幸福実験
「潮田先生、この後って暇です?」

会議室からぞろぞろ退却していく他の教員に入り混じり廊下に出た時、不意に背中に投げられた声の方向を肩越しに振り向くと、自分より僅かに歳上の……だが、人懐こい笑顔を咲かせる姿が無邪気とも取れる同僚が目に入った。

「あー……うー、今日はちょっと……」
「そうですかー。残念です」

こう見えても、彼女は飲みたがりだ。ビール瓶を五本は開けるのだと自称するほどで、二人きりで飲む場合に割り勘ともなれば財布に痛い。
どちらともなく横に並んで、足を揃えながら人気の引いた廊下を渡る中、口を尖らせる彼女を可愛らしいと思う。余り背丈に差がないことが少し気に触る部分もあるけれど、こうして雑談を交わせる間柄にあるのだし、互いに友好的な関係を築けているのだろう。
歳上ばかりのこの職場ではなかなか安心できない新米教師としては、この人の存在は心強かった。

「じゃあまたの機会に」
「あ、はい。そうですね」

いつの間にか約束が出来上がってしまっているような気がしなくもない。ふふふ、と楽しそうに笑う姿に愛想笑いが強張ってしまったが、すぐに自分を追い抜いて先を進む彼女にはそれはばれてはいなかった。
……今学校を出れば確実に電車は逃さない。
職員室の入り口をくぐると、すぐに荷物をまとめにかかる。

***

扉を開けると、顔に流れかかる空気から室内が温まっていることはすぐにわかった。
調理器具を片手に「おかえりなさい」と顔だけを見せた彼女が身に着けていたのは、他でもない僕のエプロンで、すぐに奥の台所に引っ込んでしまったところを見ると夕飯作りの真っ最中なのだろう。

「ごめん、会議長引いて……。冷蔵庫何もなかったでしょ? お惣菜買ってきたよ」

視線を投げると向こう側から跳ね返ってきたのは、余裕なさげな何とも曖昧な切り返し。テーブルにレジ袋を乗せ、重たい上着を脱いで身軽になると、引き出しから箸を取り出す。
やがて、両手に茶碗を抱えた彼女が現れたので、それを受け取り机に並べる作業を手伝った。
出来上がったばかりの食事が湯気を立て、美味しそうな匂いが食欲をそそる。

「こんなに上手いならずっとご飯頼めばよかったなぁ」

値引きシールの貼られた惣菜品と、袋入りのサラダを中から取り出しながら、笑い交じりに呟いてみると。

「冷蔵庫の隅っこで玉ねぎが死にかけてたのでお味噌汁にいれちゃいました」

今度から気を付けてくださいね、と厳しい眼差しに諭される。うーん、しっかり者だ。
誤魔化すように椅子に座ると、いただきますを口にして箸を取る。味噌汁を口に含んでみると少し味が薄いような気もしたが、用意して貰った側としては文句なんて言っていられないので、ひとまずおいしいと感想を残そうと口を開く。が、それよりも先に。

「味噌、足りなかったから、やっぱり味薄いでしょ?」
「あぁそう? おいしいと思うけど」
「薄味が好きなの、……好きなんですか?」
「んー、特別そうだってわけじゃないかな。それと、やりにくいなら敬語やめてもいいよ?」
「いいです。このままで」

目線を僕から外しながら緑野菜を口に運ぶと、小さな一口で飲み込んだ。

「そういえばいつも昼間って何やってるの?」

興味本位で聞いてみた。

「別に何も。教科書読んでるだけです」
「勉強家だね」
「…好きでもないけど。苦じゃないだけで……癖かもしれないです」

含ませたような言い方に首を捻るが、彼女はそれ以上は何も言わなかった。
閉ざされた口に言葉の続きを期待するわけでもなく、箸を進める。元より口数が多いわけではない彼女が多くを語ることはない。
生活を共にするようになってもう5日は経つだろうか。人数の増えた日常が当たり前となりつつある中で、相手の感受性の豊かさを知る以上、一貫して不愛想と呼ぶには抵抗ができてしまうのだ。
おとなしくて口数の少ない女の子……。妙な先入観を持たない限りは、その言葉でも十分に事足りる。出会いから日付を重ねたわけでもないので、日々新たな発見があるのはきっと向こうも同じだろう。
賞味期限間近のサラダを摘まんだ時、独り言を零すような音色で彼女が口を開いた。

「先生って大変なんですね。こんなに帰りが遅いとは思わなかった」
「授業後の会議とか研究会とか、色々あるからねぇ。就職、というか教育実習生になるまでこの大変さは知らなかったよ」

それはまるで独白のような。口から流れ出たのは、志望大学に受かってからの、勉強付けとなった学生時代の最後の話。
平均そこそこの能力しか持たない自分が、授業の情報量の多さについて行くためには、やはり努力を重ねる以外の道はなかった。でもそれ以上に、夢に辿り着くために必死に足掻く周りの汗も努力もを知っていたから、素質のない自分には無理だったのだと割り切ることもできなくて。教壇に立ちたいというその夢から、絶対に、逃げたくはなかったのだと。
しかしここまで言っておきながら、目が回るような忙しさに追われていた日々を、正直あまり覚えてはいなかった。

「せっかく教員免許取れたと思ったら、初めて受け持ったのが――こういっちゃなんだけど、いわゆる不良生徒の集まりみたいな学校だし。テストなんかまる付けって言うよりばつ付けだし、まず答案は白紙ばっかりで義務教育といえど授業やる意味があるのかっていう……」

相談できるような相手もいなければ時間もなく、すっかり溜め込んでしまっていた日頃の不満はひとたび占め口を緩めれば、泉の如き勢いであっという間に溢れ出す。
そして気づく。口が滑った、なんてものではないことに。だが自覚したのはすべてを吐き出した後である。言葉の最後が宙に浮く。
だけれどそれを、見遣ったなまえさんは何も言わずに聞いていて、歳の割には落ち着いた動作や物腰に流されるように胸の内を曝け出してしまっていて。つい要らない事までぺらぺら口から出てしまっていたようで。
現実に引き戻されるように我に返れば、年下の女の子に慰められている自分がいた。何だろう、情けない。そう思いながらも、掛けられた彼女の言葉は温かで、その優しさに甘えたくなる。

「大丈夫ですよ」

それは根拠のない、その場限りの安らぎの呪文。でも今は――。
ぎこちない、造り笑いが瓦解する。真摯な光をたたえた双眸に気鬱な顔の己が反射する。
状況の打開なんて求めてはいない。たとえそれが苦し紛れの気休めでも、それを誰かに言って欲しかったのだ。温かい、労わりを持った体温に触れられるのが随分と久しく感じてしまったから。


(似た者同士で夜を語ろう)


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