比翼のアルビノ

43.ふれたらきえるシュガー

約束の週末の朝、毛利探偵事務所を尋ねると、コナン君のかわいらしい笑顔に出迎えられた。

「おはよう、お姉さん。今日一緒に行く人、近くの駐車場で待ってるってさ! 早く行こう」

私は自然に手を引かれ、まるでエスコートをされるように緩やかに階段を下っていく。
コナン君は淡いセピア色のシャツに紺色のタータンチェックのベストを合わせ、同じく紺のネクタイを締めたていた。クラシカルでどこかブリティッシュな装いは、眼鏡に目を引きつけられるために見失いがちだが、紅顔の美少年と称するに相応しい、見目に恵まれた彼によく似合っている。
本日の行き先である英文化展に合わせてコーディネートしてくれているのだろうか。だとすればその容貌と頭脳と合わせ、将来とんでもない引く手あまたの美青年に化けるに違いない、末恐ろしい。

「男の人だけどいい人だから安心してね。ボクも頼りにしてる人なんだ」

ぎゅ、と私の手を握って、こちらを見上げるコナン君に、不覚にもときめきそうになる。どんな教育を施せばこんな気遣いのできる聡明な美少年が誕生するのだろう。
コナン君に手を引かれるまま導かれた先には、目立つ紅緋色の車が停まっていた。丸みを帯びたボディとライトの形状から鑑みるに、古い車種であることが伺える。零君といいなんといい、この町は車に拘りのある人間が多いらしい。
運転手とコナン君は気心知れた仲であるのか、窓越しに軽く手を振って、彼は後部座席のドアを開けると乗り込んでしまう。「どうぞ」という車内からの歓迎の声に従って、私は頭を低めて後に続いた。

「大学院生の沖矢昴さん! ボクの知り合いのお兄ちゃんの家に居候してるんだ!」

コナン君の紹介に合わせ、運転手の男性は上肢を捻って前の席からこちらを振り返り、会釈してくれる。沖矢昴さんは、狐のような細い眼に眼鏡をかけた、端正な顔立ちの青年だった。ややうねりのある質感の、明るいピンクブラウンの髪を中央でさっと軽く分けており、首をぴっちりと隠すタートルネックとジャケットがカジュアルさの中にも上品な印象を奏でている。
私が会釈をし返すと、沖矢さんは幽かに鼻にかかったなめらかなテノールを響かせる。

「沖矢です。彼から聞いていると思いますが、シャーロック・ホームズの大ファンでして……。イギリス文化にも馴染みがあるので、チケットを譲って頂いて恐縮です」
「い、いえ、お好きな方に使って頂けるのが一番ですから。えっと、みょうじなまえと申します」
「伺っています。よろしくお願いしますね」

私が名乗るのは今日もやはり旧姓だ。職場でも旧姓を通称として選択し、運転席に向けて手渡した名刺もその名前で作っているから怪しまれることはない。仮に身分証の姓との相違をとやかく言われても、取引先に苗字が変わったことが伝わっていない場合不便だからという理由で押し通せる。
なにより降谷の姓は国内でも数少ない。自分の迂闊さから彼の存在に繋がることを危惧し、あらゆる可能性の芽を摘んできた。零君は私がみょうじと名乗る都度、少し寂しそうな顔をするけれど。

「すまないね、コナン君。デートの邪魔をしてしまって」
「か、からかわないでよ、昴さん……」
「そうですよ、こんなアラサーのおばさんとデートなんて。それにコナン君にはもう好い人いるもんね」
「なまえさん!?」

料理上手で心優しく、綺麗な長い髪のお姉さんと同居していればそれは心を奪われるのも道理だろう。彼ほど頭のいい子なら同年代の女の子は幼く感じられてしまうであろうし、蘭さんが初恋だなんて可愛らしいじゃないか。
顔を赤らめたコナン君は口を尖らせて窓の方を向く。

「……あと、お姉さんはおばさんじゃないよ」
「ありがとう、嬉しいな。コナン君は優しいね」

上野駅近辺で開催されている英文化展を目的地に、車は発進する。

「あの、沖矢さんはどちらの大学なんですか」
「東都大学の工学部に……」
「えっ、すごいですね」

世間話も兼ねて尋ねてみると、沖矢さんがとんでもない秀才だと判明する。
――東都大学って言ったら景光君のお兄さんと同じだよね……。コナン君って居候先は眠りの小五郎の家だし、警察の人からも一目置かれてるし、安室さんとも仲良かったみたいだし、交友関係、すごいな。

「そういえばお姉さん、あのあと大丈夫だった?」
「うん、もう聴取とかも大方終わったって言われたし。嗚呼、コナン君に借りてたジャケット、今日洗ったの持ってきたよ。帰りに渡すね」
「……聴取、ということは何か事件や事故に遭われたんですか?」

コナン君と話していると、沖矢さんがそう問いかけてきた。私の代わりに答えてくれるのはコナン君だ。

「お姉さん、先週殺人事件に遭った上に、その翌日に罪をなすりつけようとした犯人に拉致されちゃったんだよ」
「それはそれは、お気の毒に。コナン君はいつものことだとしても、大変だったでしょう」
「いつものことなんですか……?」
「あははははー……。お姉さんも大変だよね、前もストーカー被害に遭ったとか言ってなかったっけ」
「あ、実はね、あの時のストーカー、種井陸が――あ、殺人と拉致の犯人の名前なんですけど――が私の居場所を突き止めるために雇った探偵だったんだって。だから一応そっちも解決したんだけど、怖いよね」
「そこ繋がってたんだ……?」

意外そうに目を丸くするコナン君に、私は頷いた。本当に恐ろしいことだ。動機を見るに特別誰かから恨みを買ったわけでもないというのに、ここまで巻き込まれるとは。

「あの後ね、心配した夫が防犯グッズとか色々買いこんできて、渡されて……」
「そりゃあ繋がりがあったとはいえ、立て続けに三件も巻き込まれたらそうだよね」
「防犯ブザーとか持ったの、小学生以来だよ。コナン君も持ってる?」
「うん、入学式で貰ったの使ってる」
「防犯グッズというと、あとは催涙スプレーとか、スタンガンなどでしょうか?」と、沖矢さん。
「あぁ、いえ……私は買おうとしたんですが、奪われた時に逆に脅威になるような武器は持つなと夫に却下されました」
「賢明ですねえ……。下手に護身術などを身に着けないほうがいい、とも言われたんじゃないですか?」
「よくわかりますね、沖矢さん」
「基本ですから」
「本当にその通りです。足を踏んでとにかく逃げろ、逃げる体力と脚力だけつけておけばいいって」

ミラーに写った彼の細い目は何もかもを見透かしているようで少しだけ背筋が粟立った。聡いコナン君がいい人だと太鼓判を押しているくらいなのだから疑うのも失礼だろうけれど、長年連れ添った幼馴染の零君や、容貌の幼さゆえに危機感を誘発しないコナン君とは違い、関係性も浅く、よくよく目を凝らせば体格も良い沖矢さんからの追求は少しだけ怖かった。私は嫌な音を立てる心臓を肋骨の檻の中に閉じ込め、冷や汗の滲む手で鍵をかける。

「コナン君、防犯グッズなら阿笠博士が幾つか出していたんじゃないかい? 彼女に紹介してあげたらどうだろう」
「そうだね、中には販売中止になったのもあるけど……なまえさんが持つのにいいものも中にはあるのかも」
「阿笠博士……?」

聞き覚えのない名前に私は首を傾げる。どうやら二人の共通の知人のようだが、博士といえば博士号……大学の教授に就いている方なのだろうか。するとすぐさまコナン君が疑問を解消してくれた。

「そう! ハカセって書いてヒロシなんだけどね、昴さんの隣人の発明家でさ、便利なものを色々作ってるんだ。ま、ほとんど我楽多だけど……。武器になりようもないものも中にはあるんじゃないのかな。なんなら頼めば作ってくれるかも」
「いや、そこまでしてもらうわけには……!」
「そうだね、お金もかかっちゃうし。既存のもので何かないか聞いておくよ」
「ありがとう」

そしてその発明博士を私にも今度紹介してくれるという話になり、私はどんどんとコナン君の人間関係の渦に深入りさせられていくことになるのだった。



英文化展は開催期限も目前ということも有り、リピート客と思しき慣れた客と私達のような駆け込みの客で大いに賑わっていた。
入場早々にシャーロック・ホームズの挿絵を引き伸ばして作られた等身大パネルに出迎えられる。かの名探偵の身長については180センチメートル超えという記述が原作にあるらしく、私は顎に傾斜をつけて見上げることになった。零君と変わらないか、少し高いくらいなのだな、と見入っていると、隣に立った沖矢さんの身長がパネルと大差ないことに気づく。車の中では座っていたためわからなかったが、彼も相当に背丈に恵まれている部類のようだ。
「はい、チーズ!」とコナン君とホームズパネルのツーショットを彼の携帯端末で撮ってやり、「みょうじさんもどうですか、僕撮りますよ」という沖矢さんの厚意をやんわりと躱す。それはちょっと照れてしまう。

「ホームズって誕生日とかあるんだ」

パネルの隣の看板に記載された、ホームズのプロフィールを眺めながら呟くと、ひょこりとコナン君が顔を覗かせる。

「1854年1月6日でしょ? 生きてたら169歳だね。日本だったら嘉永6年生まれ」
「コナン君計算早いね」
「実はボクの誕生日、ホームズが滝壺に落ちた日なんだ」
「え、そうなの? いつ?」
「5月4日!」

敬愛する名探偵の仮の命日と同日の生まれだなんて、まるで少年はシャーロック・ホームズの生まれ変わりのようだ――。
なんて考えていると、ポケットに手を入れたまま腰を曲げて屈んだ沖矢さんが、コナン君と視線を合わせる。

「ホォ――……コナン君は工藤新一君と誕生日が同じなんですね」
「す、すっごい偶然だよね!」

途端にわたわたと慌て始めたコナン君は私の足の裏側に身を隠してしまった。
高校生探偵の工藤新一というと、彼の遠縁の親戚だという話だ。血縁者と誕生日が同日だというのも、これまた運命のような偶然である。
それから私達は、看板の展示であるホームズやコナン・ドイルに纏わる展示を丁寧に巡っていった。

「ホームズの挿絵も沢山あるんだね」
「有名なのはシドニー・エドワード・パジェットや、コナン・ドイルの父親のチャールズ・ドイルが描いた絵かな。パジェットの描いた挿絵の幾つかは、西洋絵画をモチーフにしているとも言われているんだよ。この『ボヘミアの醜聞』のホームズがテーブルに就いているイラストは、レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』の構図を左右反転させたものなんじゃないかって考えている人もいる。『最後の晩餐』に当てはめると、ホームズがキリストで、ワトソンが使徒の立ち位置になるんだって」
「私達が葛飾北斎を真似てああいう大きな波の絵を書くのと一緒なのかな」
「そうかもね」

受付では各作品や展示の音声アナウンスを聞くことの出来るイヤホンを販売していたが、コナン君がいてくれるとそれも必要ない。雑踏の中でもよく通る彼の声に耳を傾けながら、私は手を繋いでいる彼の歩幅や見る速度を優先してゆったりと進んでいく。
沖矢さんはというとやや後ろから私達に続いていた。瞳の居所の掴みにくい彼の狐目は、感情の起伏や視線の向けられる先も掴みにくいが、時折挿絵や解説パネルの前で足を止め、興味深そうに拳を口元に触れさせる辺り、熱心なシャーロキアンだというコナン君の紹介は真実で、楽しんでくれているようだった。

「ホームズもアリスも同じヴィクトリア朝の作品なんだよね。お国柄もあるのかも知れないけど、どことなく挿絵の雰囲気とかも似てるかも」

英文学の挿絵と題された展示にひととおり視線を這わせ、私は呟く。

「『不思議の国のアリス』の発表が1865年、『シャーロック・ホームズシリーズ』の一作目の発表が1887年……20年以上間が空いているとはいえ、同じ時代の文学作品だね。ちなみにコナン・ドイルの誕生は、アリスの発表の6年前の1859年なんだ」
「へぇー……。『不思議の国のアリス』ってキャロルが姪のアリスのために考えた『地下の国のアリス』を出版のために手直ししたものだから、発行までの期間も加味するともうちょっと開くのかな。……あ、ねぇ、コナン君。ヴィクトリア朝って、イギリスにおける日本の明治維新にあたる時期なんだよね。新しいものがどんどん入って来た時代なんだっけ」

コナン君の話はどれも興味深いものだから、ついこちらも教養のある大人を相手取るつもりで話を広げてしまう。

「そうそう、改革があったのは主に庶民の食生活で、」
「――“第二次食事革命”……とされる時代ですね?」

コナン君の言葉を沖矢さんが先取りした。

「この時期に、所謂イギリスの家庭料理の伝統ができあがったのではないかとされています。ちなみに“第一次食事革命”は17世紀中期から18世紀初頭とされていて、新大陸からトマトやじゃがいも、とうもろこし、ピーナッツ、砂糖、バナナ、米などが輸入されました。珈琲やココアの登場もこの頃……」
「あれ、じゃあ第二次の方では何が出てきたんですか?」
「いい質問ですね。輸入先の拡大から起こった第一次食事革命に対して、19世紀中期の第二次食事革命は鉄道や蒸気船などの移動手段の発達や、食料保存法の発達によって齎されたもの……。新鮮な肉や魚が安い値段で庶民の元に届くようになりました。有名なフィッシュ・アンド・チップスの登場も、この恩恵を受けてのもの。ちなみに、バターが発明されたり、肉類が冷凍で運ばれたりしたのがこの少し前です」
「沖矢さん詳しいですね。イギリス人みたい」
「まあ……散々やりましたからね」
「工学部って仰ってましたけど、文系の講義も取られてるんですか?」
「いえ、イギリス史を学んだのはもっと若い……というより幼い頃ですよ……」
「えー、小中学生の時ってことですか? 私そこまでやった覚えないです」
「みょうじさんは聞き上手ですね。つい話しすぎてしまいます」

あ、はぐらかされたな。そう思った。
零君と話していると自然とこちらが聞き役に回ることが多くなるから、それで相槌の腕があがった、というのは多少あり、私も私で自分よりも頭のいい人の話を聞く機会に恵まれるのは幸いなことだと思っている。特にコナン君の実年齢不相応の知識の深さは今の零君にも、幼い頃の零君にも通ずるところがあり、懐かしさでつい聞いてあげたくなってしまうのだ。

「あ、昴さん! あっち、ホームズの部屋だって!」
「ほう、それは興味深い……」

それまで礼儀を弁えた歩幅で見物していたコナン君が、ベイカー街221Bの下宿を再現した展示を見つけるやいなや、子供のように――いや間違いなく子供なのだけれど、駆け出してしまった。
その部屋は、ロンドンのシャーロック・ホームズ博物館のディレクションや研究者の協力を得て、時代背景まで鑑みて再現されているのだという。豪奢な絨毯、光沢のある緋色の椅子、あたたかみのあるランプの灯りのひとつひとつに至るまで、ヴィクトリア時代からエドワーディアン時代の家具を選定され、現代に蘇っていることから、まさに時を超える体験ができる部屋だ。

「すっげー! ロンドンのベーカー街で見たのとそっくり! 再現度高えな……!」
「えっ、コナン君イギリス行ったことあるの?」
「ちょっと前にね! こっちのもいいなー」

シャーロック・ホームズを象徴するインバネスコートとディアストーカーが壁にかけられ、パイプが置き去りにされた部屋は、どこかに彼の生活の残り香を醸し出していた。まるで玄関に来客の対応をしに少しだけ席を外しているかのような……今にも部屋の主がこの場に舞い戻ってきそうな、日常の一片を感じられる。
緋色の椅子の上に三角に膝を折って座り、両手の指の腹を合わせるシャーロック・ホームズ・ハンズのポーズを取ったコナン君は、恵まれた容貌も相まって、小説の挿絵のように絵になっていた。空気に酔いしれているのであろう彼を微笑ましく思いつつ、私は沖矢さんと一緒に古びた英書の詰め込まれた本棚や、壁を飾る絵を眺めた。

「コナン君といると不思議な気持ちになります。あんなに落ち着いていて頭がいいのに、今日は普通の子供みたい。あんまり頼りになるから忘れていましたけど、私、あの子のこと産めるくらい歳上なんですよね……」

まぁ、7年前の私は新卒で、出産を経験するには随分若かったわけだが。――ちょうど結婚と同時に子供産んでたらちょうどコナン君くらいになってるんだよね……。
染み染みとそんなことを言うと、沖矢さんが答えてくれる。

「私の知人のご夫婦は30代後半で高校生の息子さんがいらっしゃいますよ。間借りしている家の家主の夫妻なんですが」
「えっ、若い! それじゃあ工藤新一君、ご両親が20歳くらいの時のお子さんってことですよね」

私の結婚も23歳になる年であったため世間的には似たようなものだが、若者の3歳差は大きなものだし、23歳の新社会人と20歳の大学生では社会的な役割も全く別に分類される。特に入籍と出産では覚悟や人生に及ぼす影響というものが桁外れに違うだろう。

「みょうじさんもご結婚されているようですが、お子さんはいらっしゃるんですか?」
「あぁ、いえ、うちはいません。夫が忙しい人なので、育児ができない以上無責任になるから今は作りたくないと」

なんとなく、私は腕を組んだ。
零君にプロポーズされた当時はまだ性的な事柄への苦手意識が根強く残っていた頃で、結婚後も約2年間は学生も驚くプラトニックな関係だったこともある。私が私で、零君が自制心の強く私を尊重してくれるできた人間であったから、選択肢にも登らなかった。
そういうことができるようになって、一度子供の有無について話をしてみたところ、彼に言われたのが先の沖矢さんへの言葉だった。零君の仕事が落ち着く日が果たして訪れるのか……彼が一般人のような平穏な働き方ができる目処が立たないので、なんとなく私達は子供を持たずにこのまま二人だけで連れ添っていくのではないか、と漠然と思ってる。

「真面目な方ですね」と沖矢さん。
「ふふ、そうですね、真面目なんです」

私は零君のそこが好きだ。

「僕も今は研究ばかりであまり考えたことはありませんが……先ほど話したその知人、私くらいの歳の頃にコナン君くらいのお子さんがいたのだと思うと、多少思うところはあります」
「あれ、じゃあ沖矢さんって私とあまりお歳が変わらないんですね」
「僕は27ですよ。みょうじさんは?」
「私は29歳です。歳下だったんですね。お若いとは思っていましたけど、落ち着いていらっしゃるので意外でした」
「ははは、僕もそそっかしいところはありますよ。料理なんてしょっちゅう生煮えで、小学生の女の子からも駄目だしをされる始末です……」

唯でさえ細い沖矢さんの目が、笑みを孕んで曲げられる。
沖矢さんは、安室透を彷彿とさせる知的で朗らかな好青年だけれど、楽しげに笑っていてもそのどこかに獲物を狙う蛇のような鋭さと、得体のしれなさがある。でもそれは、私が安室さんを信じてしまえるのは、彼の素性を全て知っているからに過ぎないからなのやもしれない。ひょっとして、コナン君から見る安室透も、こんな感じなのだろうか。



帰りの車の中は行きよりも静かだった。
私はコナン君に降谷零の家を知られることを避けるために、家の近くのコンビニまで送って貰うようにお願いする。

「今日はコナン君も普通の子供なんだってわかって安心しちゃった」
「ボクはただの小学生だよ」

ぷらぷらとシートの上で足を揺らしながら、彼は笑う。

「でもいつもあんまり大人びてるから……。見た目が子供なだけで、本当は私や安室さんくらいの大人とかだったりするんじゃないかって疑いたくなっちゃうくらい」
「お、お姉さん映画や小説の見過ぎじゃない? 大体ボクが大人だったとしてどうして小学生の見た目なのさ」
「ありえない話じゃないと思うよ? 昔、引き取った孤児が実は成人だったっていう映画があったんだよね。確かホルモンの異常で容姿が子供の頃から変わらないとかで……現実にもある病気らしいよ。コナン君も実はそれなんじゃない?」
「……」
「って、ちょっと思ったこともあったんだけどね。私の夫も小学生の頃から頭良い人だったから――さすがにコナン君ほど落ち着いてなくて、釣りとか虫取りとかばっかりしてたけど――疑ったりしてないよ。むしろ昔のこと思い出して微笑ましかったくらい。きっと夫も君も、ひと世代に何人かだけ生まれるすっごく頭のいい子なんだよね」

曖昧に笑ったコナン君がどこかほっとしているように見えたのは私の気のせいだろうか。
程なくして、車が見知った住宅街のコンビニに停車する。

「沖矢さん、本日はありがとうございました。運転お任せしてしまって申し訳ありません」
「いえ、こちらこそ誘って頂いてありがとうございます。お気をつけて」

荷物をまとめ、座席に忘れ物がないかきょろきょろと確かめた後、ドアの取っ手に手をかけた。ぐ、と押し開くと夜風が頬を打つ。足を地面に下ろし、踵でコンクリートを踏んだ時。

「ねえ、なまえお姉さん、」

私を引き止めたのはコナン君だった。振り返る私は、なに、と返事を唇に載せようとしていたのだけれど、耳元で囁かれた少年のたった一言に、音を奪われる――。


「――ゼロのにいちゃんによろしくね?」


2023/07/29
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