幸福実験
画面の奥でアバターが動けば、鮮やかな群青の軌跡を宙に残して剣を振るう。炸裂した必殺技が魔物の肉を裂いたのを眼前に、軽装備の冒険者が軽いステップで飛びのいて剣を鞘に納めたとき。耳に不快な断末魔を発しながらポリゴンの欠片となって消滅する。
底知れぬ闇に包まれた迷宮区の最下層、一般的にボス部屋とされるそこはあちらこちらで金銀財宝のオブジェクトが煌めき、それらを守るために設置されていたはずの部屋の主だが……。
HPバーを根こそぎ削り取られた状態で牛の頭を持つ強敵ボスモンスターが消え去ると、液晶画面上に「CLEAR」の文字が大きく表れた。
おかしいな、セーブデータは僕のものを使っているはずなのに。おかしい。どう考えてもおかしい。何故こんなにも軽々とクリアしてしまえたのだろう。プレイヤーが変わるだけでこうも結果が違ってくるものなのか。

なまえさんは、予想以上に強かった。

「……ほんとにこれやるの初めて?」
「そうだって言ってるじゃないですか。元々RPG得意なんです。この程度の階層なら余裕でクリアできるでしょ?」

何度目かの同じ問いに呆れを含んだ眼差しで返された。
君が言う「この程度の階層」で、僕は長らく留まっていたんだよ。君のあっさり倒してしまったボスに苦戦して、何度分身が死んだことか。
とほほ、なんて擬音が似合う顔つきで電源の落とされたゲーム機を受け取る。

「潮田さん、もしかして遭遇する敵、全部倒してたりしない? レベル上げが目的じゃないならできるだけ逃げた方がたいいと思いますよ」
「やろうとはするんだけど、なんか追っかけてくるでしょ? いつもそれで追いつかれて困ってるんだよ」
「そのための索敵スキル、隠蔽呪文」
「えっそんなの覚えてた?」
「自分のステータスなのに…」
「最近忙しくて出来なかったんだよ」

開いてからすぐ確認できるものなのに、とでも言いたげな視線が痛い。

「つ、次はマルチプレイでもやってみない?」
「あからさまに誤魔化しましたね」
「なまえさんいてくれたら、すごく心強いです…」

***

濃い青の旧式を取り出し、あまり手を付けられていないため汚れ知らずの最新式は改めて電源を入れ、双方の通信設定をオンにする。持ち手脇の小さなライトが点き、設定が反映されていることを確認できると彼女の方を見遣った。

「私、通信対戦やったことないです…!」

心なしか期待に満ちたその瞳に光が灯されたような気さえする。うきうきと沸き立つ感情を抑えきれずに声色は明るく弾み、普段の表情の薄さが嘘のように今のこの子はわかりやすい。
なんだろう、ゲームに負けたような気がして内心は色々と複雑だ。

「ルールなんだけど、勝ち抜き戦でいい?」
「やったことあるので大丈夫です」
「うん、わかった。じゃあちょっと待って…」

新しい玩具を与えられた子供のように輝く瞳。本当に子供みたいだ、などと考えた頭の傍ら、刑法上は女性にカウントされる年頃だが、彼女はれっきとした未成年だという事実が掠めていく。
いいんだろうか、これで。胸中に生じたなまえさんを住まわせていることへの迷い。それによって意識は現実に引き戻され、画面を操作しながらも内心では頭を抱えていた。
警察沙汰になったらどうしよう。今更ながらに込み上げてくる不安感を自らの意思で押し留めておくことはなかなか敵わず、世間体を気にする小心者の恩師の姿が蘇った。

聞きなれたオープニングミュージック。タイトルをタッチして選択画面を呼び出すと、迷うことなく選んだのは続きから。

「操作とかわかるよね?」
「はい、NPCに話しかけるんですよね」
「そうそう」

一通りの操作を施してから端末を渡すと、すぐに戦意を煽るようなロック調の音楽にBGMが切り替わる。
開始早々、様々な技のエフェクトと効果音が入り乱れる液晶画面に目が眩みかけた。
相手の状態変化を狙いながらじわじわと攻め立てるスタイルでノンプレイヤーキャラクターと呼称される彼らを蹴散らしていく。

「大学の時、家庭教師のバイトしてたんだけど、教えてた高校生と授業のあとによく対戦してたんだ」
「へぇ、勝てたんですか?」
「まさか。ステ振りとか考えたこともなかったし、あそこまでやり込んでなかったよ。そう言ったら色々レクチャーされたりとかしちゃって……まったく、どっちが教師だったんだか」
「楽しそうですね」

言葉と共に視線が空中でぶつかり、仄かな微笑を称えた形のいい唇に唖然とさせられながら数度まばたきをする。
笑った……多分ゲームの力だ。なんて思いながら。

「あぁ、ごめん。僕ばっかり……」
「潮田さん、早く選択して」
「あっごめん」

慌ててコントロールパッドを押し上げ、決定ボタンに指先を触れさせた。
効果はバツグンだ。映し出された文章を口の中で復唱しながら横目で隣を伺うと、自分の視線に気が付いたらしい彼女とかちあった。

「聞いてるのは好きなので大丈夫ですよ」

彼女なりの気遣いなのだろう。楽しそうなその様子に、釣られて僕も薄く笑った。


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