幸福実験
「起きてる…?」

問いかけると、頭をすっぽり覆っていた布団がずり下げられて現された瞳と闇の中で視線が交差する。起き上がる気力もないまま、瞬く双眸は熱に潤んでおり、か細い声が「寝てる」と返してきた。
10日弱の期間を過ごしてきて知ったことだが、普段は滅多に自己主張をしないなまえさんにも子供らしい悪戯っ子のような面がある。

「聞いても、いいかな」

遠慮がちな声が出た。彼女に許可を得る間でもなく、僕は“問い”を口に滲ませる。

「どうして家を出たの?」

少しの迷いを見せた後で、やがて彼女は口火を切った。

「疲れたの。成績上位の『優等生』をでいることに、疲れた。周りに過剰なくらいに期待されるのが嫌になって、同級生から『お堅い優等生』のレッテル貼られて距離ができるのも苦しかった」

小さな声で、過去をなぞるかのように紡がれる言葉。
外界の音がやけに遠い。カーテンを透きぬけて入り込んでくる淡い月光の中で見る少女の姿は、脆く儚い硝子細工のようで。薄闇に生える雪色の掌に自分の手を重ねると、籠った体温がじわりと伝わる。

「みんなから必要とされているのは『優等生であり続ける』私。そういう形容詞の付いた私じゃないと、見てすらもらえないんじゃないかって、ずっとどこかで感じてた」

悲哀を強く刻んだ声色が、静かに言葉を重ねていく。

「でも期待されている以上は応えなくちゃいけないから。認めてくれる人達のために頑張らなきゃって」

でも、気づいたの。と彼女は情けなく笑う。
立派な人間。模範的な人間。尊敬にたる、真面目で良い子……。嫌われるのが怖くて、レッテルを貼られること自体を少女は受け入れてしまった。彼らの望む通りに振舞わなければ愛して貰えないと、そう信じ込んでしまった。周りが知らない自らの弱い部分を否定し、素のままの自分でいることを放棄してまで“いい子”の生き方に徹してしまった。
だからその所為で、本来の自分を見失ってしまったのだ――と。
苦しそうなほどに不自然な、へたくそな笑顔に心が抉られるような痛みを覚えた。
堪えきれなくなった涙が目尻から溢れて、こめかみの方に伝っていく。引きつった笑顔が崩れ始めていることに、果たして彼女は気づいているのだろうか。
嗚咽は聞くに堪えなかった。
手を伸ばして、指先で雫を掬う。それでも涙は絶え間なく流れ続けるので、ベッド脇からティッシュペーパーを1、2枚抜き取り、彼女の目元にそっと触れさせると、上体を起こしておとなしく拭われてくれた。

「なまえさんはいい子だよ」

伏し目がちな瞳と目が合うことはないままに、ふるふると横に頭を振られる。

「どうして?」

そっと問いかけてみても、返答に困ってしまったかのように黙りこくった彼女は何も答えを寄越さない。一度溢れた涙を止めることは出来ないで、固く口を引き結ぶ。
床に膝を立てて彼女と目線の高さを揃えると、背中に手を回して自分の方へ引き寄せた。すっぽりと腕の中に納まってしまった頭を撫でると仄かにシャンプーが香る。
自分の中で何かが疼き始めたことはもうずっと前から知っていた。それでも抱き始めた感情には必死の思いで蓋をして、押し留めてきたはずなのに。固めた決意はいとも簡単に揺らぎ、見ないようにと目を逸らし続けた本心が解かれていく。膨らんでいく。
抱きしめる力を緩めて意識してなまえさんと距離を置いた。

「ごめんね。下心がないとか、嘘だ」

――うそに、なってしまった。そういう方が正しいだろうか。

「潮田さ、……んっ」

彼女の頬に手を添えて、唇を塞ぐ。重なった口から伝わる熱、柔らかな感触が心地良く呼吸も忘れて味わうように。啄むだけのキスは数秒と経たずに相手を解放した。
「ごめん」と口を開きかけた時。喉まで出かけた謝罪の台詞が声となって空気を揺らすことはなく、代わりにくぐもった音が漏れた――再度、交わった唇の隙間から。
か細い腕が自分の肩に回されて後頭部をきつく捉え、退路を無いものとするその行為からは逃がさまいとする意思がありありと感じ取れて。しかも阻止しているのが彼女の方、という事実にただ驚かされた。
なんで、どうして。浮かんだ疑問が、快楽を受け止め浸ることを寸前で停止させるが、密着した体、服越しに伝わる柔らかさが思考の邪魔をする。
さすがにこれ以上はまずい。頭の中で警告音が鳴り響く中、ぎゅっとその肩を掴むと無理矢理に引き剥がした。
目は、合わないまま。

「寝ます」

何事もなかったかのようにただ一言、そう言って。頭を覆い隠す高さまで引っ張り上げた布団にくるまり、起こしていた半身をベッドの上に落ち着ける。
何が起こったのか理解しかねる頭に布の擦れる音が響いた。
まだ感触が残っている気がして、口元に掌を持っていく。
――どうすればよかったのだろう、僕は。
しばし部屋に漂う沈黙を聞いた後、息をついた。


夜の蓋をきちんと閉めて

やがて朝焼けに染まるから


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