比翼のアルビノ

08.水鏡の中で揺れるふたり

その日は教室の掃除中に誰かがゴミ箱をひっくり返し、片付けに追われていたお陰で、学校を出るのが遅くなった。なまえには迎えが遅れる旨をメッセージアプリで知らせており、彼女もすぐに既読を付けて承知してくれたことから、僕はそれほど焦らずに自転車のペダルを踏み込んだ。
女子校の校門から少し離れた場所に辿り着くと、教室で待っているであろう彼女に到着を伝えるべく、スマートフォンを取り出す。校門の目の前で待たれると同級生に騒がれて恥ずかしいからやめてくれ、という彼女の言い付けを僕は未だ律儀に守り抜いていたのだ。

「ん、あれって……なまえ、か?」

『着いた』とフリック入力で打ち込んで、送信アイコンに触れようとしたそのとき。校門前に、なまえの影を見つけた――知らない男子生徒と一緒に。
女子校に男子生徒が来ているとなれば、十中八九僕と同じ他校の人間だ。なまえと話し込んでいるその男子生徒は、僕や景光と比べてすこし小柄で、制服は少し離れた中学校のものに似ている。中学生だろうか。
頬を桃色に染めた男子生徒に、なまえは笑顔で応じていたが、彼が一歩彼女との距離を詰めると、反射的に身を引いてその分の距離を開けている。愛想を保つために弧を描いている唇も口角がやや引きつっているし、困り果てていることは誰が見てもわかる。
彼女が僕の前ではあまりにも距離というものを忘却したような、人懐っこい態度を取るものだから、時折忘れてしまいそうになるが、僕と景光に特別心を許してくれているというだけで、彼女の男性恐怖症は治癒していない。早いうちに引きはがすのが吉だろう。
僕は自転車を手で押し、校門まで歩を進めた。

「――その子、俺と帰るんだけど」

僕は、滅多に使わない一人称で強気に出た。想像以上に不機嫌な声色は、男子生徒どころか彼女までも威嚇してしまったらしい。
その男子は「あ、えっ」とかなんとか間抜けな声で言って、スマートフォンを携えていた片手を咄嗟に引っ込める。

「行くよ、なまえ」
「う、うん……。ごめんね、b田君」

動けなくなっているのであろうなまえの手首を掴んで自分の方へと引き寄せた。
b田、とかいう奴を横目に睨みつけ、僕は踵を翻す。彼女の手を引いたまま、早足にその場を立ち去った。

「なんで外にいたの? ああいうのがいるから僕が着くまで教室で待ってろって言ったよな」
「ご、ごめんね。あの子、友達の弟で、その友達の部活の試合応援しに行った時に少し話したことがあったの」
「少し話した程度なのにわざわざ学校まで来るのか?」
「そのときによかったら今度出かけないかって誘われて。それで、さっき連絡先知らないからってその友達伝いに呼び出されたの。それだけだから、ナンパとかじゃ……」

断片的にしか語られていない情報からだけでも、あのb田とかいう男がなまえに気があることは察しがついた。
きりきりと片手で押している自転車のタイヤが掠れた音を立てる。なまえの手は離していない。
むかついていた。お気に入りのぬいぐるみを奪われた園児でもあるまいに。
僕の知らないところで広がっていた彼女の交友関係も、何も知らないくせに彼女に関わろうと踏み込んでくるあの男も、僕の言い付けを守っていた癖に、「ごめんね」なんて開口一番に謝罪する彼女も、何もかもが気に入らない。

「何、連絡先、教えたのか」

我ながら、不機嫌さが滲む声だと思った。
掴んだままのなまえの手首がびくりと怯む。それでもなお振りほどかずに、手を手綱のように引かれたまま、雛鳥の如く従順に後ろをついてくる。

「お、教えてない……。聞かれたけど交換する前に零君が来たから」

僕は彼女に背中を向けていたが、声色と手の震えから彼女が萎縮しきっていることにも気づいていた。そのうえで、自分の中の苛立ちをぶつける矛先としてあろうことか彼女を選択してしまう。

「俺が来てまずかった? 中断させて悪かったな。今から戻れば間に合うんじゃないか」
「れ……零君、怒らないで……」
「怒ってない」
「零君、手、痛い」
「あいつと付き合うのかよ」
「や、やめてよ、怖いよ、零君」
「付き合うのかって聞いてるんだけど。好きなの? まんざらでもなかった?」

なまえが黙った。
好きじゃない、付き合わない、嬉しくなんてない……彼女にそんな返事を期待して、僕に都合のいい返事を引き出すためにもう一言くらい投じてやろうと思って、振り向きざまに口を開きかける。が、しかし、振り向いた瞬間に目に飛び込んできたなまえの表情に、僕は声を失くしてしまうのだった。

「な、なんでそんなこと言うの……。私のこと一番よく知ってるの、零君たちじゃない。できるわけないよ。まだあの時の夢見るのに。付き合うとか、そんなわけ、ない、のに……っ」

なまえが零した涙の雫が僕を我に返らせた。
急激に冷えていく頭で己の愚行を振り返る。――なぜ身勝手な怒りの捌け口として彼女を選んだ? なぜこんなにも酷いことができた?
彼女が涙を流さなくて済むように心を砕いてきた僕が、どうして彼女を泣かせているのだ。

「あの人に急に詰められて怖かったよ……でも零君が来てくれて安心した……。なのになんでそんなこというの……」

ひぐ、ひぐ、と嗚咽を挟みながら必死に言葉を紡いでいく彼女に、自分のしでかしたことの重大さを嫌というほど理解させられた。
その瞳が次から次へと零す涙を人差し指で掬ってやるが、涙は泊まる気配を見せず、償いにもならない。
この子は僕を数少ない安寧の止まり木として認めてくれていたのに、僕はこの子が足を乗せている枝を敢えて揺さぶって、不必要に怯えさせた。

「傷つけるつもりは……――いや、傷ついたよな。ごめん。怖いこと掘り返してごめん。もう言わないから。本当に……。僕、酷いこと言った、よな……」

なまえの両頬を手で包み、親指で涙を拭う。
彼女がこんなにも距離を詰め、触れることを許す異性は、この世で僕と景光の二人だけ。こんなときですら、この子は自分を泣かせた男にも、容易に唇を奪える距離にいることを許してくれる。
それは僕が僕だから。彼女が僕を信じてくれているからだ。僕はその信用に報いなければならない。
なのに、あの男子生徒に奪われる可能性が示唆されるとどうしようもなく頭が燃え上がる。なんて薄汚いのか。


2023/06/15
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