比翼のアルビノ

37.あの瞳はどうしようもなくひび割れた硝子のよう

悲鳴と異音は事件の匂い。異変は、なまえのいる化粧室の個室にまで伝わってきた。手を洗ってぱたぱたとカフェのホールに戻ると、或る席の一角に人集りができている。靴を履いたまま投げ出されたつま先が人々の足の隙間から垣間見え、誰かが倒れたのだと悟った。

「脈がない……救急車は呼んでも駄目かもしれない……。店員さん、警察呼んでくれた!?」
「う、うん、数分で到着するって」
大人もたじろぐ冷静さで場の指揮に就いているのは、やはりあの少年だった。

――倒れたばかりならまだ助かるかも……! 心肺停止しても5分以内なら間に合ったはず、3分以内なら脳障害も避けられる可能性が高い、って零君言ってたし……!

書店の出入り口付近にAEDが設置されていたことを思い出したなまえは、すぐさまそれを取りに駆け出す。その脳裏には降谷の言葉が駆け巡っていた。

――心肺停止後、1分以内に救命処置が行われれば97%が救命される。3分以内では75%が救命され、蘇生後に脳に損傷を残してしまう事態も避けられる可能性が高い。しかし5分が経過すると救命率は25%にも昇り、8分が経過すると救命の可能性は極めて低くなる。素人ならまずはAEDを探すことだな。装着さえすれば機械が勝手に電気ショックが必要日見極めてくれる……。それでも心臓マッサージを行わなければならない場面に遭遇することがあれば……1分間に100回の胸骨圧迫を目安に、肋骨を折るつもりでやれ。人工呼吸は昨今の救命法の定説ではしなくても構わない。訓練を積んでいない人間では口から空気を送り込むのは難しく、却って時間のロスに繋がるからだ。吐瀉物で喉を詰まらせないように顔の向きだけ考えて、マッサージに専念しろ。

壁に取り付けられているAEDの機材をもぎ取ると、なまえはすぐにコナンの元へと引き返す。未だかつてあげたことのないような大声を張り上げて人混みを掻き分け、倒れた男の口臭を確認している少年の隣に膝を折った。

「コナン君、ちょっと手伝って!」
「なまえさん!? でもこの人もう……」
「5分経ってないからまだ間に合うよ!」

蓋をあけると勝手に電源が入ったので、音声案内と付属の図に従って、肌蹴させた上半身にパッドを取り付けていく。不整脈を診断したAEDが電気ショックを流すと判断したため、感電しないようコナンや野次馬を退かせた。しかしそんなどよめきながら引いていく人の波の動きに逆らって、なまえの隣に降りる影がある。

「――退いて。AEDはあくまでも心室細動という不整脈という心臓の痙攣を止めるだけのもの……それとは別に心臓マッサージが必要です……。僕がやりますから貴女はそちらに」
「え、あ……はい……」

そう言ってなまえを退かせた声の主があまりにも自然に救命に取り掛かるものだから、言われるがまま離れたが……。
煌めくブロンドの髪。しなやかに組まれ、胸骨に伸ばされる褐色の手。自分に代わりマッサージを施す彼は、ここにいるはずのない男だった。あっけにとられたまま立ちすくむなまえに先んじて、「安室さん!」と男を呼ぶのはコナンで、その呼びかけから彼をこの場で降谷や零と呼んではならないことを思い出す。
夫ではない、赤の他人。今の彼は安室透だ。
程なくして警察と救急者が到着した。倒れた男は救急担任によって担架に乗せられ、運び出されていくのだが、処置に懸命だったなまえはそこで初めてその男の顔をまともに見た。

――えっ、あの人……。

嫌な記憶が目を覚ます。自分を殴り、まさぐる男の手の感触を皮膚に幻触した。今なまえに触れている人間など誰もいないはずなのに、記憶の中から伸ばされた悍ましい手が彼女に絡みつく。泥に、砂に、足を取られるような不快感。
今まさになまえが助けようとしていたこの男は――過去に自分を犯した教師だった。
瞬間、なまえは息をしていられなくなった。……では鼓膜に響く自分の忙しない息遣いは、なんだろう。

「……なまえさん?」

コナンの声に答えられない。
不愉快な違和のある胸を引っ掻きながら背中を丸めた。全力で疾走した直後のように息も鼓動も跳ね上がっており、一瞬にして熱を逃して冷え切った足が震える。立っていられなくなり、床に膝を折ると、彼女の異変に気づいたコナンが背中を撫で擦ってくれた。
こんなにもあくせくと呼吸を紡いでいるのに、窒息しそうな息苦しさは消えず、それが余計に息を早める。苦しい、死んじゃう、息をしなきゃ。なのにすればするほど頭が重くなる。悪循環だ。
座位を保つこともままならなくなると彼に抱き止められ、そのまま子供である彼に凭れ掛かることになってしまう。

「なまえさん!? なまえさんっ!! 糞っ、過呼吸か……!!」

情けないと思う余地もすぐさま苦しさに塗り替えられたなまえは、少年の声色が急激におとなびたことにも気づかない。
コナンは彼女の激しく上下する肩を必死に支えるが、力の抜けるばかりである躰はずるずると重さを増す。耳元に押し付けられた胸から感じる動悸は、異様な速度を刻んでいた。

「なまえさん……! なまえさん、ボクの声聞こえる!? 聞こえてたらボクの言う通りにして! 息を吐くことに集中するんだ!」
「う……はぁっ、はっ、……っはぁ、ふ、ぁっ、は……っ!」

ひゅ、ひゅ、と喉から鋭く息が抜ける。コナンの肩にかかる彼女の手は、痙攣したまま肩口の服を弱く引っ掻くだけで、縋りつこうとしているのか、それとも引き剥がそうとしているのかさえもわからない。
背中を擦って正しい息の速度を教えてやろうにも、小学生の頼りない小躯で成人女性を支え続けるのもそろそろ限界だ。と、そのとき。

「動かしますよ」

息を乱すなまえにはかけられた言葉の意味もわからないが、しかしかろうじて安室の声であるということだけが理解できた。零君――、と胸の裡で本当の名前を呼ぶ。隠し事に長けた性分ではないが、どうせ今は言語を紡ぐことなどできない。
安室がなまえを抱き起こし、代わりに抱えてくれたお陰でコナンは重みから開放された。安室は鍛え抜かれた厚い胸板に彼女を寄りかからせると、体温を分け与えるが如く肩を抱く。

「苦しいですね。でも大丈夫ですから、落ち着いてください。大丈夫、大丈夫……。聞こえていたら僕の言う通りにして貰えますか? 一旦息を吐いてみましょうか。そう、ゆっくり息を吐くんです……上手ですね、もっとゆっくり……お腹で息をしましょうね」

真っ白になる頭の中に、唯一、籍を入れているはずの男が自分の名前をまるで口にしてくれないことが蜘蛛の巣の上で藻掻く蝶のように引っかかっていた。彼が一言「なまえ」と呼んでくれれば呪文のように全てが収まる気さえする。安室を名乗る彼にそれができないことは痛い程理解しているのに。
しかしどれだけ名や職を偽ってもその体温までは偽れない。とん……、とん……、と平常時の呼吸の速度にまで導いてくれる手のあたたかさは間違いなく彼のものだ。ストレスや恐怖、不安に起因する過換気症候群の一番の薬は安堵だろう。旧知の仲である安室の腕の中であやされているうちに、なまえは落ち着きを取り戻していった。



目が覚めると、なまえはカフェの壁際のソファ席に寝かされていた。痛む頭に緩慢なまばたきをし、上肢を起こすと、ぱさり、と衣擦れの音と共に膝の上に布が落ちる。見ればそれはメンズのジャケットと、子供服の上着で、サイズと見覚えのあるデザインから安室とコナンがかけてくれたのだろうと検討をつけた。なまえの襟元は寛げられていたので、それへの配慮なのだろう。コナンまで小さな服を貸してくれるとは、微笑ましい。
店内を見渡すと、離れたテーブルでは刑事が居合わせた客らに聞き込みを行っており、倒れた男の座っていた席の周辺を鑑識らしき人物達が写真に記録を収めていた。
「お姉さん、起きたんだね」
「コナン君……」
「手、震えてるね。大丈夫だよ」
コナンはなまえの隣に腰掛けると、温めるように手を握ってくれる。自分ですら痙攣と寒気の区別がつかないため、そうして貰えるのは心強かった。
「ごめんね、迷惑かけて」
「そんなことないよ。心配はしたけど、それだけ。お姉さんこそ、あの人を助けるの、手伝ってくれてありがとう」
冷静でびっくりしちゃった、と笑うコナンはすっかりいつもの調子だ。彼女が過呼吸に苦しんでいる折に垣間見せた、大人びた本性の影はどこにもない。
あの人はどうなったの――その一言が、言い出せない。助かっていたとしても死んでいたとしても喜べないし悲しめもしない。何よりあの男について僅かにでも口にすることは、他者の吐瀉物を口にすることのように気味が悪く、厭われた。
なまえは大雑把に開けられた襟元を正し、安室の上着を袖を通さずに肩から羽織る。彼の香りに包まれていると、出来立ての傷口のようにひりついたこの事件現場でも安らぎを得られた。

「……ねぇ、こういうこと、いつもあるの?」

コナンが問う。こういうこと、とは恐らく日常的に過呼吸に苛まれているのか、という意味だろう。

「ない……。中学の時に少しあったくらいで、10年位以上落ち着いてたから……ごめんね、びっくりさせたよね。迷惑もかけて、ごめんね」
「ううん、ボクは死体とか瀕死の重症患者とか見慣れてるけど、普通パニックになるものだよね。さっきまで冷静に救命活動してたからちょっと驚いたっていうか……大丈夫な人なんだと思っちゃって、配慮できなかったんだ。……あ、そうだ、なまえさん、普段聞いてる音楽とかある? それ聞いたら楽になるかもよ。ボク、スマホ取ってきてあげるからさ」

コナンはソファを飛び降りると、自分たちが食事を摂っていた席へと足を運ぶ。聞き慣れた音楽を聞く、というのは過呼吸やパニック障害などの対策として時折挙げられるものだ。賢い少年はただ優しいだけに見えても、適切な手段を選んで踏んでいる。

「あのー、すみません」

コナンと入れ違いに現れた高木渉巡査部長がおずおずとなまえに声をかけた。刹那、彼女は顔を恐怖に歪めて、ひといきに壁際まで飛び退いてしまう。ただ驚いたのではない、男の影に怯えたのだ。

「す、すみません、驚かせてしまいましたね。僕は警視庁の高木です。まだ落ち着いていらっしゃらないようですのでそのままで結構ですよ。後ほど事情聴取をさせていただくことになると思いますので、そのことをお話したかっただけですから。一応、貴女の順番は最後にしておきました」
「あ、はい……すみません……」
「いえ、無理もないと思いますよ。助けようとした相手が目の前で亡くなったわけですから……」
「え……亡くなったんですか?」
「あれ、聞いてませんでした?」

そうですか、と睫毛を伏せたなまえは、高木は勿論、誰の目から見ても急病人を助けられなかったことを悔やむ心根の優しい一般人に見えたことだろう。断じて画策した訳では無いが、これが食中毒などではなく仮に殺人事件であったとしても自分に疑いの目が向かないように事が進んでしまっている。ともすれば誰よりも動機を疑われそうな過去を持つにも関わらず、だ。

「……聴取はのちほどで構わないんですが、お名前と、ご住所と連絡先と……そのあたりだけ伺ってもよろしいですか?」
「――その人はみょうじなまえさんだよ」

高木の問いに答えたのはなまえではなくコナンだった。その手には座席から回収してきた彼女の鞄がある。

「高木刑事、お姉さんのことはボクが話すよ! お店に入ってからはボクとずっと一緒にいたからさ!」
「助かるよ、コナン君」
「なまえさんの連絡先はボク知ってるよ。あと勤務先も。確か〜……」

よく覚えているな、と感心していたが、ひとつ放っておけない誤情報が混入していることに気づき、なまえはすぐに口を挟む。

「あの! すみません、みょうじは旧姓なんです。仕事とかで通称として使ってて……それでもみょうじって呼んで頂けると助かりますけど……。本名は降谷なまえと申します。免許証と保険証が鞄にあります。……コナン君、持ってきてくれてありがとう。いいかな?」

コナンから受け取った鞄を漁り、財布を取り出すと中から保険証と運転免許証を引き抜く。それを高木に渡した。

「拝見します」

――偽名……いや、通称だったのか。
コナンは思案する。偽名でフルヤといえばあの男、安室透もとい降谷零だ。
コナンは高木の手中にある身分証を覗き見ようと試みたが、彼が立ち上がってしまったことで身長差が開いてしまう。行儀が悪いと思い直し、なまえ本人に直接問いただすこととした。

「お姉さん、フルヤの字ってどう書くの?」
「雨が降るの“降”に“谷”だよ。それがどうかした?」
「ううん、漢字もわかった方が記憶に残りやすいから聞いただけ。珍しい苗字だね」
「そうだね。判子とか全然売ってなくて困るよ」

なまえは冗談を言える程度には落ち着きつつあった。
この少年がいてくれるからだろうか。変声期も迎えていない聖歌隊の美少年のようなボーイソプラノはなまえに恐怖を与えない。自分を犯せてしまう男として認識せずに済む上、この少年はそこらの大人など足元にも及ばないほどに博識かつ論理的で、頼り甲斐がある。いてくれるだけで幾らか楽だった。
一方で、コナンはますます彼女の降谷姓を訝しんでいた。

――安室さんの本名と同じ……。偶然か?

同じ読み方でも「古谷」や「古屋」であればどこにでもいる名前であろうが、「降谷」と書く苗字は全国的にも希少なものだ。しかし以前、日売テレビの料理番組『どちらのスイーツでSHOW』で遭遇した事件の犯人、降谷渡も同じ字を書く。
希少な姓というただそれだけの共通点から安室となまえの関連性を疑うのは、幾らなんでも考え過ぎだろうか。しかし降谷渡と異なるのが、降谷零も降谷なまえもそれぞれに安室透、みょうじなまえと偽名や通称で生活している点である。なまえに関してはすぐに自ら訂正を入れ、身分証明書を提示した辺りから隠す気がないとも取れるが。一応、コナンは気になる点を彼女本人に尋ねてみる。

「……お姉さん、どうして高木刑事に旧姓で呼んでって言ったの?」
「旧姓を使ってるのが主に職場だからだよ。警察から職場の方に連絡が来ることもあるかもしれないでしょ、その時に私の本名を知らない同僚や受付が『降谷なんていません』って言って追い返しちゃったら大変だからね」
「へえー……」

コナンの身近にも全く同じ理由で結婚後も旧姓を名乗っている女性がいる。毛利小五郎の別居中の妻、妃英理だ。この国では未だ夫婦別姓制度は成り立っておらず、結婚に伴い改姓することの多い女性が、現在の姓と旧姓を使い分けることとて珍しい話でもない。できれば旧姓で通したいと願い出つつも、彼女はきちんと本名を明かしたのだから、ただ苗字が一致したと言うだけでこれ以上疑うのも不躾だろう。

「そういえば降谷さ……えーっと、みょうじさん、のほうがいいんでしたね……。安室さんとはお知り合いなんですか?」
「え?」

高木の問いになまえは首を傾げた。

「その様子だと違うみたいですね。彼ですよ……あの金髪の、背の高い……。コナン君と一緒に貴女のことを落ち着かせて、ソファまで運んだのもあの人です」
「そうなんですか、あとでお礼を言わなきゃですね。ありがとうございます、教えてくださって。そういうことならこの上着もきっと彼のですよね」

――なまえさんと安室さんは他人なのか……? どうせ誤魔化されるとは思うけど、安室さんにも一応探りを入れてみっか……。
小学生としての無邪気な笑みを消し去り、探偵の顔に切り替えたコナンの行動力は目覚ましいものだ。離れた場所で鑑識や刑事の話を聞いて回っていた安室に近寄ると、その服の裾を引く。

「ねえねえ、安室さん」
「なんだい?」

声をかけると、安室はすぐにしゃがんで目線を合わせてくれた。

「安室さんの知り合いに降谷渡っていう人、いる?」
「フルヤワタル? 聞いたことないけど、どんな字だい?」
「雨が降るの“降”に“谷”で降谷。渡はさんずいに、角度とか温度の“度”だよ」
「知らないなぁ。職業柄、人の顔と名前を覚えるのは得意だから、多分他人だと思うよ。珍しい苗字だから出会っていたらそれなりに意識はすると思うしね」

ぱちりと垂れがちな目元で弾けるウィンクの意は、自分の本名と同じだから嫌でも意に止まる、といったところだろう。

「じゃあさー……さっきの倒れちゃったお姉さん、降谷なまえさんって言うんだけど、あの人は? 知り合い?」
「初対面だよ。……確かに珍しい苗字だけど、それだけで関連性を疑われてもね」
「あはは、ごめんなさーい。ボクの考えすぎだったかも」

安室であれば仮に顔見知りだったところで全く同じ答えを述べるのだろうが。やはり探るなら素人であるなまえの側から掘り下げるべきだろうか。
猫かぶりの笑顔の裏で思案を回していると、今度は安室の方から問いを投げかけてきた。

「先ほど倒れた彼女……降谷さんは、君の知り合いかい?」
「あのお姉さんは小五郎のおじさんの過去の依頼人で……たまたまそこで会ってお昼をご馳走してもらったんだ」
「えっ、依頼人の方だったの?」
「あぁそっか……お姉さんがおじさんに依頼したのは安室さんが来る前だから、会ってないんだね。確か人捜しの依頼だったと思うけど……」
「人捜し……」
「どうかしたの?」
「いや……それよりコナン君の過呼吸の対処、見事だったなと思って」
「昔学校で救急救命の実習をやった時に過呼吸の対処法も聞いたんだ。運良く役立ってよかったよ」

といってもこの姿になる前の、中学、高校時代の話だが。高校生探偵として名を馳せていた時期に、捜査一課の刑事の知人から救急救命のこつを聞き及んでいたというのもある。

「昔って……せいぜいここ半年の話だろうに。まぁでも小学生の昔なんて半年か一年そこらか」
「い、いいでしょ、別に。それを言ったら安室さんこそ。過呼吸もだけど、心臓マッサージも手慣れてた。流石だね」
「まぁ、僕は職業柄、ね」

それが本職の方を差していることはこの場でコナン意外知る由もない。それをわかった上で、意地悪で聞いてみる。

「それはどっちの意味?」
「ポアロと探偵のどちらってこと? 決まっているじゃないか、探偵だよ」

やはり安室は隙を見せなかった。これならば仮にみょうじなまえと面識があったのだとしても、ボロは出すまい。



数分後、現着した目暮警部が高木刑事と共に状況を整理していく。

「なるほど、被害者は客の50代男性。死因は食中毒ではなく、サプリメントなどのカプセルに入れた青酸化合物を、被害者の飲み物に混入させての毒殺……。飲み物を提供した店側は勿論、すれ違いざまに誰にでも毒物を仕込む余地はあったということか……」
「はい、被害者の身元は、元教職員の、――さん、55歳。過去に犯罪歴があり、教職に復帰はしておらず、現在は工事現場を始めとした日雇い労働を点々としながら生活していたようです。金銭的に苦労していたようで、金の貸し借りによるトラブルや、他にも異性関係のトラブルもあったとか……」

手帳に記した情報を読み上げる高木に、目暮がまたなるほどと相槌を打つ。

「それで?」

目暮のじっとりと呆れを孕む視線の向く先は、言わずもがなまたしても現場に居合わせたコナンと安室だ。

「今日は喫茶店探偵とコナン君が偶然居合わせたわけだな」
「いえ、休日に書店巡りをしていたコナン君はともかく、僕が居合わせたのは偶然ではありませんよ。何しろ僕は殺された男性を追ってこの店を訪れたんですから……」
「なにぃ?」

帽子の下で眉を吊り上げる目暮に、高木が横から耳打ちした。

「それがどうやら、安室さんは亡くなった男性の身辺調査の依頼を請け負っていて、今日も彼を尾行していたらしく……。被害者の情報がすぐに出揃ったのも彼が情報を提供してくれたからでして……」

目暮は肩を竦めた。毎度のお約束ではあるが、警察が探偵の掌の上であることを不甲斐なく思う。

――っつーことは、安室さんが黒染めして監視していた相手っていうのが、あの殺された被害者ってことになるのか……。

被害者の労働先と安室の潜入先が一致していることからもまず間違いはないだろう。
大人たちの話を聞きながら、難しい顔で口元に指を添えたコナンは、情報の断片からパズルを組んでいく。
安室の監視や尾行が刑事らに話した通り本当に依頼なのか、あの日ポアロで聞いた通り私用なのかも気になるところだ。ポアロでの言葉を信じるのであれば、刑事に探偵業の一貫で尾行していたと進言するのはストーカー行為に話が発展することを避けるためだと考えられる。そして被害者の過去に犯罪歴があるという点……。元受刑者が出所後に公安にマークされるということも、犯した罪の種別によっては有り得そうな話かもしれない。それをなぜ安室のような立場のある人間が担っているのかは謎めいているが。
一応被害者の姓名と適当なキーワードで検索をかけてみると、15年前の性犯罪の記事がずらりと並んだ。

――教師から女子生徒に対する性的暴行事件……安室さんが子供に聞かせる話じゃないって言ってたのはこれが理由か。確かに子供にはしにくい話だ。それに小学生だから前提となる知識がないとも思われていたのかもしれないし。普通餓鬼じゃあどういうことをされたのかなんてわけんねーよな。

当時の被害者の少女が受けた仕打ちを簡潔に述べているウェブページをスクロールしていくと、なおさら安室が口を噤んだ理由がわかる。惨たらしい事件だ。
しかし、公安が態々張るほどの、ある種の悪性のカリスマ性や危険因子を持つ犯人象ではない。

――結局、安室さんがなんでこの人を追ってたのかはわからねーな……。

「それで、容疑者の目星はついているのかね。トラブルがあったと言っていたが?」

目暮の問いに、手帳の頁を捲った高木が答える。

「まず、この喫茶店の厨房で働いている、種井陸たねいりくさん、55歳。被害者の友人で、何度も金を貸しており、未だ返済されていないそうです。そして同じくここのホールスタッフ、清原きよはらエルさん、25歳。店の常連だった被害者からはしつこく言い寄られていたようです。続いて、被害者の同僚で、今日ともにここを訪れていた、西澤眞にしざわまことさん。被害者との関係は良好であった模様です。それから最後にそちらの……まだ聴取の済んでいないみょうじなまえさん……本名、降谷なまえさんです」
「ん? まだ終わっていなかったのか」
「それが、みょうじさんは被害者が倒れた際に真っ先に救命活動を行ってくださったのですが、そのあとに過呼吸を起こして倒れたため、最後に回していたんです」
「過呼吸?」
「恐らく助けようとした相手が亡くなったことによるショックかと」
「なるほどな。我々は仕事柄慣れているし、そこの探偵気取りの小学生のお陰で感覚が狂いそうになるが……一般人には刺激が強い。そんな反応だろう」

目暮も交えてなまえに話を聞くことになった。他の客の事情聴取に使っていた座席へと移ってもらい、刑事2人となまえはテーブルを挟んで向かい合う。

「被害者の男性との面識は?」
「…………」
「みょうじさん? どうかされましたかな」

彼女は顔色を白紙のように蒼白させ、わなわなと唇を震わせていた。何か紡ごうと口を開き、すぐに舌を縺れさせて黙り込んでしまう彼女からは、何か答えようという意志は見受けられるが、肝心の口が音を発しない。さすがの二人もこれには同情した。

「警部、彼女は一度倒れているので今日はここまででもいいんじゃないでしょうか。連絡先や住所は控えていますし……ここまでずっと協力的でした」
「そうだな。ではみょうじさん、今日のところはお帰り頂いて、また後日署の方にご同行頂いても構いませんな?」
「え、あの、でも、私……」
「有り難いが、無理はなさらない方がいい。必要であれば心理的なケアも手配するので、気軽に仰ってください」
「は、はい」

席を立つ目暮と高木に、なまえは追い縋ろうとするが、やんわりと断られてしまった。
ここまであっさりと警察が開放してくれたのは、彼女の勇気ある命を救う行動が評価され、疑いの目を向けられていない証拠だろう。それはある種の先入観だ。確かに彼女は無実の身の上だが、被害者との間には大きな接点がある。切っても切れない太い糸、忘れられない過去の柵だ。
言わなければ。例え永遠に思い出したくないことだったとしても。
警察ならば少し被害者の身元を洗えば、みょうじなまえという存在にすぐに辿り着くだろう。明日にでもと約束を取り付けられた聴取の場で、きちんと言わなければならない。あのことを説明しなければ。自分が吐くよりも先に警察がそれに辿り着いても、きっと根掘り葉掘り尋ねられれる。なら同じだ。早い方がいい。今からでも。

――言わ、なきゃ……い、言わな……。

震える拳で安室のジャケットを握りしめる。まだ寒い。永久凍土に裸で放り出されたように背筋と指先が凍えている。また息が乱れそうだ。心臓が自分のものではなくなってしまったように、暴れている。
どうしよう、助けて。名前を呼んではいけない人に救いを求めて彼の服を抱きしめる。

「――なまえさん」

葉の隙間から零れる木漏れ日のように、その声はやらかくあたたかに彼女の心を照らした。声を辿れば、あの怜悧な少年がそこにいる。

「帰ろ?」

コナンが笑うと、そこは日向になった。不安に凍りついていた指が、握られた傍から溶けていく。


2023/07/25
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