比翼のアルビノ

06.奪われた春がすぐそばにある

放課後、テニス部の活動を終え、僕は校門前で帰路をともにする約束をしていた景光と落ちあう。
小学生の頃から変わらず、登下校は僕と景光となまえの三人で並んで歩いていたのに、数日前の一件を堺になまえは欠席し続けている。彼女を欠いたというただそれだけで、大切なパズルのピースを失くしてしまったように僕らの日常は味気ないものになっていた。
家を訪ねても顔すら見せなかったなまえから唐突に着信が入ったのは、ちょうどヒロと一緒に彼女の身に何が起きているのか、予測を立てていた帰路の途中だった。当時僕らの中学校では携帯端末の持ち込みは禁止されていたが、なまえになにかあったらすぐに自分を呼ぶよう言った手前、当人が登校していないということもあり、密かに懐に忍ばせていたのだ。

「ヒロ、ごめん、待って」
「電話? 誰から?」
「なまえ」
「えっ」

これにはヒロも目を丸くする。
僕は震える端末を取り出し、通話アイコンに触れると耳に当てた。電話に出た切り無言で受話器から流れる雑音を聞いているだけの僕に、傍らのヒロが首を傾げる。

「なまえちゃん、なんて言ってる? 大丈夫そうか?」
「しっ」

唇に人差し指を当て、ヒロに口を閉ざすように促す。友人を心配しているだけの彼に黙れなんて失礼にもほどがあるが、僕のただならぬ様相に相棒は事態の深刻さを察してくれた。ヒロと肩をくっつけて耳を寄せさせ、通話を聞いてもらう。
なまえからの電話は一見無言電話かに思われたが、沈黙の向こうから規則性のある異音が挟み込まれていた。それは、端末自体を爪で叩いて慣らしているらしいカッという単音、なにか布状のものを引っ掻いて奏でているらしいシャーっという長音から構成されており、数えてみると長音の長さは単音の約三倍である。

「これ、モールス信号……?」
「ああ……僕らになにか言おうとしてる……」

僕らは声を潜めて頷きあった。
単音を「・」、長音を「ー」に置換すると、聞こえた信号は「・・・ーーー・・・」、「・ー」、「ー・ーーー」の3パターン。意味は順に「SOS」、五十音の「い」と「え」。それが繰り返し繰り返し沈黙を割って聞こえていた。
彼女の身になにかが起こっている。
こちらからも「Roger」を意味する信号である「・ー・」を送り、僕は通話を切るや否や地面を蹴り上げる。全く同じタイミングで走り出していたらしいヒロが横に肩を並べた。

「なまえちゃんの家でなにか起こってる!?」
「そういうことだ、急ぐぞヒロ!」
「わかってる!」

運動系の部活に入部してよかったと今日ほど思ったことはないだろう。
慣れ親しんだ道を全力で駆け抜け、彼女の家の前まで辿り着くと息を切らしながらインターフォンを鳴らす。住人からの応答があるまで数秒はかかるものだとはわかっていても、その時間すらじれったく、僕は無礼を承知で何度も繰り返し押した。

「ちょ、ゼロ……! もし勘違いだったら……」
「何かあってからじゃ遅いだろ!」

7回目のインターフォンが鳴り響いたところでがちゃりとドアが開き、なまえの母親が顔を出す。

「おばさん、なまえちゃんが――」
「ああ、零君、景光君……ごめんね、今なまえちゃん、先生とお話してて……」

律儀にもなまえの母親に話を通そうとしている景光の横をすり抜け、僕は廊下に上がり込んだ。脱いだ靴は後ろ手に放り、ばたばたと音を立てて階段を駆け上がる。
ヒロが僕に代わって母親に頭を下げてくれているのを背中に聞きつつ、僕は間取りを知り尽くした幼馴染の家の中を走る。
なまえの部屋の扉をバンッ、と勢いよく開け放った刹那、目を疑うような光景が眼球に飛びついた。

「――――――!!」

そのとき自分が何を口走ったのかは覚えていない。ただ喉のひりつきから、とんでもなく大きな声で、烈火の如く怒号を吐き捨てたことを察するばかりだ。
人を殴ったのは久しぶりだった。小学生の頃、宮野先生に出会うきっかけとなったあの喧嘩以来だった。
ぐしゃぐしゃで、節々の湿ったベッドの上から、下半身を露出した男を床へ引き倒し、馬乗りになってその頬に拳を沈めた。
そいつの顔をまともに視認したのは顔を殴ったあとのことで、そいつがなまえのクラスの担任の教師だと電流のように理解した途端、血の気が引いていく。彼女の母親はなんと言っていた? 「今なまえちゃん、先生とお話してて……」――彼女は僕と景光が訪ねても頑なに顔を見せなかった。担任が突如不登校となったなまえの家を熱心に訪れているという話は、彼女の母親からは勿論、学校でも聞き及んでいた。幼馴染の僕らを締め出すほどの状態だった彼女に、生徒想いの教師を装って近づき、今日までずっと乱暴をしていたというのか。

――こんっっの、屑っっ……!!

こうなると彼女が欠席するきっかけからしておかしいということになってくる。
あの日、ずたぼろの状態で僕らのもとに現れた彼女を前に僕と景光が真っ先に疑ったのは同級生からの嫌がらせだったが……本当に髪を引っ張られて顔を殴られた“だけ”だったのか。僕らが目にしたなまえの怪我は全てあるひとつの行為の副産物で、本質は不透明なままなまえによって伏せられていたのではないか。――本当は、単純な暴力ではなかったのでは、ないか。
なまえの脹脛を濡らしていたのは、水ではなくこいつの体液だったのではないのか。

点と点が繋がり、線を成す。
教室の扉の前で怒鳴るような勢いで問い詰めた僕に、彼女が怯え、手をはたき落とした理由がやっとわかった。
直前に、この男に乱暴されていたからだ。傷だらけの脹脛を伝う雫と、それに入り交じる鮮血の意味が脳裏を駆け上がる。
腹の虫が治まらないどころか、怒りは膨張を続けている。もう一発殴ってやろうと腕を振り上げたとき、下の階から声がかかった。

「ゼロ!? 何があった!? 大丈夫か!?」

僕の怒号と男を引き倒したときの物音は家中に響いていたのだろう。明広げの部屋のドアの向こう、階段を登ろうとしているヒロが声を荒らげてこちらに問う。
僕は男の襟を掴んだまま叫び返した。

「ヒロ、来るな!! 警察を呼べ!!」
「警察!? なまえちゃんは大丈夫なの!?」

命に別条はない。だからといって無事と断じてしまうにはあまりにも。
酷、という語では足りない。どんな言葉でも過不足だ。
景光の足音が近づいてくる。いくらあいつとはいえ今の彼女を人の視線に晒してはならないと直感的に思い至り、「来るな」と遠ざけたはずだったが。言葉足らずな科白は、却って正義感の持ち主であるあいつを引き寄せる結果となってしまった。

「だめだ……入るな……」

全てが腐り果てた残酷な真相が露呈したことで怒りが続かなくなり、僕は震える声で足を止める気配のない景光に告げた。しかしそんな制止は虚空を弱く引っ掻くだけ。
室にあがった景光の瞳孔が大きく見開かれる。ベッドの上に裸で縮こまり、静かに肩を震わせて咽び泣いている彼女に、景光の視線が釘付けになる。

「みないで……」

か細い声で彼女が懇願するのを、やり場のない悔しさを握りしめた拳に集わせながら、聞いていた。景光もまた、僕と同様に拳を戦慄かせていた。
彼女は自らの躰を抱くようにしながら、少しでも僕らの目から己の肌を隠そうとしている。
僕が歩み寄ると、彼女は恐怖に顔を引きつらせて壁際に身を詰めた。白い背中を部屋の角に押し付けて、怯えた目で僕を仰ぐ。彼女にこんな恐怖を植え付けたこの男が憎くて堪らない。気絶するほど殴りつけてもきっと足りない。
僕はベッドの前に跪くと、学ランの上を脱いで彼女の肩に被せた。その折にも、なまえは僕が彼女に手を上げるのではないかと体を小さくして震えていた。



なまえはその日のうちに産婦人科を受診した。幸いと述べていいのかはわからないが、妊娠や子宮破裂といった事態には至らなかった。
現行の児童ポルノ禁止法では十八歳未満の未成年者の裸やそれに準ずる姿を写した写真・動画などを所有することが禁じられている。一般的なAVは多くが合意の元で撮影されているが、児童ポルノに関してはそれが記録として存在していることそれ自体が被害者の存在証明となり、必ず罪に問われる。あの教師は彼女との性交の様子を動画や写真に収めていたため、所持の罪は勿論、その動画が強姦の証拠とされて逮捕状が出た。
泣き寝入りや、裁判中に理不尽に判決がひっくり返されるケースの多い性犯罪において、これほど速やかにことが進むケースは恐らくは稀で、幸いなことではあるのだろうが……代償は計り知れない。

これで細かな余罪は未知数だというのだから反吐が出る。彼女の飲食物への異物混入は証拠不十分で、自供はあったもののしかと罪に問われるかまでは不透明だ。家宅捜索に入られた教師の自宅からは彼女の体操服が数着と、下着が見つかり、PCやスマートフォンからは上述の写真・映像が確認された。
調書の作成に瀕して僕らも事件の全体像を聞かされたが、景光は途中で気分を悪くして話を聞くのを中断し、彼女の身に起きたことを最後まで聞いた僕も、その後酷い吐き気に見舞われた。
それでも教師は十年か二十年程度でふたたび檻の外に放たれるらしい。

なまえは一ヶ月ほど欠席を続け、教師の懲戒処分の話が鳴りを潜めた頃に登校を再開した。行きは父親に車で送ってもらい、帰りは母親に迎えに来てもらう。教室には顔を出さず、保健室登校という形で出席日数を稼いでいるようだ。
僕も景光も彼女の様子を常に気にしていたが、保健室まで顔を見に行くことはできなかった。彼女が受けた仕打ちの、判明している限りの全体像を聞かされていたし、なによりあの子は僕らにすら怯えていたのだ。あの、部屋の角で縮こまり、震える彼女の畏怖に濡れた瞳が、僕らの足を保健室から遠のかせた。

「君、保健室行くなら、みょうじなまえっていう女の子の様子見てきてくれないか」
「みょうじなまえ? ああ、あの子……。うん、わかった」

体育の授業の後、僕は膝を擦り剥いた女子生徒に声をかけた。僕に対して好意的なのか知らないが、その名前の持ち主があの忌々しいニュースの当事者であることに顔を暗くしながらも、その生徒は二つ返事で了承してくれ、以降彼女は僕の頼みで連日保健室に通い、伝書鳩役を努めてくれた。

「みょうじさん、今日は体調悪くないんだって」
「勉強はしてるけど授業に出られないから成績が心配って言ってたよ」
「給食のカレー見ただけで吐いちゃったんだって。早退するって言ってた」

僕は彼女からの報告の中から垣間見えるなまえの現状に毎日一喜一憂した。何事もなく過ごせていることを喜び、あの教師の影を感じると視線を伏せた。
女子生徒の報告が昼休みの日課となった頃、ヒロがこう言ってくる。

「あの娘、ゼロのこと好きなんじゃないかな」
「……引き受けてくれるってことは、苦痛じゃないってことだろ」

それが恋慕だという確証がなければ友情との区別もついていなかったが、あの生徒の好意そのものには気づいていた。こんな、人の好意に漬け込むような真似は薄汚いとわかっていたが、なまえとの関わりの糸がほとんど残っていない今、なりふりかまっていられなかったのだ。

「降谷君、諸伏君。なまえちゃんがね、明日から教室に登校するから一緒に帰ろうって言ってたよ」

なまえは僕が彼女を保健室に通わせているということに気づいていたらしい。それとも彼女自ら伝書鳩であることを明かしたのだろうか。
その報告をくれた彼女の笑顔に寂しさの色を見つけたが、気づかぬふりをして「ありがとう」とだけ言った。


2023/06/13
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