比翼のアルビノ

07.ぬるくあやふやな新世界

僕と景光は同じ高校・大学に、なまえだけが別の道に進んだが、三人の交流が絶えることはなかった。
高校時代。
彼女は自宅からバス一本で通えるミッション系の女子校で――彼女が進学先として選んだのは高校大学ともに女子校だ。背景を考えれば妥当と云える――、自転車通学の僕らとは登下校も別。小学校からの幼馴染だが、これは疎遠になるだろう。「寂しくなるな」なんて、ヒロと舞い散る桜を横目にありふれた別離に青く未熟な心を痛めてたのも束の間。
彼女の通う女子校周辺に不審者の目撃情報が多発し、僕らの方から送り迎えを申し出た。

「えっ、いいよ。ほとんどバスなんだし……」
「不審者が痴漢だったらどうするんだよ。それにそこの生徒の殆どが乗るバスなら満車だろ。僕らと自転車で帰ったほうが窮屈じゃないし、楽なんじゃないか」
「でも……」
「じゃあ帰りだけ! ね? ゼロもそれでいいだろ?」

ヒロが条件を和らげて食い下がる。すると彼女は渋々といった様子ではあったが折れてくれた。

「じゃあ、お願いするね。でも本当に無理しなくていいから。忙しいときはちゃんと帰ってよ?」
「わかってるよ」

見事に迎えの約束をとりつけた僕らは、人知れずほくそ笑んでいた。
――うまくいったな。
――ああ。
人間の心理として、はじめに大きな、つまり難易度が高く、大抵の人間が断るような願い事をし、これを断った相手に対して少し譲歩した小さな願い事をすると、幾らか聞き入れて貰いやすくなる。これを“譲歩的要製法”、或いは“ドア・イン・ザ・フェイス”と言うのだが、僕と景光による迎えの提案はこの方法を基としたものだった。
要するに僕が「なまえの送り迎えをしたい」と願い出て、彼女がこれを拒んだところで、すかさず景光が「迎えだけでも行かせてほしい」と一歩譲歩した願いを伝える。予め「送り迎え」という非現実的な願いを聞かされている彼女は、それが「迎えのみ」にスケールダウンすることで、「まあそれくらいなら……」という感情を抱き、後者を聞き入れてくれる確率が増す、というわけだ。

なぜここまでするのか。ここまでする必要性が果たしてあったのか。種明かしをすれば彼女はそう問うやもしれない。
僕はきっとこう答える――ここまでする程度には、中学時代の担任との一件は、彼女ばかりか僕らの胸の中でも尾を引いているのだと。
僕は彼女の人生に影を落としたあの教師を締め上げたいほど憎んでいたし、自身が殺人事件の被害者遺族であり、未だ幼少期の事件のフラッシュバックに苛まれている景光は、彼女の気持ちが痛いほどに理解できたのだろう。
中学時代の悲劇のあと、保健室登校から通常の教室登校に戻ってからも、彼女は男性教師の授業中に体調不良を頻発し、最終的には男性が教鞭をとる際には別室で自習という形で落ち着いた。

また、彼女がその真相を語ることはなかったが、明らかにあの一件以来、彼女は口にできない食べ物が異様に増えた。カレー、紅茶、緑茶に至っては見るだけで嘔吐したことさえある。他、なんらかの異物の混入が疑われる、色の濃いもの、味の濃いもの……。
その多くがあの教師による暴行事件の直前に給食で提供されたメニューと合致しており、彼女を偏食家にさせた要因があの屑にあることは火を見るよりも明らか。僕の中で燃え盛る、あの男への憎しみの炎は時の流れなどでは絶えない。

戻りつつある笑顔が爪痕を隠すのに役立っているというだけで、あの子はあの日からずっと傷だらけだ。
そばにいる僕らが危険から遠ざけてやらなくてどうする、と僕と景光は心を等しくした。警察官を目指す者同士、正義感の強さも共通していたというのも大きい。
それにどちらかといえば、僕らの懸念は不審者そのものではなく、彼女が不審者と邂逅してしまったとき、或いはバス内で痴漢に遭ってしまったとき、彼女が引き起こすであろうトラウマの再演のほうだった。
フラッシュバックに関しては、僕以上に景光が特に心配しているように思う。それも、可哀想な女の子を慮るというよりも、どこか自分自身を重ねているかのように。言ってしまえば、我が事のように。

「ねぇ、零君もヒロ君も校門の真ん前で待つのやめてくれない? あれすっごい恥ずかしいんだよ」
「あー……、たまに声かけられるから正直オレたちも困ってたんだ」
「二人共モテるもんね。私が中学でちょっとはぶられてたっぽかったの、絶対それだよ」

ヒロの自転車の後ろに乗ったなまえが困ったように笑う。彼女を自転車の後ろに乗せる役目は僕とヒロが交代で受け持っていた。
――変化したことといえばもうひとつ。進学先が別れ、同じ教室の誰かの眼を気にする必要性がなくなったことで、なまえはまた僕らを下の名前で呼んでくれるようになったことだ。
きっと彼女は意識にさえ留めていないだろうが、「降谷君」と呼ばれるようになった日から、僕を憂鬱にさせていた溝が、ようやっと埋められた。



そして新生活にも溶け込んできた5月。若草の香る帰路。
今日は僕がなまえを自転車に乗せる日だった。自転車の後ろに彼女の重みと、ゆったりと後ろから抱きしめられた背に伝わる体温を感じながら進む住宅街。
僕ら以外に人の影が差さないのをいいことに、ヒロと並列で自転車を漕ぐ。
そういえば、とすっかり忘れていた報告をするべく、ヒロが口火を切る。

「オレたち、来週からバイト始めることにしたんだ」
「そっか。頑張ってね。もう不審者の話も聞かなくなったし、いい頃合いだよね」

なまえはすっかり迎えに来るのは今週までだと勘違いしているようなので、僕は背後の彼女に訂正を入れる。

「いや、迎えには来るよ。僕だけちょっと遅い時間にしてもらったんだ」
「そこまでしなくても……。でも、ありがとう」

こつり、彼女の頬が僕の肩甲骨に預けられたのが、神経を伝う感触からわかる。どくり、と脈打つ己の心臓の音色には耳を塞ぎつつ、「気にしなくていいよ」とかろうじて装えた平素の声で返す。なまえに触れられている背骨から、鼓動が振動として漏れ出ていないといいのだが……。

「……で、ゼロと買おうって話してて――」
「ヒロ、それはまだ言わない約束だろ」
「あ、そうだった、ごめん。なまえちゃん、まだ内緒ね」

僕らの要領を得ない会話に首を傾げる彼女への秘密の共有は、約2ヶ月後と相なった。
バイト代二ヶ月分で、僕はギター、ヒロはベースを買った。コアな収集家の眼からすれば安物ではあるけれど、若い学生には手を出し難い値段であることは間違いなく、自分たちの二ヶ月間が形となったそれはどんな好きな音楽家が弾いている楽器にも負けないほどに煌めいて見える。
本当は曲の一つでも弾けるようになってから彼女にお披露目したかったのだが、音階を覚えるだけでもそれなりの時間を食ってしまい、これ以上あの子を秘密の蚊帳の外に置くのも忍びなかったので、ヒロの部屋に三人で集まったときにそれぞれのギターとベースを見せた。

「すごい! 二人共かっこいいね」

なまえの真っ直ぐな賛美に僕らは誇らしくなった。照れ臭さに鼻の下を指で擦ったら、ヒロに「ゼロ、照れてる〜」と言われ、思わず否定した。照れてない。
大抵僕かヒロの部屋で行われる楽器の練習には、彼女も顔を出していた。手持ち無沙汰でつまらなくはないのかと聞いたところ、二人の演奏を見ているだけでも楽しいとのことである。無欲だ。

「これ、二人に。プレゼント」

そんな折、練習を始める前に、なまえが片手に収まるほどの小さな包みを僕とヒロに手渡してきた。封を切ると、掌の上にころんと転がるのは丸みを帯びた正三角形――それぞれギターとベースのピックである。

「かわいいのいっぱいあって迷っちゃった。ベースのピックは厚い方がいいって聞いたんだけど、これでよかったかな」
「ありがとう! 早速使うよ」

ヒロの声音がワントーン高くなる。こいつほど感情表現がなめらかではなく、素直になりきれない僕も胸中では舞い上がっていた。指先に乗せた小さな贈り物を眺め、口元に淡い笑みを描く。
僕らは彼女から贈られたピックを使って連日練習に励み、購入から1ヶ月ほどで一曲習得した。
兎追いしかの山――。譜面ごと覚えた、童謡の『ふるさと』。この曲をヒロと一緒に披露したときの彼女の笑顔は忘れられない。軽やかで控えめな拍手も、まだ鼓膜が記憶している。



二人乗りの自転車を転がす夏の帰路。
まっすぐバイト先に向かった景光はおらず、ここ3ヶ月ほどは僕と彼女の二人きりだった。
昼間は蝉、夜は鈴虫が絶えず翅の楽器を鳴らしている。
どこの学校の生徒も衣替えを始めており、それは僕と彼女も例外ではない。ペダルを漕ぐ僕に背後から密着する彼女の温度を、薄手の夏服は心なしか生々しいほどに伝える。知らぬ間に女性性を強めた躰を押し付けられて、僕はぴしゃりと背筋を正した。
半袖から伸びる腕が背後から腹に回されれば、自分の腕とは比べ物にならないほどの華奢さと色の白さを知らしめられ、目眩に苛まれる。
白いブラウスの生地に透けるキャミソールの肩紐から、一体何度視線を外しただろう。
ただひたすらに彼女を乱したあの男と同列に成り下がりたくない一心で、自己の劣情を切り刻む。

「最近ゼロ君とヒロ君仲良いよね」
「そ、そうか?」

なまえにゼロと呼ばれて少し驚いた。答える声が裏返る。
景光や他の友人達が僕を「ゼロ」と呼んでいると彼女の口にもそれが伝染してしまう、ということは今までにも何度かあったが、よもや二人きりで夏風に吹かれる道でその呼び名を使われるとは。

「一緒にバイトしたり楽器やったり……羨ましいな。私の入る隙、ないみたい」

寂しさを孕んだ声が夏風に乗って鼓膜を揺らす。
僕も景光も、いつだって彼女を想い、その幸せが壊れずに続くことを願っている。気に病むことなんてないのに……。
そういえばギターのチューニングをしている折に、景光が彼女と似たような科白を零したことがある。僕をなまえに取られたようで、またなまえを僕に取られたようで、妬けてしまう、と。

「……ヒロにも同じこと言われたよ。あいつも僕がなまえのこと迎えに行ったり、勉強見てやってたり、なまえばっかり構うから寂しいってさ」
「人気者だね、ゼロ君」

幼馴染も伊達じゃない。こんなところで共鳴している。
僕だって、自身が長年幼少期の事件のPTSDに悩まされている景光が、僕以上に彼女に同情し、深い理解を示していることに対し、やるせなさを覚えたことは数知れずである。実体験として理解してやれない不甲斐なさを、なまえと景光の双方に対して抱いた。
嫉妬の横槍を入れるにはあまりに不謹慎だとわかっていたし、その辛さに共感できない人生は紛れもなく幸せなものであるから、沈黙を貫いてきたけれど。

「ゼロ君とヒロ君と、二人と同じ大学に行きたい」

ほろり、なまえが口走る、ささやかな夢。

「……無理かな」
「できるよ。勉強なら僕が見るし。ヒロも、喜ぶと思う」
「うん……」

そういうことじゃないって、わかってる。共学に進んで大丈夫なのか、っていうことだろ――声としては紡がず、ただ腰に回されているなまえの手を上から握った。ハンドルから手を離していられる、この直線の道を走る間だけ、めいっぱい。


2023/06/15
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