幸福実験
それは――ここ数日の、あまり体調に優れないことを自覚しての行動だった。
私は体がそこまで強くはない。だから熱を出すこともそんなに少なくない。環境の変化やストレスで、あっという間に体を壊す。
恐らくは、広くて不自由のない、そして酷く居心地の悪い自宅を飛び出してから……正確には彼の家に来てからだっただろうか。だんだんと、起きる度に身体が重くなっていくのを感じ始めたのは。
潮田さんの部屋に来たことが、そんなに自分には苦しかったのだろうか。きっとそうなのだろう。何となくだが、そんな予想を立てる。
首に巻き付くリボンタイの結び目を緩めると、滲み出る汗が手についた。

私には、時間が必要だったのかもしれない。窮屈な生活から離れて、優等生であり続けるなまえを自分から引き剥がして、長年閉じ込めていた己の本音と向き合い直す、時間が。
改めて開放された心を見つめ続けるのは、とても辛いものだった。自分の弱さを正面から受け止めて、否定も浴びせずただ受け入れていくというのは簡単なように見えて、実際のそれは拷問に等しい。
答えを見つけ出すのにも、心の整理を付けるのにも、一週間という期間は短すぎる。だがこのまま思考を巡らせているだけでは事態が好転するはずもないのだ。
考えても答えが出ない時。こういう時、どうすればいいのかなんてわかっているはずだと、自分の心に強く問いかける。
解決法は、答案用紙と向かい合うときと同じなはずだ。わからなかったら、あてずっぽうでも答えを書けばいい。空白を、埋めてしまえばいいだけのこと。
そう、同じなんだ。
同じなんだから、できるよね――優等生のみょうじなまえなら。

迎えた8日目。私は突き進む。喧嘩した覚えなどない、旧友の元へ、仲直りをしに。

***

鍵を開けて、ドアノブを引くと、しんと静まり返った室内は灯りが消されたままだった。それはほんの一週間前と変わらない状態。なのに、後手に玄関口を閉ざした僕の心には、おかえりの言葉がないことに現実に引き戻されたような寂しさが芽生えていた。
雨水の滴る傘の取っ手部分をノブに引っ掛ける。
変な気でも起こさなければいい。暗示のようなまじないを噛み締めて、幾百の水滴が張り付く灰色の窓に視線を投げた。降りしきる静音が耳につく。
荷物を床に投げ置いて、水を吸った上着によって布団が濡れてしまうこともいとわずに僕はそのままベッドに倒れ込んだ。瞼を持ち上げると蛍光灯の灯りが直に目を射る。光から逃れるように寝返りを打って横を向く。
重なる疲労感を少しでも軽くしようと深く嘆息してみるが、更なる脱力感が全身に募っていくだけだ。

危うく眠りに落ちかけたところで、がばりとマットレスから背中を持ち上げる。肩をほぐすように回してみると、嫌な悲鳴を関節が上げたので聴こえないふりをした。
立ち上がってエプロンを取る。夕飯を準備しなければならない。
冷蔵庫の在庫確認をしてみると、もののみごとにすっからかんで買い出しに出向かなければと時計を見やる。
6月の第二金曜日、夕方5時半。あの子が戻るまでにはきっと自分は家に着くはずだ。
しゅるりとネクタイをほどく。ラフな格好に着替えた後で鞄の中から財布を抜き取り、使い古したエコバックを掴んで靴につま先を突っ込むと再度ドアノブに手をかける。



エコバックをぶら下げて急ぎ足で自宅に戻るが、しかし彼女はまだ帰ってはいなかった。
がらんどうの部屋に肩の力を抜くのは、本日二度目。傘の中にいたにも関わらず、時間と共に激しさを増す雨の中ではすっかり意味をなさない、それ。濡れてしまった薄手の上着を選択籠に放り込んで、袋から取り出した食料品を冷蔵庫に並べていく。
冷えた空気の立ち込める小さな箱の中と、湿り気を帯びた常温の空気との境目を跨いでは引き返しながら、……おっと豚肉は使うのか。
とりあえず傍らに置いたパックは、今までなら手を付けなかったはずの二人前サイズ。思わず零した溜め息はおかげで食費がかさむとか、別にそういうことではなくて。がらりと変わった生活を、実感させられたから。深い意味も、不安を和らげる理由も含まない、それだけのこと。

がちゃり、玄関の扉が無遠慮に開くと、見やったそこにはなまえさんが立っていた。ほんの少し様子の違う姿に、表情が曇る。
腰を上げて一歩を踏み出しながら、「どうしたの」と投げたはずの声は雨のノイズが綺麗にかき消した。
明らかに、おかしい。ただぼんやりと薄く開けた目は焦点が合ってすらいないかのように虚ろで、ただいまの挨拶もなく、口も動かさない。身体中の筋肉が抜け落ちたようにふにゃふにゃと肩が垂れ下がり、元々血色のよい肌は、熟れ過ぎて潰れそうな林檎のよう。身を包んだ制服は汗と雨水で濡れていないところがないような状態だった。
ぞっと背筋を嫌なものが走る。

「なまえ、――なまえさんっ!?」

途端に崩れ落ちた体を受け止めて、彼女の名前を叫ぶ。閉ざされた両目が開くことはなく、それだけでも彼女から返答があるはずないとわかりきっているはずなのに、この時ばかりは他に方法が思いつかなかったのだ。

(焼けるように熱い異常な体温が,いまの彼女の存在証明)


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