幸福実験
成績表の上位にはいつも彼女の名前がある。巡ってきた桜の季節に3年目の節目を感じる頃。見慣れた名前が各教科の上位を独占している事実には、どこか慣れと諦めを含んだ眼差しを、きっと誰もが向けていた。

みょうじなまえは誰もが認める“優等生”で、誰もがうらやむ“天才”の代名詞だった。
彼女の人形のように整って凛とした、だけどどこか儚い風貌は本当にかわいらしいという形容詞がぴったり当てはまる。ぴしゃりと背筋を伸ばし、ひとり廊下を渡るその様子は同性の自分が見てもわかるほどに綺麗で、可憐。
だが、彼女はどこか近寄り難い雰囲気を纏っていたのだ。
同じ教室で学んでいる以上、それはほんの僅かな距離感だが、そこには確かに境界線が存在しているような錯覚に陥ってしまう。
そんな彼女と席が隣同士であるというのはきっと奇跡に等しい。1対1で放課後の復習に付き合ってくれるということも、これ以上ないくらいに幸運なこと。
同級生との会話に花を咲かせる姿を見たことがない彼女と、面と向かって話ができるというのはきっと自分だけの特権だ。

高い能力を持つ彼女は、実際問題とても頭が良かった。知識を詰め込んだだけのがり勉とは訳が違う。日々の軽い会話の中で教えてあげた些細な事も、誰かがぼそりと呟いた事も、耳に入れた情報はなんでもかんでも覚えている。期末テストも成績表も通知表も、彼女の才能を証明するための器具にすぎない。
それを見守る自分はいつも、彼女に感心していた。
平々凡々とした能力しか持たない“あたし”なんかとは頭の構造が全然違うんだろうなぁ、と。
だからあたしは言ったのだ。
彼女の住む世界と、自分の住む世界に区別をつけるために。
曖昧なボーダーラインがよりはっきりとそこに区切りを入れるように。
天才と凡人。生まれ持っての才能などという、誰もが妥協できるような言い訳を欲していたがために。

――思えばそれが、彼女と交わした最後の会話だった気がする。

***

窓から差し込む陽の光は少し眩しすぎた。
焦点の合わない目で景色をぼんやり見つめる。滲んだ視界に映ったのは白い天井。あぁ、夢か。なんて、自分を安心させるように胸の内で呟けば、口元に当たる無機質な物体の存在を感じ取った。手を当ててみると、硬い感覚。それは先ほどまで眺めていたはずの、教科書の背表紙。
首を持ち上げて辺りを見回せば、自分が寝転がっていた場所が潮田さんのベットだということに気付く。2時を回った時間帯、二度寝をしていたことに驚きはしたが、慌てることはなかった。部屋の主が帰ってくるのは夕方以降なはずだ。再びマットレスに背中を預けて、姿勢を傾けると仄かにスプリングが軋む音がした。

きっかけはたった一言だった。

『やっぱり、優等生は頭のできが違うね』

あの子は、きっとなんてことのない誉め言葉として言ったのだろう。嫌味なんて、含ませるつもりはなかったのだろう。
素直に、心から感心してあの子はその言葉を選び取ったのだろう――“優等生”と。
だがその一言は、心に深く突き刺さる刃となり、傷口を抉る痛みを伴う毒牙でしかなかった。
私だってひとりの人間だ。ロボットのように勉強だけをしている訳ではない。周囲と何ら変わりない、そこそこの能力しか持たない女子生徒でしかないのだ。
けれど必ずしも周りがそうと見てくれるとは限らない。不器用な性格が作り出した表面上の人格と、努力で押し上げた成績だけを上から眺め、いい子の肩書きを押し付けてくる。気づいたときには本来の自分自身を否定し、塗り固めるが如く貼り付けられていた『堅物優等生』のレッテルは、そう簡単に拭い切れるようなものでは無くなっていて。
影でひたすら足掻く私に、彼らは口を揃えてこう言った。
優等生だと。天才だと。

(そんなわけ、ないのに)

自分の才能に限界を感じていたというのも、また事実だ。
誰かにそんな風に言って貰えるほど、自分は凄くなんかない。
期待通りの結果を残し続けるいい子ちゃんは、天才なんかじゃない。
当たり障りのない成績に留まることが可能な、優等生でしかない。
所詮それは、何も出来ない落ちこぼれにならない分、これ以上は上にもいけない無個性な子。

疲れたのだ。
周囲から求められる人間を演じ続けることが。レッテル通りの文武両道を貫くことが。
錘を繋がれた足では足掻くことすらままならず、外界に助けを求めようにも、着実に積み上げてきた才女の実績が邪魔をする。
まるで湖の白鳥だ。すいすいと水面を優雅に泳いでいるくせに、水面下では必死に足でもがいている。その苦労さえも打ち明けられずにいる自分を、何も知らない人間は見てくれだけを美しいと褒めそやす。
弱くて強くはなれない自分でも、もしかすれば受け入れてくれるんじゃないか……。そう信じて願って築いてきたはずの友情が、馬鹿な自分一人の幻想でしかないことを畳み掛けるように突きつけられて。
この先には踏み込めない、絶対的な境界線がそこにあることをあの子自身から宣告されて。
裏切られて、傷付いた。人間関係が嫌になった。何も信じられなくなった。
だから逃げた。
都合の悪い現実にくるりと背を向けて仕舞えば、他には何も見えなくなった。
それでも――いい子でいたいという大義名分で息をしていた自分が、いざその翼をもぎ取られてしまうとこの次に何をしていいのかがまるでわからない。
誰かが私を花だと言った。触れたら折れてしまいそうな、だけどちゃんと自分の居場所を持ちそこで己の存在を証明している、花。
だったらあの子は太陽だ。空に焦がれた小さな花がどんなに彼女を求めても、大多数のうちの一人でしかない自分には振り向いてくれない、そんな太陽。
わたしはけっきょく、なにをしたかったのだろう。
繰り返す自問自答に、答えが返ってくることはない。

***

「ただいま」

居間の方に背を向けて鍵を閉めながら独り言のように声を漏らすが、いるはずのなまえさんからの返答はなくて。どうしたのだろう。疑問に思いながら部屋の中を覗いてみると。

「なまえさ、……あ」

片隅に教科書の置かれたベットの上に横たわる彼女の姿を発見した。
「寝てるのか」なんて、口の端から滑った感想。
午後の穏やかな気候と、緩やかに差し込む西日が温めた室内。ここまで整った環境に置かれれば、昼食の後ならばついうたた寝してしまうだろう。
よっこらせ、と体を屈めて静かに寝息を立てて眠る彼女を覗き込む。まだ幼さの残る寝顔に愛らしさを感じ、思わず笑みが零れた。
すやすやと気持ち良さそうに眠る少女は、そういえば昨夜は寝つきが悪かったらしいしこのまま寝かせておいてあげよう。
そんなこと考えながら、不意に見遣った彼女の頬に濡れた跡のような筋をちら、と見つけたような気がして、生唾を飲んだ喉が鳴る。
泣いていた……?
普段は見せない表情は辛そうで。赤く腫れた目元に、絶望の類の感情が刻まれているように思えたのは気のせいだろうか。
しかしながら自分には、彼女が泣く理由なんて見当たらない。そこまで考えがいたり、ハッと気づかされる。

(何も知らないんだ……。この子のこと)

知っているのは名前と年齢、学校名。知能が高くて飲み込みもよく、自己主張の少ない性格だということ。家出してきたという経緯も、あくまで自分の想像だから定かではない。
長い睫毛が震えて、ごろんと彼女の姿勢が変わる。シーツに散らばる癖の少ない長い髪。細身の体が纏っている制服に皺ができないかが心配だ。
何をするでもなくぼんやり見ていると、あどけない横顔が薄ら目を開けていたことに驚く。今にも瞼に覆われてしまいそうな瞳と視線同士がぶつかって。

「え、狸寝入り?」
「まさか。いま起きた…から、そういうわけじゃ……」

言葉の途中で大きな欠伸を二度も挟みながら、眠たげに細めた目を擦り、上体を引き上げた彼女は余程の睡魔に襲われているらしく。

「もっかい寝たら?」
「寝ません」

ふわぁ、とまたもや欠伸をされてもなぁ。
洋服の襟元を緩めながら強がる彼女に口元を緩めた。


レッテル少女

優しく、賢く、美しく
そうでないとこちらを見てすらもらえない


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