比翼のアルビノ

44.物語のうらがわに記す

コナン君と、沖矢昴さんと英文化展に出かけた日から約1週間。
東京都米花区米花町2丁目22番地――コナン君からのメッセージに記されていた阿笠邸の住所に従い、私は紹介された発明家の家を尋ねていた。表札の『阿笠』の字をなんべんもよく確かめたのち、インターフォンに指で触れる。応答を待つまでの間、高級住宅地らしい広い家の並ぶ周辺を見回してみると、隣の家の『工藤』の表札が視界に引っかかった。あれがかの有名な高校生探偵、工藤新一の自宅なのだ。そして先日展示に同行した沖矢昴さんの住居でもあるという。
しかし探偵に、世界的推理作家に、元大女優に、東都大学大学院生とは……立派な洋館に見合う、浮世離れした顔ぶれの一家と住人だ。

「――はい」

インターフォンからの応答があった。

「あ……江戸川コナンくんから紹介されて参りました、みょうじと申します」
「おぉ、なまえさんじゃな。今開けます」

扉を開けた、丸眼鏡に白髪と白髭を蓄えた、ふくよかな体型の老人――阿笠博士に出迎えられ、通されたのは大きな窓が開放感を醸し出すリビングだった。奥には小学校低学年ほどと見られる小さな女の子の影があり、目が合うと軽く会釈だけしてくれる。

「えーと、防犯グッズのご相談じゃったのォ……。確か、奪われた時に危険でないもの、と。幾つか見繕ったものを持ってきますから、適当にかけていてくだされ」
「あ、はい、失礼します」

両手で抱えられる程度の箱に入った発明品を持ってきれくれた博士は、それをソファ席のテーブルに広げてひとつずつ紹介してくれた。

「この他には……今は販売をやめてしまっているんじゃが、“チョーカー型変成機”というものを出していた時期もあってのう。首に巻けば喉の振動を利用して自在に声が変えられて……ストーカーの迷惑電話にお役立ち……。インターフォンの対応に使えば、旦那さんが家を留守にしていることもばれないじゃろう。時間はかかってしまうが、似たものを作ることはできるよ。チョーカー型は訳あって売れなくなってしまったので、別な形にはなってしまうがのォ……」
「へえ、便利ですね。知り合いの声とかも出せるんですか?」
「技術的には可能じゃ。そちらで調節してもらう必要もあるにはあるが……」

女性は電話口やインターフォンでの対応で舐められやすい。それに零君の声を出して対応できたら心強いし、何より面白そうだ。
品を実際に手に取ったりして見ながら興味深く眺めていると、博士の携帯端末が音を立てた。どうぞ、と視線で促すと、「すまぬのう」と謝って話し始める。「それは大変じゃ、すぐに向かおう」と電話相手に言った博士は、切るなり私に申し訳無さそうな視線を送った。

「すまんが、ご近所さんのクーラーが壊れてしまったみたいでのう。ほれ、この時期じゃと修理まで時間がかかるじゃろう。熱中症になってもいかんので今から見てきたいのじゃが、その間待って頂いてもよろしいかな?」
「あ、では私、そろそろお暇します。ちょうどいい時間ですし」
「見送りもできないで申し訳ないが」

私はせかせかと荷物をまとめ始めると、ほとんど入れ違いに来客があったようでインターフォンが軽快に鳴った。同じく外出の支度をしていた博士が扉を開けると、そこには。

「おぉ、昴君か」

聞き覚えのある名前に私も玄関に視線を投げると、先週お会いしたばかりの沖矢さんが取っ手付きの白い箱を片手に佇んでいるではないか。

「こんにちは。大学の友人からケーキを頂いたのですが、何分甘いものが苦手なものでして……お裾分けに……。おや、みょうじさんもいらしてたんですね」
「あ、はい。といってもすぐに帰りますけれど」
「博士は……お出かけですか?」
「ああ、近所じゃがな」
「では博士が戻るまで、私がそちらのお姫様と留守番していましょう。君も家にひとりきりでは心細いだろう?」

博士のお孫さんと思われる少女は、赤みを帯びた栗色のショートボブヘアを揺らし、沖矢さんから顔を隠すように家具の影に身を潜めてしまう。幼くも綺麗な顔立ちを緊張に顰めた彼女は、人見知りをする質らしい。

「では哀君。昴君と留守番、頼んじゃぞ」

彼女のことを哀、と呼んで目配せした博士と連れ立って私も玄関へと向かおうとする。しかし、くん、と服の裾を下から弱々しく引かれたので、立ち止まった。振り返れば視界の低いところに明るい栗色の旋毛と、髪と同じ色の伏せられた睫毛が見える。

「お姉さん、私、紅茶淹れたの。よかったら飲んで行ってくれないかしら……」
「え、でも……」
「お願い」

そよ風にすらかき消されそうな、囁くような声音で短く懇願され、私は折れた。

「わかった。阿笠さんが戻られるまでいようか」
「ありがとう」

憶測に過ぎないが、単なる人見知りではないのやもと、少女に対して深読みをしてしまったからだ。沖矢さんも私も同じ来客であり、私に至っては今日が初対面で、隣人の沖矢さんとは何度か顔を合わせることもあるであろうに、彼女は沖矢さんの訪問にだけ異様に身を強張らせ、私にはしてくれた会釈すらせずに物陰に息を潜めた。
根拠なんてどこにもないけれど、それがなんだか知らない異性を前にした時の自分に重なって見え、この子は私と同じなのかも知れないと思ってしまったのだ。

「ご近所さんとはいえ男の人と二人きりは怖いよね……」

しゃがんだ私は、彼女の髪に隠れた耳にそっと内緒話を吹き込んだ。
(異性が苦手、というより得体の知れない大学院生を避けたいだけなのだが、それは言い訳としては充分だったので灰原は頷いた。)



沖矢さんが持って切れてくれたケーキは渋谷の人気パティスリーのもので、1ピースずつ箱に詰められたモンブランやペリドット色のマスカットのタルトに、部外者ながら相伴に預かることになった私は目を輝かせてしまう。出処は大学の友人だと仰っていたが、きっとその相手は女性で、ともすれば彼に気があるのではなかろうかと邪推を働かせた。
少女が淹れてくれた紅茶がソファの前のローテーブルに並ぶと、私と彼女はそれぞれに好きなケーキを選んで皿に乗せた。沖矢さんは「僕は紅茶だけで結構です」とのことである。勿体ない。

「お名前なんて言うの? 哀ちゃんって呼ばれてたけど」
「……灰原哀」
「可愛い名前だね。私はみょうじなまえって言うんだ。幾つ?」
「小学1年生」
「じゃあコナン君と同い年なんだね」
「彼は同級生なの」
灰原哀ちゃんはもみあげを耳裏にかける仕草にさえも6歳か7歳の少女とは信じられないような落ち着きと色香を伴っていた。
私達は紅茶とケーキを頂く。表情に憂い以外の変化をあまり覗かせない大人びた灰原さんも、人気店の飛ぶように売れるケーキを口に運んだ瞬間には、目の色を仄かに移ろわせた。食べ終えるとファッション雑誌の『アンノン』をめくり始める。彼女が熱心に視線を注いでいるのは、銀杏のロゴで有名なフサエブランドの広告で、ブランデーの香りの効いたケーキや、ストレートの紅茶に舌鼓を打っていたことも含め、妙齢の女性が少女のきぐるみを来て姿を偽って生きているとしか思えない。
類は友を呼ぶというけれど、コナン君の周囲は聡明な人が多く集っている。無論、零君や眼前の沖矢さんも含めて。
おとなしく時間を潰している灰原さんを邪魔しないように、私は沖矢さんと談笑していた。

「失礼ですが……みょうじさんは男性に苦手意識をお持ちなのでは?」
「えっ」

話の半ば、唐突に図星を疲れ、私は紅茶のカップに触れかけていた口を離す。

「先週もずっと腕組みをしていらっしゃいましたよね。最初はただの癖かとも思ったのですが、私と並んで歩く時は真ん中にコナン君を挟むか、距離を開けていらっしゃることが多い……。道で男性とぶつかられた時も辛そうな顔をしていらしたので」
「よく見ていらっしゃいますね」

怖いくらいだ。

「……まぁ一番は誘ってくれたボウヤに『なまえさんとは距離感に気をつけてあげてね』と事前に釘を刺されていたからです。最も、彼は貴女が既婚者で、旦那さんがとても大事にされているから目をつけられないようにとも言っていましたから、それが貴女の苦手意識への配慮だったと気づいたのはお会いしてしばらくしてからですが」
「そ、その通りです……」
「理由まで突っ込む気はありませんのでご安心を……。触れられたくないこともあるでしょう……。私としては、貴女を大層大事になさっているという旦那さんのお人柄に興味が湧きますが」
「は、はぁ、そうですか。言った通り忙しい人なのでお話しできることもあまりありませんけれど。コナン君は夫についてはなんて?」
「過保護な人、とは言っていましたね」
「コナン君は夫を知らないはずなんですけど、どこでそんな印象を持ったんでしょうね」
「さぁ、勘のいい少年ですから……。会話の節々からパーソナリティを推理してしまったのかもしれませんね」

――ゼロのにいちゃんによろしくね?

先週の帰り際の言葉が耳の奥に反響した。
コナン君は、きっと私と零君の関係を看破している。誤魔化しにほつれがあったとすればそれは私の失態だろう。察せられる情報を、きっと私がいつかに漏らした。それか種井陸に拉致された折に緊急事態故に明かさなければならなかったか。
はやくこのことを彼にも報せたいのに、生活の時間が噛み合わず、暫く顔を合わせていない。今日零君が帰ってこなかったらメッセージでも送っておこう、と考え、不意に窓の外に視線を投げた時。玄関のフェンスの向こうに停車している純白の車が飛び込んできた。見覚えのある車種だ。あんなにも目立って燃費の悪いスポーツカーを乗り回している人間がこの町に何人もいたらたまらない。
――えっ。どうしよう。零君だったりする? あー、ナンバー見えない……。

「あの白のRX-7が気になりますか?」
「え?」

内心まごまごとし、動揺をまばたきの数にも反映させながら外を伺っていると、私の変化をすぐさま見抜いた沖矢さんが問ってくる。頭のいい人って怖い。

「外の車ですよ」
「あ、あぁ……いや、気づいたらずっといるみたいですから……。ライトが吊り目じゃないので、古い車種なのかなと。車ってライトが丸い方がかわいいじゃないですか。それで見てました」
「……かわいい?」
「かわいくないですか?」

首を傾げる沖矢さんに、私もつられて首を傾ける。

「その視点はありませんでした。私も車にこだわっている方ですが、どちらかといえばかっこいいと感じていたので」
「沖矢さんのお車ってこの前乗せて頂いたやつですよね。ライトが丸いので古いのかなとは思ってましたけど、珍しいものなんですか?」
「50年前の車ですから大分古いですね……」
「えっ、そんなに!?」
「えぇ、“スバル360”という車種です」
「あれ、沖矢さん、下のお名前って……」
「昴です」
「ですよね。なるほど、それでですか。自分と同じ名前の車があったら、そりゃあびびっときちゃいますよね」
「おや、誰か自分の名前と同じか、もしくは同じ由来を持つ車に乗っているお知り合いがいるんですか?」
「誰だってシンパシーが湧くものじゃあですか?」

うまく即答できた。
RX-7も零戦をモチーフに作られた車種だと聞いている。本人ははぐらかしていたが、購入の決め手は同じゼロであることだろう。
私は目立つ車を眼界の隅に気にかけながら、沖矢さんからの半ば追求じみた質問をのらりくらりと躱し、阿笠博士の帰宅を待った。
博士が家に戻ると、私と沖矢さんは揃って阿笠邸を出る。博士の丸い背中に身を隠しつつ、玄関先まで見送りに来てくれた灰原さんにまたねと手をふると、控えめに手を翳してくれた。

「こんな時間ですし、私でよければ車、出しましょうか」
「――その必要はありません。みょうじさん、お久しぶりです。僕がご自宅までお送りしますよ」

沖矢さんの親切な提案を私に先んじて、半ば割り込むようにして一刀両断したのは、よく耳に馴染んだ声色だった。私が知る彼の声よりも、多くにこやかさを含んでいるけれど。案の定、RX-7の窓から見慣れた面立ちに見慣れぬ笑みを湛えた金髪の美男が顔を覗かせている。

「あ、安室さん……」
「これはこれは宅配業者の安室さんじゃないですか」
「宅配業者!?」

沖矢さんの斜め上の安室透認識に私はひっくり返りそうになった。堪らず声を上げた私に、安室さんも笑みを引き攣らせる。

「え、ええ、一度バイトをしまして。本業はみょうじさんもご存知の通り私立探偵ですよ」
「そ、そうですか」
「それじゃあ乗っちゃってください。荷物、退けてありますから」
「は、はい」

余計なことは言うな、早く乗れ、こっちへ来いという無言の圧力をひしひしと肩に感じながら、私はRX-7の助手席に乗り込んだ。いつの間にか閉じられている窓越しに沖矢さんに会釈をすると、すぐに車は発進してしまう。
私には零君が何をそんなにも焦っているのか理解できなかった。私が同年代の異性と話していたところで、心配こそすれこんなにもあからさまに不機嫌になることはない人なのに。

「休んでいたらあの大学院生と君が出てくるんだ、驚いたよ」
「ちょっと阿笠さんの家にお邪魔してて。そしたら彼が……」
「それ、どうしたんだ?」

住宅街から大通りに抜けた頃、零君が私が手にしているケーキボックスを一瞥した。

「沖矢さんがケーキくれたんだ」
「そんなもの貰ってくるな」
「せっかく渋谷の人気店のお菓子なのに。零君も甘いものは好きでしょ」
「そんなの僕がいくらでも連れてってやるし君の好きなものなんでも作ってやるから、あの大学院生からの貰い物だけはやめてくれ。本当に。胃にも腸にも入れるな」
「ごめん、さっき頂いちゃった」
「はー……君な……。捨てろ、今すぐに」
「そ、そこまで? 本当にどうしたの? 確かに私、男の人からもらったものは食べないようにしてるけど、見た感じ沖矢さんは安室さんの友達なんだよね? なら、」
「断じて友達ではない」
「……。知り合いでしょ? なら大丈夫じゃないかな」
「まぁ一般人の食品に異物を混入させる人間ではないと思うが……仕掛けられたとして盗聴器やGPSの類……それも反応はないから、隣人を訪ねる口実としてストックしていただけだろう……。恐らく食べても健康上の問題はないが、僕が嫌だ。頼むから捨ててくれ」

零君はグローブボックスから取り出したリモコン状の盗聴器発見機とGPS発見器をケースの箱に翳した。先日の事件の折にコナン君を乗せた後も同じようになにか仕掛けられている可能性を警戒していたが、子供や大学院生相手に神経質過ぎやしないだろうか。沖矢さんに至っては何故ここまで零君に邪推されているのだろう。どう考えても一般市民に差し向ける警戒の程度を超越している。

「なんであの人のことが嫌いなの? 怪しいけどいい人そうだったよ」
「怪しい奴をいい人とか言うな」
「だよね。正直ちょっと怖いんだよね……阿笠さんとこの女の子が怖がるのもわかるよ」
「あー……何度かコナン君と一緒にいるところを見かけた子だな。もしかしてそれで一緒にいたのか?」
「二人っきりにしたら可哀想だと思って。もしかしてあの人、警察が追うような悪い人なの? それで張ってたの?」
「悪人――ではないな。それは僕が保証する」

ただ、と繋いで。

「あの男は……僕と君の大事なものが壊れるところを黙って見ていたやつだから。止められたはずなのに、黙って見ていた」

運転席側の窓から差す逆光が、鼻先の高い横顔を影絵のように浮かび上がらせる。光に紛れて零君の面持ちは伺い知れないけれど、声色は吐血を伴うように痛ましくて、私は、無知に起因するものとはいえ、軽い気持ちでなんという罪を犯してしまったのだろうと海よりも深い後悔に見舞われた。
しかしまぁ、と次に零君が口火を切った時、ビルの群れが作る影が蒼く車内を満たしていて、薄く笑みを刷いている口元は私の目にも捉えることができた。

「“旦那さん”の情報を漏らさなかったのは褒めてやる。うまく誤魔化せたな」

信号に捕まったタイミングで、ぽふ、と零君が私の頭を撫でた。

「……ちょっと偉そうだよ」
「一般人に無茶を言う気はないが、君の口が僕ほど立たないのは事実だ」

帰路の途中、人の気配のない裏道にて、零君は車を停めた。どうしたのだろうと首を傾げていると、シートベルトをしゅるりと外した彼が私の座る助手席側に大きく身を乗り出してくる。え、え、と鼻先まで寄せられる顔に戸惑いながら、それ以上後退もできない癖に、悪足掻きのように背もたれに背中を押し付けていると――がくんっ、と背中が頼りにしていたはずの行き止まりが突如として失われた。

「わっ!?」

真後ろに倒れた私にすかさずのしかかってくる零君の、まるで手はず通りに事が運んでいるかのような余裕のある所作を見て、シートを倒した犯人が彼であることを悟る。水平に近くなったシートの上で覆い被さられ、逃げ場はなくて、ここで、こんなところで、してしまうのかもしれない、と漠然と思うと、脳の奥底が夜にしか味わえない熱を思い出した。

「す、するの? ここで?」
「したい。駄目?」

西に動きつつある太陽を背負った零君が私のブラウスの襟を寛げた。答えを聞く前に首筋に頭が埋められる。きつく吸われたから、きっとキスマークが残っている。らしくもない。これじゃあまるで零君が沖矢さんに嫉妬しているみたいじゃないか。
首へのキスだけならいざしらず――着る服に頭を悩まされることにはなるのは憂鬱だけれど――、鎖骨より下に行かれては気が気じゃない。ブラを軽く下げられて、そこにまで赤い痕跡を散らされ、更には爪の先で乳首を撫でられるとてんてこ舞いになった。

「ひゃ、だめっ、零君……! 駄目だよ、見られちゃう」

計算高いこの人のことだから人のいない道を選んでことに及ぼうとしているのは間違いないけれど、誰かの足音にびくびくしてしまう心では、きっと彼との時間に集中できないと思った。
この短い時間で幾つも刻んだ首と鎖骨の赤い印を指でなぞり、薄くほくそ笑む零君だが、その眼に浮かぶのは満足どころかこれからどう調理してくれようかと計画を練る参謀のような鈍い光だ。

「れ、零君……?」
「ん? どうしたらおしおきになるかと思ってな。痛くするのも酷くするのも嫌だし……」

おしおき、というその言葉に、ひゅ、と喉が鳴る。

「沖矢さんのこと、そんなに嫌だった? ごめんね。零君がやめてって言ってくれるなら、あの人とはもう会わないよ。会っても二人きりにならないようにするし、すぐ帰るようにする。必要なら連絡先も今ここで消すから……。不安にさせてごめんね」
「不安、か……。不安だったのかもな……僕……」

私の言葉を復唱した零君は、朝靄のように彼の胸を覆い隠していた言い知れぬ感情の群れに名称を宛てがわれ、それを噛み砕き、嚥下し、昇華することができたようだった。

「今すぐ君を抱きたいんだけど、嫌か?」
「やじゃない、けど……場所がやだ……」

私だってなかなか会えなくて寂しかったのだ。行為そのものには前向きなことを示しつつ、帰りたいという意図を伝えると、零君は乱したばかりの襟をせっせと正してくれた。

「場所、変えようか」

釦が一番上まで閉められると、背中に腕を回されて抱き起こされる。シートをもとの角度に戻すと、彼はやや乱雑に運転席に腰を下した。
車は再び走り出すが、走れば走るほどに最短の帰路を外れてゆき、窓の外を見慣れない景色が流れていく。

「零君、家こっちじゃないよ」
「家には帰らないよ。行くのはホテル。ここから近い」

近い、ただそれだけで選ぶということは、それだけ切羽詰まっているということ。もじ、と照れて汗をかいてしまった両手を膝の上で組むと、横から伸びてきた褐色の大きな手がそこに重ねられた。
こんな、デートみたいなこと、いつぶりだろう。


2023/07/30
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