比翼のアルビノ

46.口づけの回数が人生を超えたならば

ホテルのムーディな照明に浮き上がる互いの肌は、非日常感の化粧を帯びていた。零君の健やかな小麦色の肌にそっと鼻先を寄せて、まだ流されていない、行為のあとの汗の香りを肺いっぱいに招き入れる。「嗅ぐなよ」なんて恥ずかしそうに眉を下げて笑う彼だけれど、匂いを嗅いだり、鎖骨をちゅうと吸う私の髪を愛猫でも愛でるように撫で、好きにさせてくれていた。興奮すると私を追い詰めるように抱いてしまう負い目からか、事が終わると私を甘やかして、蜂蜜の瓶の底に沈むような時間をくれる。
私は零君の、汗が乾いて塩の味だけが残る首筋をぺろりと舐めて、そこを甘噛してみようと欠伸をするように口を開いてみた。けれど、やはりまずいかな、と思っておとなしく牙を引っ込めると、かわりに引き締まった胸筋にキスマークを残す。

「見えるところにはつけてくれないのか?」
「困らない?」
「なまえに困らせて貰えるなら本望だよ」

うっとりと私を見下ろす零君の瞳は、きっと別のところにキスして欲しいのだろう。上肢なんて曖昧なところではなくて、唇に。それを見抜いた私は一度彼の唇に自身のそれを重ねたあと、お望み通り顎の裏に吸い付いた。

「んっ……」

前歯の先がぶつかってしまうたび、私のすぐ下で幽かに震える喉仏が色っぽい。恥じらっているのか、限界まで堪えて、ついに漏れてしまったような彼の喘ぎが私の耳を熱くする。肌に色を残すキスを桜の花びらのようにはらはらと散らし、顔をあげると零君が私の頬を撫でてきた。

「……ついた?」
「うん、上手くついた」

零君は待ちくたびれたとばかりに私の唇を奪った。キスマークはつけてほしいのにキスができないのは我慢がならない、なんて欲張りな人だ。深いけれど、焦燥感に急かされない落ち着きのあるキスをする。熱く私を抱いたあとで、彼も余裕があるのだろう。私の酸素は奪わないよう慮りながら、大人の戯れを楽しむが如く絡ませた舌を味わうものだから、唾液が溢れるまでにも時間がかかった。溺死しそうになるくらい濡れる口腔を彼の舌が丹念に舐めあげて、唾液を攫っていく。こくりと嚥下した零君があまりにもいとおしくてその喉にそっと触れると、向こうも私の首の裏を捕まえてきた。もっと奥にまで舌を挿し込まれるのだと思い、途端に身構えると、私は受け入れるつもりだったにも関わらず、零君の方から身を離してしまった。

「は……っ、危ない危ない、がっつくところだった」
「……がっつかないの?」
「無理させたくない」

こつん、と熱を測るように額に額を寄せられて、鼻先までもがキスをすると、心臓がきゅうんと痛むくらい幸福に満たされる。

「セックスしてると時間が流れるのがあっという間だろう。するのは好きだけど、そこはどうも惜しい。ただでさえ中々会えないのに、話せずに終わるのもなんだか、ね」

蝋燭の灯に似た仄かな明かりの中、照明を乗せて煌めく睫毛を伏せた零君はどこか黄昏れているように感じられた。人よりも濃く寂しさの薫る人生だろうに、決して悲観した事は口にしない彼。彼が空けている家を寂しいとは言えない私。それでも言葉の裏に隠した寂しさを互いにそっと無であっている。

「さっき、本当の零君を知ってるのは私だけかもって言ってたけど」

まるで自分にはもう私だけだと、今にも語りだしそうな零君に、そんなことはないと、孤独感を背負い込むにはその実まだ早いのだと、伝えたい。
くるくると、零君の肩の骨の上に指で円を描きながら、言葉を探す。

「私だけなんて……嘘だよ。前にゼロって呼んでくれる人がもういないって言ってたね。そんなことなかったよ。零君をゼロって呼んでくれる人、まだ私だけじゃないみたい」

――これでもう、僕をゼロと呼んでくれる奴もいなくなってしまったな。
――ゼロのにいちゃんによろしくね?
いたのだ。古いあだ名で彼を呼ぶ人間が、以外なところに。かつての友人でもなんでもない、私たちより二周りも年下の少年がその名前を知っていることにも、私たちの関係を見抜かれたことにも驚いたけれど、名探偵の称号が似合うあの子ならば納得だ。零君が一般人にそうやすやすと自身の身の上話をするとは思えないし、きっとあの少年が手ずから謎を紐解いて、白日のもとに晒してしまったに違いない。

「ごめんね、コナン君にばれちゃったみたい。誤魔化せなかった」
「嗚呼……あの少年か……。気にするな、僕も少しヒントを与えすぎたから」

あの零君にさえ白旗をあげさせる少年を、改めて私は畏怖した。

「彼なら下手に言いふらしたりはしないだろう。……そんなことより、ベッドで他の男の話をするなんて悪い奥さんだな」

零君が獲物の急所を見抜いた狼のように、眼光を妖しく尖らせた。

「コナン君はまだ子供だよ?」
「それでも僕にとっては恐ろしい男の一人だよ。妬けるね……」

言うやいなや零君は私の首筋に甘く噛み付いてくる。先の行為で麻痺した痛覚はそれすらも気持ちがいいと脳へ続く神経に狂った伝達を乗せてしまう。彼は首の表と裏に点々とついた歯の跡を舌でなぞり、ふ、と浅く息吹いた。

「誰も君の旦那を知らないから、これだって彼にしか牽制にはならないだろうな」
「子供から見たらただの怪我だと思うよ」
「どうかな。あの子はただの子供じゃあないから……」

幾らなんでも小学一年生でキスの先に就いてまで心得ているとは思えないが。

「大体、コナン君好きな人いるでしょ」
「嗚呼、蘭さん?」
「歳上のお姉さんが初恋なんてかわいいよね。ね、零君?」
「ちょっとうるさいぞ、君」
「きゃーっ」

不機嫌そうな物言いと、楽しそうな表情という、ちぐはぐな顔と声とで私に乗り上げて来た零君。彼の影に全身を黒く塗り潰された私は、まるで彼に同化して取り込まれたみたい。
がっつきたくない、と己を律した零君だけれど、早くも前言撤回だろうか。紳士と獣、くるくるとトランプのように裏と表をひっくり返す姿は、私の中の雌の側面をかき乱す。

「僕以外考えられないようにしてやらないと駄目みたいだな」

爛々と雄々しい情欲を揺蕩わせる双眸に当てられて、私の体も忘れかけていた熱を蘇らせた。星が瞬くような間に点火された私たちは、また一つになろうとする。

◆◆◆

三足の草鞋を履く僕には時計を気にかけずに済む夜は久方ぶりで、いつまでもなまえをこの手に抱いていられる慎ましやかな幸せから、中々躰が鎮火してくれなかった。彼女の鈴を転がすような声が欲の浴びすぎで濁るまで、ずっと奥を突いて、やめてとも言わない優しさに甘え、汗を迸らせる。火照る頬を横切る涙にさえ興奮を掻き立てられ、何度と無く子宮とキスを交わした。自分と彼女の肉体の境目が曖昧になるまで、ずっと。
そして夜明けの足音がカーテンの向こうから聞こえてくる頃、ほとんど夜通し欲の雨に濡れていた僕達は、身を清めるべく浴室へと足を運んだ。ふわふわの雲に溺れるような泡風呂にはしゃぐなまえを後ろから抱きしめて、ジャグジーバスの湯船に浸かる。桜の香りのバブルバスを溶かして、とろみのついた湯水を彼女の水面から浮いた肩にかけてやると、それはゆったりと滑り落ちて水面と一体化した。

「零君、比翼の鳥って知ってる?」

泡をもふもふと手のひらで捏ねながら、不意になまえがそんなことを問いかけてきた。

「故事成語の比翼連理の由来だろう? 中国の詩人、白居易の『長恨歌』で有名だな。『山海経』という昔の中国の地誌書にも書かれていたとか」
「ご、ごめん、それは知らない……。私より詳しいね」
「昔、ヒロのお兄さんと食事したときに聞いたことがあってね。頭のいい人で、故事成語に詳しい方だったから。まぁ、緊張しすぎてその時のことはあまり覚えていないんだけど。……って、話の腰を折ってしまったね。比翼の鳥がどうかしたのか?」

ぴちゃん、と幼い雫が軽やかに水面を叩き、跳ね返る水で一瞬だけ水の冠を拵える。彼女の背中を抱き締めていられるこの瞬間を、桜色の湯船を、雫の音色を、全部煮詰めて瓶にでも詰めておければいいのに。
なまえは僕の腕の中と膝の上で体を半回転させ、横向きになり、頭の側面をこちらに預けるようにして寄りかかってきた。座ったままする姫抱きのようだ。

「早い話が運命の人ってことだよね」
「そうだな」

比翼の鳥、連理の枝、水魚の交わり、形影一如、と常にともにある様子や、仲睦まじい夫婦を表す語句の筆頭でもある。
目も翼も一対ずつではなく、ひとつずつしか持っていないから、互いがいないと飛べない架空の鳥――怪鳥、一説には真鴨という説もあるらしいが――。由来となった二羽の、互いに互いがいなければ鳥として当たり前にやってのけられるはずのことさえままならない、という状態は依存に他ならず、互いの生まれ持った性質で互いを縛り合うその鳥を、僕は手放しに幸せだと喜ぶことができない。

「私ね、昔は自分には零君と景光君しかいないって思ってたから、二人が私にとっての比翼の鳥ならいいのにって思ってた。でも今は、零君に大切なものがたくさんあればあるほどいいと思ってるよ」

僕も同じだ――なんて、安っぽい同意の言葉はあまりにも月並みな回答だが、本当にしんから同じ気持ちだ。

「小さな子供にこんなこと期待するなんてよくないんだろうけど、それでも零君がコナン君と知り合ってくれてよかったと思ってる。私は仕事をしてる零君のことはきっと一生知らないままだから、あの子が代わりに暴いてくれたのなら、それはいいことなのかもしれない」
「ははっ、僕としては子供に正体を知られて立場がないけれど」

僕の苦笑する声がジャグジーの泡をひとつ弾けさせた。
いとしい人の唯一無二の存在として、その心の中の椅子をひとつ奪えたら、これ以上無いくらいに幸せだろう。しかしそれ以上に、愛しい彼女には、彼女が愛おしく思う沢山の物や人に囲まれて、健やかに、幸せであって欲しいとも、思う。いつか僕が彼女を手放さなければならなくなっても、すぐに立ち直れるくらい、その傷を癒せるものを沢山所有していて欲しいのだ。水墨画から黒という一色を奪ってしまった日には、それはもう芸術として成立しなくなってしまうだろうが、色とりどりの絵画からそれを構成する僅か一色が取り除かれても、存外人は気づかないだろうし、作品は作品としてそのまま美しく評価され続ける。
少なくとも僕は、異性の暴力性に怯える彼女を庇護という建前の元、鳥籠に閉じ込めてしまうことのできる立場にあった。今からでも彼女を経済的に孤立、依存させて、僕の監視の眼の恙無く行き届く箱庭に縛り続けることは可能だ。愚かしい策を叶える手立ては、不幸なことに僕の手札として幾らでも揃っているのだ。
それでも彼女を鑑賞のための美術品としてではなく、一人の意志のある人間として愛しているから、仮に自分が国家のために殉職しても彼女が幸せの青い鳥を見つけられるように、空を見上げられるように、その翼を手折りたくはない。その瞳を塞ぎたくもない。

「ねえ、なまえ。僕も同じだよ。君が毎日仕事をして、自分の世界を持って、僕の知らない好きなものを教えてくれることが、僕はすごく嬉しい――」

結局僕は白々しいほど月並みな言葉を唇に乗せた。それは恐ろしいくらい本心に即しているのに、彼女には一片だって伝わりはしないのだろう。
重ねた唇からは石鹸の苦い味がした。
君が日に日に手元に置いて守ってあげなければならなかった女の子ではなくなっていくことは、ときに寂しくもあるけれど、同時にそれは僕らを対等にしていくのだと、信じたい。


fin.

2023/08/21
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