比翼のアルビノ

38.思い出をひらくと鮮血みたいにぬるくまばゆい

「僕、車なんですよ。みょうじさんもコナン君も乗っていきませんか? ご自宅までお送りしますよ」
「……どうする? お姉さん」

コナンがなまえの判断を仰ぐ。なまえにはこのまま男女の区別なくごった返しているであろう電車に揺られる余力はない。コナンに安室との関係性を勘付かれるリスクは大きいが、むしろ一緒ならばこの賢すぎる子供を一人でやり過ごさずに済む上、助け舟を出して貰うことも期待できる。

「お願いしようかな。安室さん、いいですか?」
「えぇ、そのつもりです」

見慣れた顔に描かれる見慣れぬ笑みを新鮮に感じつつ、なまえとコナンは安室の愛車に乗り込んだ。狭い設計になっているRX-7の後部座席だが、子供と女性ひとりずつが乗車する分には充分だった。コナンを先に乗らせてから後を追い、自分でドアを締める。そんな彼女の肩には少年の探るような視線が突き刺さっていた。

「どうしたの? コナン君」
「大人の人で頭ぶつけないの、珍しいなぁと思って。ほら、安室さんの車って車高が低いでしょ? 小五郎のおじさんとか、前に乗せてもらった時に頭ぶつけたって言ってたから」
「あー……、私の夫も車に凝ってて。似たようなスポーツカーなんだ。だから頭下げる癖がついたのかも」
「へえー、なんていう車種なの?」
「え? 私は車のことはわからないよ。ライトが小さくてかわいいやつ、だったと思うけど」
「……」

彼女が夫の乗りこなすスポーツカーの車種を認識していないのは嘘である。かわいい、といういかにも女性らしい形容にコナンは苦笑いをした。
安室が運転席に腰を下し、エンジンを唸らせて車は発進する。
人々が蟻の大群のように行き交う都市部を抜け、神経を尖らせてハンドルを握り続ける必要性が薄れた頃、安室が徐ろに口火を切った。

「みょうじさんはコナン君のお知り合いの方なんですか?」
「えっと、はい。ちょっと色々ありまして」
「お姉さんが小五郎のおじさんに人捜しの依頼をしてくれたんだよね」

律儀に注釈をつけてくれるコナンは会話が円滑に進むようにという親切心なのだろうが、夫には内密に依頼を出していたなまえはやめてくれと冷や汗をかく。

「僕、毛利さんの助手をしていまして……探偵としての一番弟子なんですが、初めましてですよね。僕が毛利さんに師事する前のご依頼だったとコナン君から伺いました」
「お姉さんが事務所に来たの、銀行強盗の事件とか百貨店の爆弾騒ぎの頃だったもんね。お姉さんあれに巻き込まれてたし」
「コナン君、それってもしかしてていと銀行と米花百貨店の事件のことかい? 君、本当に事件現場に引っ張りだこだね。……あれ、随分な事件でしたよね。爆発や発砲なんかもあって」
「さすが安室の兄ちゃん! 詳しいね! まるで――あそこに居合わせたみたい」
「ははは、気になって調べたからね。君だって身近で大きな事件があれば積極的に情報を得ようとするだろう?」

毛利に師事する前の事件なのだから当然当時の安室とコナンに面識はない。ただし、火傷を負った赤井に扮してその場に居合わせた安室は、コナンの雄姿を確かにその双眸で目撃しているのだが。
狭い車内で三者三様の思惑が交錯する。

「――それで見つかりました?」
「え?」

主語が抜け落ちて要領を得ない安室の問いかけに、なまえは顔を上げた。

「毛利さんへのご依頼は、人捜しのご依頼だったんですよね。その方とお会いできたのかなと」
「い、いえ……結局見つからなくて。予算もギリギリだったので打ち止めにさせて頂いたんです」
「そうだったんですね。ではまた気が変わられましたらご相談にいらしてください。僕でも構いませんし」
「そうだよ! お姉さん、安室さんに相談して見たら? 安室さん、小五郎のおじさんの弟子なんだけどすっごく切れる探偵さんなんだ」

――ぶっちゃけおっちゃんに相談するより安室さんに調べてもらった方がいいよな。
という打算を抱えたコナンは、横から安室への再依頼を勧め初める。

「そうしたいのは山々だけど、毛利さんへの依頼を打ちとめたのは予算が足りなかったからだから」
「おじさんよりは弟子の安室さんの方がリーズナブルだと思うけど」

安室となまえの接点の有無を明確にしたい、なまえを安室の依頼人にすることで安室の懐に入りやすくする緒が欲しい、など様々な目論見を胸に抱えるコナンは、あの手この手で安室への依頼を推奨する。無論、探偵としての腕も確かな安室に捜査依頼を出すことは彼女にメリットを齎すはずだ。
しかし彼女は困った顔をすると、コナンにそっと耳打ちする。

「……あの、ごめんね、コナン君。気持ちは嬉しいんだけど、私男の人苦手なの」
「もしかして高木刑事に驚いてたのも……」

なまえはそうだと肯定するように眉を下げた。

「友達の捜索も元々は槍田郁美さんっていう女性の探偵に依頼してたんだけど、その方は医療系の知識に富んでいる方で、自分よりも元刑事の毛利さんの方が人探しには最適だろうって紹介してくれて」
「ボク、その探偵さんなら知ってるよ。元検視官なんだよね」

黄昏の館の殺人事件で邂逅した元検視官の女流探偵、槍田郁美。ルミノール試薬を持ち歩いていた覚えがある。

「ちょうどその時期にストーカー被害にあっててね、追加で身辺警護もお願いしたら、尚の事毛利さんの方がいいって言われて。本当はちょっと迷ってたんだけど、爆弾騒ぎの時に間近で推理を見て、任せられるかなって思えたの。それに探してる友達も元警察官だったから、その伝手にも期待してたんだ。でも安室さんは……」
「……男性への苦手意識を我慢して相談するほど条件が良くない?」
「はっきり言うね……。その通りだよ。本人には内緒ね」

元警察官の毛利とは違い、この安室という男は現役の警察官で、立場も高いのだが……さすがにそれはおおやけにできない。じゃあ仕方ないね、とコナンは諦めるほかなかった。
「そういえばさー……、」とコナンが言う。

「お姉さん、刑事さんに事情聴取されたとき、何か隠してたよね? 事件について知っていることがあるなら、ボクでよかったら話してみてくれない? ボク、どうしてもこの事件を解決させたいんだ!」
「だ、大丈夫、明日、警察の人にちゃんと話すから……。それに事件には直接関係のないことだし」
「関係のないこと?」
「うん……。聞いても聞かなくても一緒だと思うよ」

膝の上に落とした瞳を悲痛に細めるなまえを、ミラーの中から安室のブルートパーズの碧眼が見つめていた。

「安室さん……でしたよね」
「はい。なにか?」

鏡越しに彼女と目があった時、安室はらしくもなくたじろいでいた。しかしそれも刹那の出来事で、すぐに疲労を匂わせないドライフラワーのような萎れない微笑みを浮かべる。

「あの人、また何かやったんですか」
「……例の殺された被害者のことですか?」
「はい。だって探偵が尾行や身辺調査をするなんて……」
「クライアントのプライバシーや守秘義務があるので詳しくはお伝えできませんが、あの被害者、出所後は真面目に労働していたようですよ。金銭トラブル以外、特筆すべき問題はないくらいです。現状の話、ですけどね……」

そうですか、となまえはまた目を伏せる。窓にこつりと額を触れさせて寄りかかる彼女の顔には疲れがありありと滲んでいた。
被害者の犯罪歴を知っているのは、高木刑事あたりから聞かされたからなのだろうか。よもや過去の事件の当事者と同じ車に揺られているとは思いも至らぬコナンだったが、今深追いするのはあまりにも気の毒だと、追求したい衝動をぐっと堪え、黙殺する。
そして。先に毛利探偵事務所を訪れた車は、喫茶ポアロの看板の出ているオフィスビルの前で止まった。よいせと降車したコナンに、なまえは窓を開けて車内から手をふる。

「あ、コナン君、ジャケット貸して貰っちゃってごめんね。ファンデ着いちゃったから洗って返すよ」
「え、そんなのいいのに」
「これくらいさせて。じゃあね」
「うん、ばいばい。安室さんも送ってくれてありがとう」
「嗚呼、気をつけて帰るんだよ」

安室となまえに見送られ、コナンは軽やかな足取りで階段を駆け上がっていく。

「さて、と……」

運転席で少し姿勢を崩した彼は、よそ行きの顔と内向きの顔の狭間でたゆたっているように思えた。がしかし、財布から取り出した結婚指輪を左手の薬指に嵌めると、彼の纏う空気は一変する。

「行こうか」

顎を上げて後部座席のなまえを振り返る彼の双眸は、先程までの甘やかさを消し去っており、やや鋭い印象を強めている。刹那にして降谷零に変貌した運転手と絡んだ視線は、すぐに解かれた。
車が道路を滑り出す。コナンの影が消え、二人切りとなった車内。緊張の糸がほどけても、疲労困憊のなまえは言葉少なだった。降谷はそんな彼女に無理に会話を強いることはせず、しかしミラー越しに絶えずその様子を伺いながら自宅までの道を急ぐ。彼女がどれくらい昔のことを想起させているかが不透明な以上、下手に刺激するのは悪手と判断して沈黙を破らずにいたが、実のところ降谷はただ怯えていたのやもしれない。彼女がまた異性への恐怖に蝕まれることに――自分さえも怖がっていたあの頃に、引き返していくことに。



自宅の鍵を開けて、照明を点ける。こんなにも窓の外が明るいうちに帰れるのはいつぶりだろうか。

「疲れただろう、夕飯まで休んでいるといい……。僕が作るから」
「ごめんね、ありがとう……」

覇気のないあえかな笑顔でそう言ったなまえは、いそいそと私室に引っ込んでいった。心配だ。後に続きたかったが、一人の時間も必要だと思い、降谷は耐える。
小一時間後、悶々とした気分で夕食を用意した降谷は、彼女の部屋の扉を叩いた。

「……なまえ、起きてるか? ご飯できたけど」

小さな唸り声のような返答がひとつ、耳朶を引っ掻く。「開けるぞ」と断るとドアノブを捻り、扉を開いた。寝台の上にはタオルケットの山があり、降谷の足音を聞いてそれが微かに揺れ動く。枕側のベッドの端に腰を下すと、もぞもぞと緩慢な動作で寝返りをうつなまえが顔を覗かせた。

「起きれそう?」
「無理……たべれない……。胃が痛い……あたまも、いたい……」
「じゃあゼリーと薬持ってくる。手、冷たいな……湯たんぽも作ろうか」
「せっかく作ってくれたのに、ごめんね」
「気にするな」

彼女の枕の上に散らばる髪を撫でると、降谷は一度部屋を後にした。薬缶を火にかけ、胃薬と頭痛薬、それを飲ませるための水と、ゼリー飲料を用意し、また彼女のもとまで戻った。薬だけ飲ませ、ゼリーは彼女が好きな時に口にできるようにベッド脇に置いておく。湯が湧くまでの間、彼女の頭を撫で続けた。

「零君……」
「ん?」

なまえが降谷の服の裾をちょんと摘む。ゆっくりと髪を撫でて、彼女の言葉を待ってやると、暫くして唇を動かした。

「こわい……」
「大丈夫。今日はずっと家にいるから、呼んでくれたらすぐに来るよ」
「うん……」

降谷は、彼女を抱き締めたいと騒ぐ心を押さえつけていた。実行に移したところでそれはなまえを落ち着かせるための行動ではない、降谷自身が安心したいがための身勝手にしかならない。
彼女は不安な時、自分の口で抱擁やキスを求めてくる。それがないということは、いま降谷にそうされることを望んでいないということだ。これ以上接触を求めれば、きっと彼女の竦んだ心は反射的にそれを拒絶する。そして、二人の関係に亀裂をいれてしまったと過剰に自省して、彼女は己の防衛本能を罵倒するだろう。
第一、添い寝や一晩中そばにいることを求めている時には降谷の寝室に来るという取り決めになっている。この部屋は彼女にとってのシェルターにも等しいのだ。そこを選んで閉じ籠もっている以上、降谷には待つことしかできない。
この聖域は、冒せない。



死体になったあの男が安置所から舞い戻り、なまえに馬乗りになる。
夢の中のなまえはあの頃のセーラー服を纏っていない。今日着て出かけた服をそのまま着ている。
此処は学校の空き教室でも、実家の私室でもない。降谷と生活する家の自分の部屋だ。
殺されたはずの男が、どうして黄泉から帰ったのか――。

「れいく――」

この世で一番信頼している相手に助けを求めようとした喉は、男に首を絞められたことで閉ざされた。喉にセメントを流し込まれ、それが硬化したような息苦しさに頭はパニックになり、必死で藻掻く。どれだけ酸素に齧り付いても肺が満たされず、焦りだけが進む感覚は、過呼吸に似ている。首にめり込んでいる男の手を引き剥がそうと何度も引っ掻くが、逆に手を捕らえられ、両手首を頭の上で拘束されてしまう。奪われた手の左の薬指には束縛もしてくれない結婚指輪が無様に光っていた。
久しぶりの悪夢は鮮やかで、重く、苦しい。
片手の自由を残している男はなまえのブラウスの裾から手を忍び込ませ、腰をまさぐってくる。ぶつっ、と前を引きちぎられ、弾けた釦が宙を踊った時、重たい絶望が夜の帳のように脳裏を覆い尽くした。キャミソールとブラを引っ張り上げられ、零れた胸に汚い口が吸いついてくる。ざらついた指や舌が皮膚に乗せられた。

――やだ、やめて、離してよ……!

閉じきった喉の奥で、死産の悲鳴が生まれては死んでいく。
男が何ごとか囁く都度、生暖かい吐息が皮膚を這い、悪寒に肌が粟立てられた。男の声が思い出せないため、彼女が夢の中で男の言葉を聞くことはできなかったが、息を浴びる感覚だけはしっかりと脳を焦がしている。

「やめて……先生……。やめて……くだ、さい……っ」

抵抗を口走ると、強く頬を殴られた。
男の手がスカートの中に伸びてくる。太腿を這うその感触に、恐怖が臨界点を超えた。涙腺が決壊し、目尻からは大粒の雫が滴り落ちる。男の手が自分の身体に触れていると思うだけでなまえは吐き気と頭痛が止まらなかった。この男が自分と同じ血の通った人類だという自明の理さえもはや信じられない。
スカートとショーツを同時に膝まで下ろされ、足輪のように絡まる脱ぎかけのそれで身動きが取れなくなったところを、膝を抱え上げられ、剥き出しの秘部に熱を突き刺される。濡れても慣らされてもいないそこに快楽の兆しは見えず、激痛だけが稲妻のように総身を駆け巡った。

「やっ……、零君! 零君!」
「――降谷は来ないよ」

無音のまま口を動かす男の言葉の中で、それだけが、はっきりと聞こえた。

「あいつは来ない。あいつは肝心な時にいつもいない。お前の誕生日すらすっぽかすような男が、犯されている時に限って都合よく助けに現れてくれると思うのか?」
「やだぁ……零君……ッ!」

なまえはぴくぴく跳ねる指の先に触れた降谷の上着を本能的に顔の傍まで引き寄せ、それに鼻先を埋めた。それだけが絶望の跋扈する恐ろしい夜のよるべだった。
泣きじゃくりながら降谷の残り香で肺を満たす。降谷の残したものに縋り付き、彼の面影を抱き締めれば抱き締める程に、自分を犯す他人の存在を強く意識させられる。穢されているという意識が際立つ。
なまえは目を瞑って顔を背けながら、ただひたすらに早く終われと念じ続けた。瞼の裏のスクリーンに投影される夢の光景からは、どれだけ目を瞑ろうと逸らそうと逃げられるはずもないというのに。

――零君……。

降谷と結ばれ、大切に愛されることを知ってしまった今、リフレインされる悪夢は幸せな現実との落差でより一層に棘を帯びていた。何も知らなかった頃、自分の肉体の権利さえあやふやだった歳の頃に、尊厳を踏み躙られたとき日々よりも、心が流す血の量はずっと多い。降谷が自分を大切にしてくれたおかげで、彼女もまた自分を顧みて大切に扱うことができたのに、ここに来てまた使い捨ての道具のように弄ばれる。降谷が価値をつけてくれた自分を無価値だと罵倒され、反論する心には暴力の鎮静剤を打たれる。
また、無価値になっていく。好きな人に不釣り合いな自分にされていく。汚泥に塗れた自分を彼の前に晒す勇気がない。
胎を精子で染め上げられる感覚まで、鮮烈だった。
絶望の反芻は、記憶の再演とは思えないくらいに全てが現実味を帯びていた。醒めない夢と現実の違いを説明できる人間がいるのだろうか。逃れることのできない夢は現実にとって変わるのだ。
その夜、夢の中のなまえは、降谷との愛の巣で何度も何度も男に犯された。
悪夢の檻から這い出ることは、明け方まで許されなかった。



それを――降谷は最初は隣人の話し声が壁から漏れ聞こえているだけなのだと思っていたが、何度か鼓膜を引っ掻かれているうちに、隣室のなまえの声であることに気づく。
ノックをし、名前を呼びかけて見るが返事はない。扉を小さく押し開けて、その隙間から中を伺うと相変わらず彼女はベッドの中だった。しかし穏やかではない。タオルケットを盛り上げているその背中はがたがたと震え、発熱でもしたかのように荒い息が壁に吹きかけられ、跳ね返っている。踏み入ってその顔色を確かめてみるが、瞼は下りたままだった。
魘されているのだろう。
無理もない。長年彼女を苦しめ続けた人物が、天の気まぐれでふっとこの世の舞台から姿を消したのだ。

「れいく――」
「なまえ……!」

堪らず答えたが、彼女はまだ眠りの中。寝言で降谷を呼んだだけらしい。かわいらしいなどと頬を綻ばせたのも束の間、続く言葉に背筋が冷える。

「やだ、やめて、離してよ……」

彼女のその絞り出すような一言で、夢の内容は検討がついた。ついて、しまった。
あの男の夢を見ているのだ。死してなおあの男は往生際悪く彼女の人生を侵食する。まるで気色の悪い亡霊さながらに。

「やめて……先生……。やめて……くだ、さい……っ」

夢の中までは助けには駆けつけられない。どうかはやく目覚めてくれ――降谷は祈るように彼女の手を取る。その頬を撫でる。しかし。
降谷が手を握った時、なまえは両手を掴み上げられ自由を奪われる夢を見ていた。降谷が頬に触れた時、なまえは頬をぶたれる夢を見ていた。現実で降谷が触覚にもたらした刺激が、少なからずなまえの夢に反映されていたのだ。

「やっ……、零君……零君……」
「ああ、僕だよ。ここにいる。なまえ、僕はここだ」

降谷がどれだけ必死に呼びかけても、なまえがその夜目を覚ますことはなかった。薄く隙間を作った瞼からころりと眼球が覗くことがあっても、その視線が特定の何処かに向くことはなく、すぐに閉ざされて夢の中に後戻りしてしまう。意識がこちらに錨を下ろしてくれないのだ。
彼女は今、「降谷は来ない」と夢の中で告げられている。瞼を開ければそこでは愛しい相手が何度も彼女の名前を呼んでくれているというのに、哀れにも死んだ男の幻の言葉に振り回されている。

「やだぁ……零君……ッ!」

ぴくぴくと跳ねるなまえの指の先。触れたのは、喫茶店で貸したままベッドまで持ち込まれていたらしい降谷の上着だった。彼女は指先にそれを見つけると、お守りのぬいぐるみを見つけた子供のようにそれを抱き寄せ、顔を埋める。涙も声も、それに吸い込まれていく。
「此処に本物の僕がいるんだけどな……」

降谷の服に縋り、泣き続ける彼女は可哀想でかわいらしい。
――夢の中でも、君は僕を頼りにしてくれるのか。
夜が更けるまで、そして夜が更けても、降谷は彼女の傍にい続けた。



起きぬけだというのに頭も躰もぐったりと疲れ切っていた。
ゆうべは風呂も入らずパジャマにも着替えずに寝てしまったため、服は出かけ先から帰ってからそのままだ。なまえは自分の着衣に乱れがないことにあれが悪夢だったのだと確信することができ、心底安堵する。
時刻は4時だが、外は明るい。早い時間ではあるが、就寝時間が17時頃だったことを加味すると11時間も眠り続けていたことになる。
こんな時間だが、キッチンからは物音がした。降谷が起きているのだ。
目尻から米神に引かれた涙の跡と、嫌に重たい瞼から、自分の顔が浮腫んでいるのであろうことは察しがついた。リビングに向かう前に洗面所に足を運び、鏡で顔の惨状を確認してこれを夫の前に晒す覚悟を決める。ついでに悪足掻きとして洗顔も済ませた。

「お、おはよう、零君」
「おはよう。朝、昨日の残りならすぐに出せるぞ」
「ん、おなかすいた……」
「だろうな」

若者らしいラフな私服にエプロンを着けた降谷は、なまえが酷い顔をしていることになど気づかないかのように爽やかに笑う。敢えて無視されているのだろう。その証拠として、あるものを手渡される。

「ほら、蒸しタオル」
「ありがとう。私今めっちゃ不細工……」

優しさから言及してこない彼に、結局なまえは自分から言ってしまう。
降谷は温かいタオルを目元に充てがうなまえの頭を撫でた。

「せっかく早く起きたんだし、軽くジョギングでもしてみるか? 浮腫も取れるし多少気分も晴れる……。嗚呼、そういえば部下に蒸気が出るアイマスク貰ったんだ。タオルで駄目なら使っていいよ」
「零君お仕事は?」
「午前中に喫茶店。そのあと警視庁で昨日の事情聴取と、本業の仕事。君はちゃんと全休取れよ?」

なまえの聴取は午前中だ。午前休を取り、聴取ののちその足で出勤するつもりでいたのだが、先回りで降谷に牽制される。はぁい、と彼女がおとなしく従うことにしたのは、実際に今日眼を覚ましてみてとても落ち着いて働けるコンディションではないことを自覚したからだ。
朝食はゆうべの余りだという和風ハンバーグと白米、疲労に効く蜆の味噌汁。そして彩りとして、今朝になって態々用意してくれた湯むきのトマト。浮腫にはカリウムが効くという。泣きすぎて顔を晴らしてしまったなまえのために作ってくれたのだ。

「おいしい」
「まだあるから昼にでも食べてくれ。あと、いつも通り4日分の食事、作り置きしてあるから」
「わかった。昨日も今日も任せちゃってごめんね。昨日なんて食べれなかったし……」
「いつも言ってるだろう、料理は気分転換なんだよ。僕も楽しんでやってる。趣味みたいなものだから」

食後に降谷となまえは2人で河原を走った。競歩と大差ない速度のなまえとの並走では、降谷としては退屈だろうに、「なまえと一緒だと楽しい」などと嬉しいことを言ってにこにことしている。足を固定する役割などを引き受けて彼の筋トレに付き合い、家に戻るとシャワーを浴びた。
そして出勤時間よりも少し遅い時間帯に、それぞれ警視庁と喫茶ポアロへと出かけていく。
怖い夢は、朝日に焼かれて消えていった。陽光に穿たれた吸血鬼が灰と化して散るが如く。


2023/07/25
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