比翼のアルビノ

39.野に晒された雨と傷

昼のラッシュを過ぎると、安室は店名のロゴの入ったエプロンを脱ぎ捨て、「お疲れ様です」という言葉とともに喫茶ポアロを後にする。近所の駐車場に停めている車に向かう前に上階の毛利家のインターフォンに触れ、同時刻に警視庁に呼ばれているコナンを迎えに行った。

「おまたせ、安室さん!」
「昨日ぶりだね」

準備万端といった姿で扉を開けてくれたコナンは丁重に施錠をし、行こうか、と階段を駆け下りていく。

「なまえお姉さん、あのあと大丈夫だった?」

共に歩く駐車場までの道のりで、コナンがそう問いかけてきた。

「家まで送り届けたれけど、随分疲れていらっしゃる様子だったよ」

降谷なまえは降谷零の配偶者だが、安室透にとっては昨日初めて関わりを持った赤の他人だ、故にはぐらかす。
駐車場から純白のRX-7に乗り込むと、安室の運転で千代田区霞が関の警視庁まで走る。
事情聴取にそれほど時間はかからなかった。コナンの聞き取りを担当した高木刑事は旧知の仲であったために緊張はなく、子供らしからぬ淀みない受け答えのコナンは、状況の説明もうまい。事件発生当時の記憶も鮮やかに頭に残していたため、曖昧な物言いをすることさえほとんどなく、事件に対する新たな視点まで齎してくれる。“日本警察の救世主”と評されたかつての高校生探偵の影を彷彿とさせる聡明な語り口で一通りのことを話し、帰宅を許された。
情報を書き記した紙を机の上でトントンと纏める高木刑事は、「ありがとう、助かったよ」と和やかに笑い、個室の扉を開けてくれた。
通路にて、ほとんど同じタイミングで聴取から開放されたらしい安室と落合い、庁内を後にしようとしていたときだった。そういえば、と高木がコナンに声をかける。

「コナン君、みょうじなまえさんと知り合いだったよね? 実は彼女、今日の午前中に聴取の予定だったんだけど、まだ来ていらっしゃらなくて……。電話も繋がらないし、何か知らないかい?」
「えっ、なまえさん来てないの?」
「その様子だと君も知らないか……。過去の事件のことで確認したいこともあったんだけどね……」
「過去の事件って?」
「あぁ、いや、なんでも。とにかく、連絡が着いたら、僕にも教えてくれるかい」
「うん、わかった」

昨日の彼女が“明日警察に話す”、“聞いても聞かなくても一緒”だと話していたことと同じ件なのだろうか。
ともあれ、みょうじなまえの背景に後ろ暗いものがあることはこれで決定的なものとなった。

「なまえさん、どうしたんだろうね。小五郎のおじさんに依頼くれたときも遅れる時は数分でも連絡くれてたし、警察の聴取をばっくれる人じゃないと思うんだけど」
「そうだね……少し、気になるな」

再び乗車したRX-7の車内。エンジンを掛ける前に、安室はスマートフォンを起動させる。彼女の端末に仕込んでいるGPSの追跡のためのアプリを開くと、一目で今日の彼女の足取りを掴むことができた。
彼女は午前中、徒歩と電車を乗り継いで霞ヶ関までは辿り着いているようなのだが、警視庁への道の途中で、進路を大幅に変更していることがわかる。着た道に忠実とまではいかないが、ほとんど引き返すような足跡が残っており……現在地は――杯戸町北部?
瞬間、愛車の低い天井を安室の端末のバイブレーションが揺さぶった。

「……! みょうじさんからだ」
「ほんと? よかった、無事だったんだね! っていうかいつの間に連絡先……」
「昨日君を送った後にね。……――はい、安室です。……?」

小麦色の指先で応答のアイコンに触れると、端末を耳に押し当てる。
コナンは助手席から電話に対応する安室を仰いでいたが、すぐにその異変を肌で感じ取り、ダイカットのフレームの奥で空色の双眸をまばたかせた。静かな車内で、ここまでの至近距離で電話に応じていれば、話の内容を聞き取るに足る音量ではなかったとしても、スピーカーから相手の性別を判別できる程度の話し声は漏れ聞こえるはずだ。しかし、かつん、かつん、という細かなノイズ以外、コナンの耳には届かない。安室も、「どうかされましたか」「聞こえますか」などとなまえの様子を伺う素振りすら見せず、電話を取ってからというもの無言ときた。妙である。
コナンが訝しむ視線でその横顔に穴が空くほど安室を見つめ続けていると、彼はやがて深刻そうな面持ちで端末を耳から離し、画面をスワイプする。そして、スピーカーモードとミュートモードに設定を切り替えた通話画面を突き出してきた。

「……?」

君も聞いてくれ、という意味だと解釈し、助手席から身を乗り出すと、耳を澄ませる……。しかし響くのは微かな異音だけで、受話器の反対側にいるのかもわからない彼女が口を割る気配はない。スピーカーからは、爪で画面を引っ掻くような音と、叩く音、その不規則なノイズの繰り返しだけが垂れ流されている。
――いや、この音、規則性がある……!

「安室さんこれって」
「嗚呼……モールス信号だ」
「うん……。それにこれは……SOS……! ねぇ、これ、まずいんじゃない!?」
「嗚呼、とにかく一旦車を出そう」

迷いなく駐車場から躍り出たあたり、安室もコナン同様、全ての信号を解読したらしい。彼女が放った信号は、SOSを含め、以下の9つだ。
「・・・ーーー・・・(SOS)」
「ー・・・(ハ)」「・ー(イ)」「・・ー・・(ト)」「・・(濁音)」
「ーーー・(ソ)」「・・ー(ウ)」「ーーーー(コ)」
「ー・・(D)」

敢えて爪で画面を叩いたり、引っ掻いたりする音で助けを求めてくるということは、いまのなまえは口で物を伝えられない状況にある可能性が極めて高い。まだ彼女の置かれている状況は霞の向こうだが、仮に誘拐なのだとすれば口をテープや猿轡などで塞がれているか、犯人が至近距離に潜伏しているかのどちらかだろう。

「助けて、杯戸、倉庫、D……。ざっと見ただけでも杯戸町に倉庫は3つ……宅配業者のトランクルームサービスなんて入れたらそれこそ幾らでもあるよね……」

窓の外を景色が流星のように流れていく。ハンドルを手放せない安室に代わり、コナンは信号から読み取れる情報をマップ上に照らし合わせて細やかな場所の特定に励むが、3つの選択肢を前に頭を捻った。
唯一具体性のないアルファベットのDが、彼女の現在地のヒントであることは間違いない。Dを単一のアルファベットではなく、長文の信号の略称として捉える場合、意味は、“Keep clear of me ; I am maneuvering with difficulty.”――『私を避けよ。私は操縦が困難である』なのだが。
――どういうことだ、助けを求めている人間が「私を避けよ」と言ってくる意味ってなんだ……!?

「安室さん、めぼしい倉庫は杯戸町の北部、東部、南西の3件! なまえさんはこのどれかで身動きが取れなくなっている可能性が高いけど、ヒントになりそうなのは最後のDの意味もまだ解けていないし、特定するには情報が……」
「いや――」

安室が横目にコナンの手中の画面を盗み見た。

「特定なら既に済んでいる。彼女は北の倉庫だ」
「北……? そうか……! 『D』は『避けよ』の意味じゃなくて、通話表記上の『Delta』! デルタのギリシャ文字表記は『Δ』……つまり三角形! 杯戸町に貸倉庫を出している3つの企業のうち、会社のロゴマークが三角形をモチーフにしているのは北の倉庫だけ……!」
「そういうことだ、急ぐぞ!」

言うが早いか安室が勢いよくハンドルを切る。車両の掃けた道で車がスピードを上げた。
――待てよ? 安室さん、今、オレのスマホの画面のマップを見る前にそれを突き止めていなかったか……?
ぱちぱちと瞬きを繰り返す瞳で運転席の安室の険しい表情を横目に伺う。
――んなことよりも今は居場所を早く警察に……! いや高木刑事に直接電話した方が早いか!?
勢いよく画面をスクロールさせたコナンは、連絡先の一覧から高木渉の名前を選び出す。頼れる刑事に発信しようとしたそのとき、誰の声も紡がれなかったはずのなまえに繋がる安室のスマートフォンから男の声が響き渡った。

「15年前の教員による女子生徒の暴行事件……。この被害者っつうのが、みょうじなまえ……お前なんだろ? 報道では被害者の実名も顔写真も伏せられちゃいたが、ネットの掲示板のログにはまだ情報が転がってたぜ。探偵の多いこの近辺でお前を探し当てるのは楽なもんだった……」

安室とコナンは瞳を凍りつかせた。
みょうじなまえは、昨日の毒殺事件の容疑者と共にいる――。声色から判断するに、被害者の友人であると同時に間に金銭トラブルを抱えており、事件現場となった喫茶店の厨房を任されていた男、種井陸だろう。
あの毒殺事件の被害者は、かつて加害者だった。そしてかつてあの男に虐げられた少女Aが、彼女。足りないパズルのピースを見つけたように、手札が出揃ったように、コナンがなまえに抱いた違和が納得へと変わっていく。だから彼女は、救命を施した男の素性に気づき、過呼吸を起こした。事情聴取の際も過去の件がフラッシュバックするなどしていたために上手く話すことができなかった。元教師に就いて、また何かしたのか、と安室に問うたのは、高木刑事から被害者の身元を説明されたからでもなんでもない、自分があの男に脅かされた身だったから……。

「自分を犯した男への復讐……殺人の動機としては充分だよなぁ?」

聞き耳を立てている名捜査官が二人もいるとは知らず、容疑者・種井陸がにたつきの滲む声色で続けた。

「筋書きはこうだ。みょうじなまえは過去に自分をレイプした教員の出所後の居場所を突き止め、殺した。被害者との過去の関わりを知る俺に、そのことを警察に証言されることを恐れ、翌日に人気のない倉庫に呼び出して殺そうとするも、抵抗した俺によって返り討ちにあい……打ちどころが悪く死亡。正当防衛の成立だ」

二人の間に激震が走る。

「この人まさかなまえさんに濡れ衣を着せる気か!? 安室さんっ、録音――」
「大丈夫、もうしてある!」

話が早くて助かる。安室が事前にミュート設定に切り替えてくれているおかげで、こちらの声は向こうには拾われていない。
コナンは操作を中断していたスマートフォンの画面を呼び起こし、改めて高木に着信した。

「もしもし、高木刑事!? なまえさんの居場所がわかったよ! 容疑者の種井陸って男に拉致されてる! 場所は杯戸町北の貸倉庫! 住所をメールで送るから確認して!」

捲し立てるように用件だけを述べ、電話を終えたコナンは、そのまま住所をメールに添付する作業に入った。
種井陸による独白は続いていく。

「俺が殺しさえ上手くやれば警察も疑わないと思うぜ……。お前は数ヶ月前、毛利探偵事務所に人探しの依頼を出していたが、しばらくして取りやめているな? そしてそのあとに助手として働き始めたあの安室って男が、あの元教師の身辺調査を始めている……。おおかた師匠の依頼を弟子が格安で引き継いだってとこだろ?」

それは違う。なまえの人捜しの依頼と、安室による元教師の監視は全くの無関係だ。
しかし安室の独断が裏目に出た。よもや彼女を守るための行動が、正当防衛の偽装に一役買うことになるとは。
そのとき、電話口で種井の絶叫が轟いた。
「――ってめぇ、なんの真似だこれは!?」

◆◆◆

霞ヶ関駅から警視庁への道の途中、なまえは中年の男性に道を聞かれた。ここに行きたいのだが道順がわからないのだとスマートフォンの画面を掲げられたため、それを覗き込んだ瞬間、背後から抱きつかれてそのまま男の車へと連れ込まれてしまう。後部座席に叩きつけられ、馬乗りになってくる男によって両手と両足を結束バンドで纏め上げられ、口をテープで塞がれる。今朝見たばかりの悪夢を彷彿とさせる状況に、氷結した肉体は従順になっていた。
抵抗に瀕して片足だけ脱げていた靴は、路上に残された。
連れ込まれたのは杯戸町北部の貸倉庫の一角だ。
荷物は道中、男によって捨てられていたが、服の裏のポケットに挿し込んでいた携帯端末だけは幸いにも回収されずに残っていた。男の目を盗み、縛られた腕で後ろ手に端末を操作する。画面の背面をタップすれば通話アプリが起動し、すれば「あああ夫」という名前で登録されている降谷零の番号が五十音の一番上に表示される――中学時代の一件から、何度機種変更を重ねてもこの設定だけは貫き続けていた。記憶だけを頼りに、手探りで降谷にコールし、モールス信号で助けを求める。何度も、何度も、画面を爪で叩いて、引っ掻いて、自分の現状を伝える。
自身がなまえを攫った理由、犯罪計画などを雄弁に語る男を睨みつけながら、後ろ手にカメラアプリを起動し、録画を初めた。隠し持つ端末では男の顔を映すことは難しく、録音でも事足りそうではあったが、背面のタップで起動するように設定されているのがカメラと通話のみであったため、こちらを選んだ。

「おら、これを握れ。お前の指紋をつけるんだ」

薬品の空のカプセルと毒物の容器を手にした男が、なまえの背後に回り込み、その手をつかみ上げた時。

「――ってめぇ、なんの真似だこれは!?」
秘密裏にスマートフォンを操作していたことを知られてしまった。
強引に手から端末を奪われ、なまえは勢い余ってその場に倒れ込む。

「んぐっ!」
「糞、このアマ、録画してやがったのか……ッ!」

奪った端末を指で叩き、映像を削除した男はそのままそれを床に放り捨てた。がつん、という耳を劈く落下の音が鳴り渡り、液晶画面に亀裂が走る。頭に血が上っていたらしい男は、録画と通話の二段構えであったことになど思い至りもしないらしい。端末自体が釈迦になっていない限りは、バックグラウンドで降谷との通話は続けられているはずだ。

「結束バンドが切れていやがる……」

なまえは折を見て抜け出すために足を拘束する結束バンドを摩擦で切り落とし、それを悟られないように自由になったくるぶしを後ろに隠して座っていたのだが、床に転がった拍子に脚を開いてしまったことによって、それも露呈する。
夫としての降谷はとにかく過保護だ。たまのデート中の服装にとやかく言われることはなく、なんでもかわいい、似合う、と言って褒めてくれるが、彼が目を光らせることができない日の私服には、主に危機管理の観点から小五月蝿い。いざという時に逃げられないじゃないか、と言ってパンプスを履くことすら嫌がる。デートの折にはどれだけ踵の高い靴や見た目に振り切った動きにくい服を選んでも歓迎してくれるというのに偉い違いだ。降谷としては、僕が守るから目の届く範囲内でなら問題ない、というつもりなのだが。
お陰で出勤するにもなまえはスニーカーで、職場のロッカーにパンプスを置き、通勤退勤に瀕して履き替えている。スニーカーの種類ひとつとっても彼は口を挟んだ。結束バンドやロープの拘束程度であれば、引き抜いた紐の摩擦で切れるから、と言って靴紐つきのもの以外認めてくれない。一体夫はどんな局面を想定しているのかとその過保護っぷりに頭を抱えたこともあったが、これが存外侮れない。実際、なまえは銀行強盗と爆弾騒ぎに巻き込まれ、今日とて殺人犯に拉致され、手足を拘束されているのだから……。

「刃物でも持ってたのか……? 糞、面倒かけさせやがって」
「……っ!? んーっ!」

新しいバンドでなまえの足を縛り直した種井陸は、ボディチェックのつもりか、彼女の全身をまさぐってきた。その手にあの教師の影が重なって見え、ぞわりと悪寒が背筋をせりあがる。テープを貼り付けられた口からはくぐもった抗議の呻きがあがる。
鋏やナイフの類がないことはもう充分に確かめられているだろうに、種井は執拗に胸部や臀部への接触を繰り返してきた。その手から逃れるべく彼女は身を捩るのだが、床に擦れたスカートの裾が捲れ上がり、膝が晒される。

「残念だ、正当防衛に仕立て上げるんじゃなけりゃ殺す前に楽しめたのに」
「っ……」
「あの元教師が手を出す気持ちもわかるよ……」

種井は欲望に濡れた手つきで太腿を撫でた。
この男の言い草からすればこの場でなまえが戯れに強姦されることはない。正当防衛の立証のため、自分に罪がかけられないよう手順を踏んで殺す必要があるからだ。それでも過去の悪夢を思うと冷静ではいられなかった。
命と尊厳を天秤にかければ命のほうが重たいに決まっている。しかし一度踏み躙られたなまえには、踏まれたそれが息を吹き返すまでの途方もない時間を強要されるくらいならば、この場で命を絶たれて何もかも終幕してしまったほうが余程楽なのではないかと思えて仕方がない。

――零君。

通話はまだ彼に繋がっている。まだ命綱は切れていない。
なまえは呼吸を荒らげ始めた。鼻が破れるほどに大きく息を吸っては吐き、剥がれかけたテープの隙間からも口呼吸で酸素を得ようとする。

「喘息? いや、過呼吸か? 発作持ちかよ……だりぃな……」

昨日彼女が倒れた一部始終を目撃していたらしい種井は察しがよく、煩わしそうになまえの口からテープを剥ぎ取った。彼の理想のシナリオを再現するためには、なまえの死因は頭部や肉体への強い衝撃によるものでなくてはならない。窒息死をされては困るということだろう。

「さっさとやっちまうか」

種井は息を乱すなまえを引きずり、壁際まで連れて行くと、襟元を掴んで後頭部を壁に宛てがう――今からここをぶつけてやるぞ、と狙いを定める。

「い、まっ、殺したら……っ、正当防衛じゃないって、ばれ……ますよ……」

はぁはぁと異様な速度で酸素を食らっていた彼女の蒼い唇が、しどろもどろに言葉を紡いだ。命が惜しいがための彼女のはったりという可能性も大いにあったが、眉をつりあげた種井は一応彼女の言い分に耳を貸す。

「はぁっ……、過呼吸っ、に、なるとっ、はっ……、血中の、酸素濃度が高くっ、なるん、です……っ。そんなの、解剖して採血すればわか、る、から……。ふは……う……こんな、状態で、は、ぁ……ひと、ころせるわけ、ない、から……わかっ、る…………すぐ…………」

自己保身のために他人の命すら蹴り倒す男の鬼の様相が、躊躇に淀んだ。種井がなまえの言葉に耳を貸してくれるかどうかは一か八かの大博打だったが、お陰で彼に隙が生じる。
刹那、ドゴッという痛々しさのある鈍い音と共に、種井の後頭部に砲弾の如き球状の何かが衝突した。出処の分からないサッカーボールが床に弾み、転がった先でしゅうぅと萎む。
なまえは崩れ落ちた種井の肩越しに、サッカー選手がシュートを決めた瞬間を切り取ったような立ち姿で、赤色のスニーカーから火花を散らす江戸川コナンの姿を見た。

「なまえさん! 助けに来たよ!」

コナンの張り詰めたような声になまえは我に返る。全力で駆け回ったあとのように上下する自分の肩が意識に止まり、それを落ち着けようと胸を抑え込んだ。

「大丈夫だよ」

次の瞬間、ふわりと己を抱きしめているのは少年の腕だ。彼女の速まっている呼吸に目敏く気づいたコナンは、それを落ち着かせようとしてくれているのだった。少年の未発達な肩を抱き締め返すための腕は、躰の裏で括られている。腕の主の顔をちらりと横目に伺ってみれば、幼い齢には不相応な慈愛を湛えており、胸が大きく揺れ動いた――かと思えばなまえの頬には涙が零れている。その肩口に少しだけ顎を預けさせてもらいながら、与えられるぬくもりと、戸惑うくらいに胸にあふれる安堵を噛み締めた。
不意に響く足音に顔をあげると、なまえの横にしゃがみこんだ安室が、結束バンドに手をかけていた。

「あ……うろ、さん……?」
「嗚呼、そうだ、安室だ、助けに来たよ。無事で良かった……」

彼は、愁雲のように陰りを広げた面持ちであったが、なまえと視線がかちあうと同時に洗いたての青空のような双眸を柔らかく細めて、微笑む。
今の彼は安室だが、どこかに夫としての本来の降谷の香りを纏っていた。そしてその演技のほつれに自分でも気づいているのだろう、言い聞かせるように安室だと名乗る。

「また過呼吸を起こされていたみたいですが……うん、少しずつ落ち着いてきていますね」
「違……あれ、演技、です……本当に、ちょっと、苦しくなったけど……大丈夫です……」
「……無茶をされる」
「死にたくなくて……」
「ええ、生きていてよかったです、本当に」

安室は手際よく彼女の手足の拘束を解き、使われていた結束バンドを種井の拘束に再利用する。

「靴、片方履かれていないみたいですが、失くされました?」
「えっと、はい……。た、多分、車に乗せられた時に……」

ふむ、と軽く握った指を口元に当て、安室は考え込む素振りをする。端正な顔立ちも相まってそんな仕草をひとつとってもやはりこの人は様になる、などと見惚れていると、周囲を調べるように張っていた彼の碧眼がこちらに向けられてたじろいだ。

「僕の車まで運ばせて頂いてもよろしいですか? ここ、砂利やコンクリート片が散乱していて危ないので、その足だとちょっと危険です。勿論、抵抗がなければですが……」
無理強いはしません、と至って事務的に、にこやかに笑う安室。敢えて一線を引くのは、彼女が怯えるに足る異性性を自分が有していることを自覚しているからだった。
散々な二日間だった。自分の人生を狂わせた相手が眼前で死に絶え、その罪をなすりつけられようとした。昔の夢に一晩中泣き、戯れに躰も触られて。
それでも、なまえは安室に――他でもない彼に触れることを選択する。
「お、お願いします……」
おずおずと伸ばした手。
親愛する男の腕の中に囚われることを、心が望んでいる。
コナンの目があることが少し恥ずかしかったが、あとから安室がうまく誤魔化してくれることに託そうと思う。
安室の逞しい腕が彼女の背中と膝の裏に回り、異国の姫君でも扱うようにそっと抱き上げられれば、総身を浮遊感が包んだ。首にしがみつきながらその体温を感じると、魔法にかけられたようなはやさで鼓動が平静を取り戻していく。彼女一人運ぶことなど造作もないことだと物語るようなぶれない体幹に胸が締め付けられた。
コナンと、自分を抱える安室と共に倉庫から出ると、警察の車両の赤い光がくるくると煌めいているのが見えた。駆け寄ってくる高木の顔を見るなり、なまえは自分が安室に姫抱きにされている事実が恥ずかしくなり、ぽう、と火照る顔を彼の胸板に寄せて隠す。
終わったのだ。事情聴取が待ち受けていると思うと中々心は休まらないが、安室の温度に包まれながら、それを実感していた。


2023/07/26
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