幸福実験
駅の改札口を抜けてすぐに飛び込んできた、黒一色に塗りつぶされた景色に自分の足を止まらせた。
そこに隔てられたのは、高く大きな障壁でなければ、一定の頻度でつるまれる不良生徒でもない、滝の如くなだれ落ちる大量の雨水だった。
肩を竦めて嘆息する。気象庁からの公式発表がまだであるとはいえ、梅雨が目前まで迫るこの時期が確かに気候の変化が激しい。だがスマートフォンの天気予報を確認する限りでは、本日の天気は曇り止まり……だったのだが、今ではどうだろう。ずらりと並んでいるのは傘のマークだ。
突然の雨に、それを防ぐ用意なんてしている訳もなく。どうしたものかと、僕は頭を悩ませる。

その時、携帯電話が鈍く振動し着信通知を促すので、バイブレーションの発信源を探るようにポケットに手を当てる。明る過ぎる画面に少しばかり目を細めながら相手を確認すると、知らない番号が表示されたので出るかどうかを渋ったが、ひとまず電話を取ることにした。
耳元のスピーカーの奥から、聞き知った声が静かに放たれた。

『もしもし、みょうじです』

そういえば、自宅に待機している彼女には自分の携帯番号を伝えておいたのだっけか。机の上に置いておいたメモには心当たりがあり、躊躇いなく、だが自信無さげに相手の名前を呼んだ。

「なまえさん…? 何かあった?」
『何かあったのは潮田さんの方でしょ。雨降り出したから迎えに行こうと思って……よっ、と』
「えっ鍵は?」
『窓から出ます。というか、出ました』

声のまにまに聞こえる雑音がより目の前で降り続ける雨のノイズと、その瞬間だけぴったり重なった。
いやちょっと待って。この子は今なんて言った? 窓から出るだって?
おとなしい性格の彼女であるが、覇気がないというのは誤りだ。事情は知らないが家出を目論み実行に移せる行動力と肝は座っているし、たったいま認識を改めた程度にはアクティブである。……いや、だからって。
確かにうちは一階だけどそれでも少なからず段差はあるし、行儀悪いし、まず君の持っている服って制服だけだから必然的にスカートな訳だし、自重してくれ。

「濡れてでも僕はひとりで帰るからっ! なまえさんは家に――」

つー、つー、つー。虚しく鳴った無機質な機会音が通話の強制終了を知らせる。
一方的な行動に、大いに呆気にとられながら耳元から受話器を離した。

***

濃紺の傘を広げた、制服姿のか細い少女の影が遠くに映る。見つけた姿に小さく手を振ると、自分を目にした彼女の歩く足が早まった。

「何も、わざわざ来なくても大丈夫だったのに……」
「時間見てないんですか? 結構遅いですよ」
「本当だ。確かに……って女の子がこんな時間に出歩くのもどうなの?」

なまえさんから傘を受け取ると鞄を左手に持ち替え、横に並んだ肩が濡れないように傾けながら、僕らは歩き出す。
こればかりは仕方がないのだが、口下手同士の空間で会話が弾むことはなかった。訪れた沈黙の中で殴りつけるような激しい雨と風が頬を打ち、静寂を掻き乱す。

「ご飯、まだだよね?」
「あ、はい」
「今じゃスーパーしまってるだろうなぁ。カップ麺は買ってあるはずだけど。きつねとたぬき、どっちがいい?」
「きつねがいい。……です」

即答だった。素早いレスポンスが敬語を置き去りにしてしまったらしく、一泊置いて申し訳程度に付け足される。
あれ、自分から聞いたはいいけどうちにきつねってあったっけ。
確か休日の昼食用にと五月の末くらいに緑と赤を買い足して置いて、その週の日曜にどちらかを食べたような覚えがある。頼りない記憶にあってくれと願掛けをしながら手繰り寄せてみると、蘇る戸棚の中の状態が明確化してくる――まずい、あの時食べたのはきつねだ。
横目でちらりと伺ってみると、同じ高さにある横顔が心なしか嬉しそうだ。すごく輝いている。
……だめだ、裏切れない。今さら無いなんて言えない。
超やばい。

「た、たぬきが嫌いとかは、ない…?」
「こればっかりはきつね派です。年越しそばもうどんだし、……って潮田さんどうしたの?」

大きな瞳を更に丸く見張りながら彼女は僕を覗き込む。

「ううん、なんでもない…」

ぼそりと放たれた自分の声は、いっそ笑えるくらいに細かった。
風の音と、雨の音。雑音が全てを無に変えた、静かな夜。聞こえるのはそれだけだ。
ふと傍らの彼女が顔を上げる。止まった彼女の足につられて、こちらも歩みを止める。

「あの、潮田さんて明日も帰るの遅いですか?」
「……うーん、特に用事もないし5時過ぎには戻ると思うけど。どうして?」
「私、昼間少し出かけたいです」
「それは別に構わないよ。鍵、どうする? 預けようか?」
「えっと…遅くなるから大丈夫です。多分7時くらい……」

行先は敢えて問わない。ただ一言、「そっか」とだけ納得の意を示すともう、雨音だけが聴覚を満たしたかのようにそれしか聞こえない。
風が立つ。一面を包んだ水溜りに細波が浮き出て、煌々と灯る電灯の光がゆらゆら水の表面に揺れていた。暗闇の中で表情を変えないまま、視線を落とす。僕らの歩幅は変わらないままだ。

***

自宅に着く頃には、日付は木曜から金曜へと切り替わっていた。
ずぶ濡れになった全身を拭くよりも、真っ先に向かったのはキッチンの戸棚。開けてみると、案の定、そこにあったのは緑のパッケージのカップ麺がひとつだけ。ブリキ人形のようにぎこちなく首を回せば、きょとんと疑問符を浮かべるなまえさんが目線の先に佇んでいる。

「ごめん、なまえさん……きつねがなかった。たぬきしか……」

怒号覚悟のカミングアウトだった。

「つまり、私を弄んでいたということですか。そんなに楽しいです? 根暗女子高生をぬか喜びさせるのは」

彼女は頭ごなしに怒鳴りつけるようなことはなく、ただ怒りを露わにした声色でそう静かに吐き捨てる。
いや確かにこればっかりは確かに僕が悪いですけど。自宅の食糧事情すら把握していなかった僕のミスですけど。それでもせめて、他に言いようってものがあるじゃないか。
真顔で恋人の浮気現場に遭遇した彼女のような台詞に対し、慌てふためく様は後から思うとなかなか無様である。


天気予報が嘘をついた日

「冗談ですよ。怒ってません」
「…冗談に聞こえない……」


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