賭けだろう。拒まれて終わりかと思われたが、唇を塞がれて驚いたのは自分の方で。ますます自分と相手の気持ちが分からなくなり、胸が締め付けられるような痛みにかられてしまう。
いつしか少女に対して抱くようになった感情の正体は、誰も知らない。
いっそのこと教えてほしい。喉から出かかったその言葉を飲み込んで苦笑いした。

半信半疑、不確定な感情に相応しい名は――きっと恋愛感情なのだと。立ち止まって、理解して、そして。
やがて僕は、帰路に向き直ると踵を返す。


千夜一夜はもう終わり

ごめんなさい、愛してました


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