比翼のアルビノ

40.底なし夜の遠泳

送りの順序が昨日と逆になったのは、コナンの「お姉さんのことを先に送ってあげてよ。色々なことがあってすっごく疲れてると思うし、ボク、安室さんに事件のことで聞きたいことがあるからさ」という発言があったためだった。
種井陸に拉致されたなまえを救出し、最低限の事情聴取にだけ協力したあと、安室は昨日と同様、愛車にコナンとなまえの二人を乗せた。ファストファッションブランドの店舗で間に合わせた靴を履いた彼女を、降谷とともに暮らしている家に一人で帰してしまうと、車内にはいよいよ腹に一物抱えている大人と子どもだけになる。

「安室さんさ、やっぱりお姉さんの居場所知ってたんでしょ」

沈黙を鮮やかに塗り替えたのは、助手席の子供の声だった。
安室は微笑みを零し、隠し立てせずに答える。

「嗚呼、昨日の彼女の言動には気になるところがあったからね……。携帯にGPSアプリを仕込んでおいたんだよ。それで追跡できていたから、居場所は最初から知っていた。最も、何らかの外的要因によってGPSの働きが鈍ることもありえない話じゃあない……。いずれにせよ彼女からの信号は裏付けとして必要だし、解読するつもりだったよ。君が助手席で解いてくれたお陰で時間のロスにもならなかったしね……」
「教えてくれたっていーんじゃない?」
「勘弁してくれ、僕も焦っていたのさ。裏を取るのは当たり前のことだしね」
「それは……探偵として?」

片方の眉を得意げに上げたコナンの、鋭くもどこか弄ぶような追撃に、安室は曖昧に笑って返した。そうだよ、と。
嘘ばかりだ。裏付けられた真実を重んじるのは彼のような難事件を打破する名探偵であり、安室透のような浮気調査や身辺調査、ボディーガードなどを引き受け、人の家の壁に耳を、障子に目をつける姑息なプライベート・アイではない。『detective』と『private eye』の相違。
論拠を重視するのは、プライベート・アイとしての安室透ではない――捜査官ディテクティブとしての降谷零だった。
余談だが、なまえのスマートフォンにGPSを仕込んだのも昨日ではない。彼女の毎日の動向を監視するようになったのは1年近く前のことだ。
毛利探偵事務所までの道をスポーツカーは優雅に走り抜けていく。神隠しに遭ったように姿を消した彼女を追って風を切った日中とは打って変わり、嘘つき同士が探り合う会話のための時間を稼ぐかのように。

「コナン君……僕からも質問、いいかな」
「なに?」
「君のことだから、僕がこの前工事現場で監視していた男のこと、調べたんじゃないのかい?」
「……調べたよ。彼は15年前に教師だった男で、教え子の少女に繰り返し性的暴行をおこなっていた元受刑者。元教師の身辺調査の件は、さっき種井陸もなまえさんが安室さんに頼んだんじゃないかって言ってたけど、ボクは安室さんの『私用』って言葉を信じてることにした。一応、だけどね。だから彼女からの依頼である可能性を除外した場合に浮上するのは、安室さんの“本業”に必要だからってことになるけど……。あの被害者、公安がわざわざマークするには、言っちゃ悪いけど――」
「なんの変哲もない普通の性犯罪者、だろうね。……それで、元教員の男による強姦事件のあらましについては? どれくらい知っている?」
「……加害者の元教員は面談を装って被害者の少女を呼び出し、校舎内で性的暴行を加えた。少女はそのショックから不登校状態となってしまったけど、教員は家庭訪問というていで繰り返し少女の自宅を訪れ、一度目の暴行の際の様子を記録した動画や写真で脅し、数週間に渡って少女に暴行を繰り返し続けた。教員の供述によれば乱暴を働く以前から少女の私物の盗難や、少女の飲み物や給食への異物混入を繰り返しており、それがエスカレートしての結果だった……。――むごい事件だね。ねえ、安室さん……本当にこの事件の被害者の少女がなまえさん、なの?」

得た紙片を繋げていけばどう考えてもその結論に至るまでの地図を示す。難しい謎掛けでもあるまいに、どうにも受け入れがたいのは、あまりにそれが痛ましいからだろう。知人の女性が過去にこんな仕打ちを受けているとは、聡明ではあっても所詮は純情な男子高校生にすぎない彼が飲み込むには、どろついていて、重たい。
安室は否定も肯定もしなかった。ただ、昔話を唇に乗せる。

「――僕が中学二年生のときだったよ。僕は担任との面談から彼女が戻るのを教室で待っていた」

彼女って、まさか……。よもや安室が自ら自身の出身校や、彼女との本当の関係性を詳らかにするとは考えもしなかったため、驚く。秘密主義なのはお互い様だが、それに故にコナンが自らの足で駆け回って彼の纏っているベールを剥ぎ取るしかないと思っていた。

「戻ってきた彼女は髪が乱れて、顔も腫れ、膝には転ばされたような傷があった。足が濡れていた意味が当時はよくわからなくて、誰にも言うなと他でもない彼女に口止めされて、僕はそれに従ってしまった。全てが表沙汰になる頃にはあの子はもう何度も何度も乱暴された後だった」

閉塞感がコナンの喉を締める。酷い話だ。本来の年齢の自分と大差ない年頃の少女が、欲もまともに制御できない大人の餌食にされる。恋に夢を見るような年頃に、異性への恐怖を植え付けられる……。あってはならないことだ。

「異物混入、ってさ。何を飲食物に混ぜられたかわかるかい?」

かぶりをふったコナンは黙ったまま安室の答えを待つ。そこまではニュースのログにも残っていなかった。

「――体液だよ」

冷たい響きが車両を震わせる。

「カレーってどろついているし、スパイスで味も濃いから何かを混入されても気付きにくいよね。一般人の中学生の少女ならなおさらだ。疑うはずもない。あの男は彼女の給食のカレーにだけ自分の精液を混ぜたんだ。彼女が紅茶や緑茶なんかの色のついた飲み物を持ち込んでいる日はそれに尿を入れていた。僕も彼女も気付けなくて、彼女が味がおかしいと言った時には悪くなったのだと思って捨てさせていたけど……味の変化に気づくにはひとくち口にしなければならないよね。
あの子はね、たかたが数日間の間に受けた性暴力をこの15年間引きずり続けている。あれでもましになったとはいえ、それは一番悪い時期との比較の話で、今でも不意に男に触れられると身体が動かなくなったり、酷ければフラッシュバック、昨日みたいな過呼吸を起こす。性犯罪は心の殺人とはよく言ったものだ」

もしも蘭がそんな獣か人間かもわからない大人に踏み躙られるようなことがあったとき、自分はどんな顔するのだろう。車を走らせるこの人は、甘いマスクの裏でどんな眼をしているのだろう。安室の顔を見上げる勇気はなく、ハンドルにかけられている褐色の手に視線を縫いとどめた。
不意に、安室がハンドルを握りなおす。とびきりきつく。憤怒を握り潰すように。

「僕はあの子の人生を歪めたこの男が憎いよ。それこそこの手で殺してしまいたかったくらいさ。ねぇ、コナン君、君は殺したいほど憎い相手っているかい?」
「……ボクはどんな理由があれ、人を殺す側の気持ちなんてわからない。理解したくもないよ」
「殺したいほど憎い事と、実際に手にかけるかどうかは別の話さ。僕の昔の親友はね、両親を殺した仇を助けるために火の海に飛び込むような男だった。いつか殺意で目の前が真っ赤になっても、きっとあいつが僕を引き戻すだろう……。だから、殺さない」

コナンはこっくりと頷いた。
両者ともに高潔な人間だ。ただ安室の方が、大切な人間を喪った数も、世の闇に触れた数も多く、それ故に過程を蔑ろにする点だけが、二人を決定的に二分化していたが、根本の正義は同じである。

「でも、やりきれないよ。まさか死んでしまうだなんて」

あの教師はもういない。安室やなまえの生活の外から飛来した、箒星のような殺意によって、その命の芽を摘まれた。
もしも彼が死ぬことがなかったら、安室はずっと彼を私的に監視し続けたのだろうか。……人よりバイタリティにも精神力にも秀でた彼ならやり兼ねない。

「ごめんね。八つ当たりした。こんなこと子供に話すべきじゃない。そう、だから最初にコナン君に尾行の理由を聞かれたときもはぐらかしたのにね……。言い訳にもならないけど、殴り足りない相手が殺されて、滅入ってた」

ごめんね、と安室はまた謝った。
探偵事務所のあるビルまで、信号も残すところあと一つとなっていた。赤い光に捕まった車の前を、点滅する歩行者信号に煽られる人々や自転車がぱたぱたと過ぎていく。
数百メートル直進すれば、安室との時間も終わりを迎える。

「あのさー……」

信号機が蒼く染まったとき。不意に胸に浮かんだ疑問を、コナンは隣の食えない男にぶつけてみることにした。

「やっぱり二人は他人じゃない、よね? ただの同級生でもないんでしょ? もしかしてなまえさんは安室さんの、」

――恋人なの?
しかし安室はコナンに最後まで言葉を紡がせてはくれない。彼は遮るように言うのだった。

「彼女は、僕にとってこの世で一番死んでほしくない相手だよ」

それはコナンが胸に描いた推測と、それほど大差ない。その推理の唯一の穴を指摘するならば、彼女とは警察学校卒業とほぼ同時に籍を入れているため、恋人ではなく配偶者という点だが、少年探偵がそこに思い至るのはまだ先のことだろう。


2023/07/26
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