比翼のアルビノ

42.ひたむきな天使たち

42.ひたむきな天使たち|元教師殺人事件〈8〉
あれから数日が経ち、元教師殺人事件も終幕へと舵を切っていた。
僕は種井陸が彼女の居場所を割り出すために雇っていたという探偵の身元を調べ上げた。安室としてその人物の元へ出向き、手土産の札束の餌と先方の悪どい商法の脅しで口を割らせる。すれば、彼女がストーカー被害に遭っていた時期と、探偵が依頼を受理して彼女を追跡していた時期が、一対の貝殻のようにぴたりと一致するではないか。僕の睨んでいた通り、数ヶ月前に彼女に付き纏っていた人物はその探偵だったのだ。
彼女に言い寄っていた職場の同僚が幾ら職を離れても、病院に収容されても収まらなかったストーカー行為が、ある日を境に煙が晴れるように収まったのは、探偵による捜査一段落つき、尾行が打ち切られたから。そんな、単純な理由だった。



また、一度、毛利探偵事務所にも密やかに忍び込んでいた。ミステリートレインの乗車を決めた夜と同じ手口で事務所の鍵を開け、毛利小五郎のPCや過去の依頼人の情報が記載されたカルテを隈なく洗い上げる。すると電子化される前のカルテの一枚に、彼女の名前を見つけた。
経緯:『槍田郁美からの紹介』
依頼内容:『元警察官の幼馴染、諸伏景光の捜索』

――やはりな。

書面の文章の続きに目を通していく。『7年前に警察学校を卒業後、間もなくして警察を辞めたと聞かされた。子供の頃からの夢で、正義感の強い人であったため、信じられなかった。その後数年間ほとんど音信不通の状態に陥り、3年前に共通の幼馴染から彼の死亡を聞かされる。しかし、警察の辞職自体を怪しんでいたため、訃報の信憑性を疑った。同じく警察官である他県に済む兄にコンタクトを取り、その友人の戸籍情報を教えてもらうと、驚くことに死亡届は出されておらず、生存を確信し、依頼に至る……』。
僕の知らない彼女の足跡が其処にはくっきりと刻みつけられており、その必死さに息を呑んだ。

――よく一人でここまで調べたものだ。

無音でシャッターを切り、控えとして紙の上の情報を端末に入れる。
丁寧に侵入の痕跡を消してから事務所を後にした。



「まずは弁明を聞こうか。僕になにか言うことはある?」

僕と彼女を隔てる食卓が、今夜はなんだか重々しい壁のような様相を呈していた。
彼女と話すための時間を設けた夜。夕餉の皿が全て下げられ、綺麗に片付いたテーブルの上には湯気をあげる紅茶が2つ乗っているだけ。手つかずのティーカップの水面に、俯いた彼女の顔が反射した。

「えっと、本当に、勝手なことしてごめんなさい……。零君には言えないことがたくさんあるってわかってたから、多分聞いても教えてもらえないだろうと思って、自分でなんとかするしかないって、思、って……」
「それで? 自分で何とかできたのか」
「……」

なまえは無言で首を振る。

「ヒロのこと、調べていたんだって? まさかと思って毛利探偵事務所の過去の依頼を見せて貰ったよ……。驚いたな、まさか君が景光の死を疑っていたなんてね……」

僕は手持ち無沙汰にカップを取り、紅茶を舌の上に乗せた。潤ませた喉で、自分でも舌で象ることに未だに抵抗を覚えてしまう残忍な真実を編み上げる。

「――あいつは死んだよ」
「信じない! だって景光君が警察辞めたの、嘘だよね」

威嚇にもならない、迫力を伴わない声量だったが、それでも彼女が声を荒げることの珍しさに僕は気圧されかけていた。

「本人から聞いただろう。別な仕事に就いたって」
「嘘だよ。私、電話で聞いた後に景光君に会って話したの。零君は景光君が女の子振ってるところなんて見たことないでしょ? あの時の彼、そういう時と同じ顔してた。相手を傷つけないように言葉を選んでる時の顔だよ。それだけじゃない、退職理由は具体性に欠けていたし、辞めると決めるまでの話の流れは綺麗だったけど、なんだか台本書いてたみたいに澱みなく話すし、その割にその時どう思ったか、みたいな心理的な背景は言わない。気になって追求したら、やっぱり理由だけはつらつら出てくるのに、そのときの感情の起伏の話になると曖昧なんだよね。そのときちょうど秘密警察もののドラマをやってたからぴんときたよ。警察の中でも機密性の高い仕事に就いたのかなって。警察の中には実際に身分を偽って生活してる人もいるんでしょ? ヒロ君はそれになったんだって思った。
亡くなったって聞かされた時も、信じたよ。最初はね。でもおかしいよね、遺品も遺骨も葬儀もないなんて。零君だって景光君と同じように周りには警察を辞めたって嘘をつくことがあった。なら景光君の死だって仕事のための嘘である可能性が高いって思うのが普通でしょ。景光君のお兄さんに頼んで戸籍情報を教えてもらったら、死亡届は出されていなくて、戸籍上では生きてた。これってどういうことなの? ヒロ君は生きてるんじゃないの?」
「……いや、その推理には穴がある。職務上の都合で景光を死んだことにするとして、なぜ死亡届を出さない? 警察なら新しい戸籍を作ることなんて容易なわけで、景光の戸籍を敢えて残しておく理由もない。むしろこうやって君みたいな人間に生存を疑われるリスクすらあるだろう」

景光の死亡届が提出されていないのは、ひとえに彼の死が公にされておらず、遺族にすら伝わっていなかったためだ。それも伊達に託した弾痕のあるスマートフォンが彼の兄、長野県警の諸伏高明警部の手に渡っていれば、とうに白日のもとに晒されている。彼女が縋った不審な点も、消えてなくなる。

「……あいつの退職に関するプロファイリングは見事だったよ。でもヒロの生存に関する推測は、全て希望的観測……君の願望の表れだ。冷静かつ俯瞰的、客観的な推理とは言えない」

一般人である彼女が手に入る範疇の情報から組み立てた推理。推理の素人としては上々だ。
“ありえないことをぜんぶ排除してしまえば、あとに残ったものが、どんなにありそうもないことであっても、真実にほかならない”――少年が敬愛するかの名探偵の言葉を反芻する。
景光の鼓動が止んだ瞬間という絶対的な真実に辿り着きようもない彼女は、知りうる限りの不可能の瓦礫を押しのけた先で、信じたいものを信じようとしているだけなのだ。

「冷静じゃないのはわかってる! でも希望を持って何が悪いの!? 生きてて欲しいの! 私の推理に証拠がないのはその通りだよ、でもそれって零君にそっくりそのまま帰ってくることだよね? ヒロ君の死を裏付けるものがあるの!?」
「……っ、」
「ねえ……ほら……零君だって答えられない、でしょ……」

違う、答えられないのは。
君があまりにも、僕に似ているからだ。

「景光君は、生きてるよ……」

きつく握った拳の上に、悲痛な願望を絞り出す彼女は、まるで鏡を見ているようだった。
――あの男を殺せるのは自分だけ。
――赤井秀一は死んでいない。
親友を見殺しにしたFBI捜査官にそう息巻いていた自分が、どうしようもなく眼の前の彼女に重なってしまう。
嗚呼、自分もこうだったのだろうか。仇の男の顔と姿を借りて、亡霊のように関係者の周囲を練り歩いて。小学生の少年の身辺調査までして。緋色の残像を捜し、彷徨い歩いた。
似た者夫婦とは言うけれど、どうしてこんなところで。
僕は席を立った。そして自分の部屋のクローゼットの引き出しの奥から、大切に隠し持っていた或るものを取り出すと、それを手になまえの元へ戻る。

「これ、何……?」

ことん、と机の上に乗せたのは無地の箱。それと僕とを交互に見比べる彼女に、言う。

「開けてみて」

中身を確かめた瞬間、なまえは目尻から涙の筋を引いた。

「――ぁ」

それは、あいつの置き土産。組織の連中の眼を盗み、自決したスコッチから回収できた物は2つ。風穴の空いた携帯端末と、その時やつが身に着けていた腕時計。前者は諸伏警部の元へ届けるために伊達に預けてしまったため、僕の手元に残った友人の遺品は実質的にこの時計だけだった。
スコッチは両手で拳銃を抱え込み、端末の挿された胸に押し当て、引き金を引いたため、時計にも赤黒い血潮が鮮やかさを失ってべっとりとこびりついていた。彼の血液が酸化してもう3年になる。いつまでも清められないのは、それが何もかも隠し抜いて逝ってしまった彼が残した唯一の命の断片だからで、景光の遺伝子が刻まれたその血痕を排水溝にくれてやることが僕にはついぞできなかったからだ。

「唯一手元に残った遺品だ。ヒロのスマホはお兄さんに送ってしまったから……」
「あ……あぁ……なんで……。ヒロ君、そんな……やだ……」

ヒロは、朝も夜もその時計を肌身離さず着けていた。時間に厳格な警察学校時代の癖だと本人は言っていたが、狙撃手として命のやり取りに追われる日々の中で、幸福な過去の象徴であるそれで腐り落ちそうになる自我を支えていたのだと思う。――なぜならその腕時計は、警察学校の入学祝いになまえから贈られたものだからだ。
だからこそ、頑なに景光の生存を信じる、否、願う彼女に、その死を納得させるに足り得た。

「こんな形で返されたくないだろうと思って隠してた。すまない……もっと早くに見せるべきだった……」

まさか彼女が僕の言葉を疑い、あんな行動に出るなどとは夢にも思わず……。――本当にそうだろうか? 僕が、彼女から目を逸らしていたのではないのか。景光の少しずつ冷えていく温度の記憶を呼び覚まされたくない余り、彼女とあいつの話をすることを避けてきたのでは、ないのか。

「……本当は僕がなかったことにしたかったんだ。あいつの死を。君の推理通りなら、どれだけよかっただろうね」

なまえが景光の死を信じないことで心を守ったように、僕もまた、記憶の糸が引かれるきっかけを自ら断っていくことで、喪失感の渦潮に巻き上げられないように踏ん張っていたのやもしれない。
死者は、人の思い出の中に住んでいる。生者の会話の中に役を貰うことで、人生の続きを演じることが出来る。だというのにあいつの名前もあいつとの思い出も禁句にして、逃げたつけを今支払わされているのやもしれない。

「ヒロは、僕や君を守ったんだ」

こちらに差し向けられる彼女の瞳は土砂降りの雨のように濡れていた。
本当だよ、と僕は続ける。

「言ったよな……。安室としてお前と居合わせてもあくまでも初対面の他人を演じる、と。その理由は?」
「私に危険が及ぶから」
「そう――ヒロの仕事も、危険なものだった。あいつは死んだけど、あいつのことを嗅ぎ回っている人間がいると知られればまた話が蒸し返されて再度周辺を洗われることにもなりかねない。ヒロは己の素性に繋がるものは全て破棄していたが……何の訓練も受けていない一般人の君では、万が一何かあった時に奴らを欺けない。ヒロは、死に瀕してなお君や僕を守ったんだよ。僕らはあいつの死に守られているんだ、今も。無駄にしてやるな」

スマートフォンごと心臓を撃ち抜いた理由にそれは表れている。自分の命と他者の身の安全を天秤にかけ、躊躇わずに後者を選び取った。宿敵と共に滝壺に身を投げた名探偵のように、公益のために私を捨てた。僕や彼女や家族、警察を守るための歯車になってしまった。

「ごめんなさい、もう詮索しない。しないから……っ、ごめんなさい……」

慰めの言葉の即興劇ひとつできないまま、僕は彼女の嗚咽を聞いていた。
一歩間違えれば彼女の積極性は愚行と成り果て、景光の決死の覚悟を棒に振り兼ねないものだった。僕は彼女を叱らなければならない。平素のような甘い言葉は一切かけずに、涙の流れ着く先を観察する。

「零君の友達みんな死んじゃって……っ、一番生きてる可能性が高いのがヒロ君だったからっ、もし生きてるってわかったら、零君喜んでくれると思ったの……っ」

俺の為に――。

「そう、だったのか」
「わか、てるっ、もうしない……。ちゃんと信じる、全部……しんじる、れいくんのこと……」

親類の証言でも疑うのが警察であり探偵である。本来推理とは無縁の生活を送る彼女の、その人生ごと差し出してくれるかのような手放しの信頼は僕には慣れないもので、くすぐったい。手に余るほどの純情な信頼を、宝物に触れるように受け取った。


2023/07/27
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