比翼のアルビノ

36.天使だから羽を休めていただけ

大きな書店の集中する池袋。贔屓にしている作家の新刊の推理小説を購入するついでに、見落としていたタイトルや知らない作家を開拓するつもりで、その日、コナンは池袋の幾つかの書店につま先を差し向けていた。ビル一棟丸々を本棚で埋め尽くされたような大型書店と、店主の嗜好のよく表れた古書店を巡り歩き、最後はフロア内に喫茶店を備えているタイプの寛げる本屋に足を運ぶ。帰りの電車に乗る前に、珈琲に舌鼓でも打ちながら最初の方だけでも頁を捲ろうという魂胆だった。何しろ待ち望んだ発売日である。
喫茶店に入る前に、表に陳列された新刊の表紙の群れを眺めていた時だ。コナンを呼び止める声がひとつ、静寂の保たれている店内に落ちたのは。

「あれ、コナン君……だよね? 毛利さんのところの」

振り返った先の手帳コーナーからこちらを見ている女性が声の主なのだが……見覚えのある顔から彼女の名前が喉をせり上がってくるまでに少しの時間を要した。

「なまえさん?」
「そうそう、久しぶりだね。って言ってもキッドキラーとして取り上げられてるのをよく見るから私はあんまり久しぶりな気もしないんだけど……」

みょうじなまえ――以前、ていと銀行の強盗事件や、米花百貨店の爆弾騒動にコナン共々巻き込まれ、その縁で毛利探偵事務所に依頼を出してくれた女性である。

――確か、依頼内容は人捜し……。行方不明の友達を探して欲しいって言うのだったか? 結局、未解決で終わっちまったんだよな……。

元々は別の探偵に頼んでいた依頼だが、その探偵に毛利小五郎を紹介されたらしい。依頼の引き継ぎを渋っていたところを共に同じ事件に巻き込まれ、コナン操る眠りの小五郎の推理に感銘を受けて託すことを決めてくれたのだという。しかし、その後、金銭的な事情を理由になまえの方から捜査依頼を打ち切ってしまったのだが。

「毛利さんと蘭さん、元気にしてる?」
「元気だよ。お姉さん、今日はお休みなの?」
「そう、ちょっと買い物。コナン君は……本屋さん巡りかな。池袋って本屋さんたくさんあるもんね」

探偵のような観察眼を持たずとも、ライバル書店の袋を複数引っ提げたコナンを見れば、誰もが彼の今日の行動に検討をつけるだろう。

「沢山買ったみたいだね。重かったでしょ? よかったらそこのカフェでお茶していかない? 私ご馳走するよ」
「ほんと? ボクもあそこで本読もうと思ってたんだ! ありがとう!」

貸して、と言ってなまえはコナンの荷物をほとんど奪ってしまった。女性に荷物を持たせるなんて母に知られたらなんと言われるだろう、とは思いつつ、小学生の小躯にハードカバー数冊は負担であったのも事実。コナンは彼女の厚意に甘えることとし、連れ立って同フロアのカフェに入店する。

「コナン君何にする? あ、ジュースのメニューはこっちね」
「ボク、アイスコーヒーがいいな」
「大人だねぇ〜。あ、お昼食べた? まだなら頼んでいいよ。私もお腹空いちゃった」

彼女が依頼人として事務所を訪れた折や、同じ事件に巻き込まれた折は、やや近寄りがたい印象を抱いていたが、慮外にも優しく接してくれることに驚いてしまう。子供が好きなのだろうか。
みょうじなまえの第一印象については、近寄りがたいというよりは、どこか不安そうだった、と表現する方が適切やもしれない。百貨店の爆弾騒ぎの際は、彼女は他の客と同様に不安と恐怖を満面に広げていた。それと同じ表情は探偵事務所でも崩されることがなく、終始緊張に苛まれたようなその様子が、コナンの中で触れにくい人物象を形成しただけなのやもしれない。

「買った本、読んでてもいいよ。私も仕事のメール返したいから」
「じゃあ遠慮なく!」

注文を終えると、なまえはにこやかにそう言ってくれる。
軽食に先んじてコナンの珈琲となまえの紅茶が運ばれてくると、彼女は読書中のコナンの手を止めないようにストローを紙の包みから出してくれた。こうまで甲斐甲斐しいと自分が王族にでもなったような気分である。氷を揺らしながらストローを差してくれた彼女にありがとうと言い、導入の締めくくりに差し掛かった本から視線を持ち上げた。

「お姉さん、優しいんだね」
「そんなことないよ、普通だよ。子供にお財布は出させないよ。私から誘ったしね」
「荷物も持ってくれるし」
「私も昔、親とかに友達に持って貰ったから」
「ボク、なまえさんの印象ちょっと変わったかも。だって、事務所に来た時はもっと雰囲気違ったじゃない?」
「あれは……ちょっと緊張してただけだよ」

緊張。
毛利小五郎の私生活を知り、眠りの小五郎の糸を裏で引くコナンとしては、彼の威厳は実感の湧かないものだが、世間的に見れば毛利探偵といえば天下に名を轟かせる名探偵である。彼女のような一般市民からすれば、名前の売れている著名人の元を訪ねるのは、ちょっとしたアイドルとの邂逅のようなものなのやもしれない。
やがて、コナンが新刊の頁を4回めくる頃、軽食が運ばれ、2人の注文していた品は全て揃った。切りの良いところで特典として付属していた栞を挟むと、2人でいただきますを言う。

「随分難しい本読むんだね。私がコナン君くらいの頃は児童書読んでたよ」

ホットサンドに手を付けながらなまえが言った。

「お姉さんはミステリ読まないの?」
「高学年の頃にシャーロック・ホームズと三毛猫ホームズ読んだくらいかな」
「へぇー! どの話? ボク、ホームズ好きなんだ!」

架空のキャラクターとはいえど敬愛してやまない人物の名前が彼女の口から上がったことで、コナンは途端に声色を華やかなものに変えた。なまえは、名前も“コナン”だもんね、と目元を緩めた後、うーんと……と首を傾げて、思い出のタイトルを捻り出す。

「記憶に残ってるのは、花婿失踪事件……だったかな」
「3作目だね」
「短編集だったから他にも何個か読んだはずだけど、昔のことだから忘れちゃった。……そういえば、コナン君の苗字って江戸川だったよね。江戸川乱歩は読むの?」
「家にあったから有名なミステリは大体読んでるよ。江戸川乱歩も全集があったから読んでる。勿論三毛猫ホームズも。……一番好きなのはホームズだけどね!」
「私、江戸川乱歩は結構好きかな。ミステリっていうより、怪奇小説にあたる話の方を読んでたけど……。目羅博士とか」
「『目羅博士の不可思議な犯罪』? 鏡を使ったトリックで、自分の真似をさせて殺しちゃうんだよね」
「そうそれ。あれが一番好きだなぁ」

文学談義をスパイスにすると食事は驚くほど軽快に進んだ。

「そうだ、私近いうちに探偵事務所に行くつもりだったんだよ。コナン君に渡したいものがあって。ちょうどいいから今見せちゃうね」

そう言うとなまえは鞄を漁り、犬柄の半透明なチケットホルダーから二枚の紙片を抜き取り、それをつい、とコナン側のテーブルに差し出した。

「これだよ。上野でやってる英国文化展のチケット! コナン君ホームズ好きなんだよね? 英文化っていう広めの括りの展示だけど、シャーロック・ホームズとコナン・ドイルは看板だから大きめの展示があるんだって。他にもアガサ・クリスティやルイス・キャロルもいるよ。ペアチケットで貰ったから蘭さんとかと行ってきたらどうかな」
「わー! すっげー! ありがとう、お姉さん! これボクも興味あったんだ!」

敢えて幼くかわいらしく振る舞うコナンが、年頃の少年らしく砕けた物言いをするのは大抵素の滲んでいるときだ。江戸川コナンとしてだけでなく、工藤新一としても心から舞い上がっている彼は二枚組のチケットを前に眼鏡の奥の双眸を輝かせた。怜悧に状況を見極める2つのまなこが、今は年相応に喜びを灯している。しかし開催期間の日付を目にした時、その表情にすっと影が差した。

「あ……これ、来週までなんだ」
「もう予定埋まってる?」
「ううん、ボクは大丈夫なんだけど、蘭姉ちゃんが今週末も来週末も部活の予定で……小五郎のおじさんは今週は金曜日に飲みにいくって言ってたし、来週は土日に大きい競馬の大会があるから、言っても連れてってくれないかも……。うーん、そうなると……」

こういう時、小学生という身の上は不便だ。休日の池袋を一人でうろついておきながら補導の心配するのもいかがなものだという話だが、しかし馴染みやすい街中なら保護者が近くにいるのだと勝手に認識して貰いやすく、声をかけられることもあまりないが、博物館という公的な施設で子供が一人でチケットを切っていれば印象にも残るだろう。昆虫や化石の展示ならばいざしらず、英文化展の客層は相当高いと見受けられる。他の客が親切心で「あの子ずっと一人なんですよ」とスタッフに告げ口でもされようものならコナンも立派な迷子の児童だ。

「……他に連れてってくれそうな人、いる?」
「いるにはいるけど、その人と一緒に出かけるときは同級生の奴らも一緒のことが多いから、チケットの枚数的にちょっとね。あいつらに自分が行けない展示の話が伝わるのは悪いし」

コナンがひとつの当てとして思い浮かべているのは阿笠博士で、チケットが足りなくなる要因となりそうな懸念として浮かべているのは少年探偵団の面々である。常日頃から我先にと事件の渦中に飛び込んでいくコナンに対し、仲間はずれなんて酷い、ずるい、と口を尖らせる彼らのことだ、無邪気な子供の眼鏡にはかなわない展示だとしても、同行者の枠から弾かれるのは不満だろう。
まあ、一旦博士に聞いてみっか――と阿笠への連絡を帰宅後の予定に加えようとした時、意外にもなまえが提案を持ちかけてきた。

「……じゃあおばさんと行く?」
「えっ、いいの?」
「毛利さん達がいいって言ってくれたらにはなるけど……。こういうのは好きなら行かなきゃ」

元のチケットの所有者はなまえだ。彼女自身に同行して貰う方が後腐れもない。
荷物を持って貰ったことも、軽食を馳走になったことも、されているのは年下に対する扱いに違いはないのだが、どれも極端な子供扱いではなく、その気遣いや優しさに悪い気はしなかった。相手がコナンではなく、蘭や新一だったとしても同じことをするのだろうと想像できる。子供扱いではなく、強いて言うならば若者扱い。それがどこか心地よい。

「……あ。ねぇ、なまえさん、これ小学生無料って書いてるよ」
「え? ほんとだ! やだ、気づかなかった……。ってことは毛利さんと蘭さんとコナン君でちょうどいい感じだったんだね」
「もう一人誘えるね」
「そうだね、どうしよう」

――っつーことは……? なんだ、じゃあ探偵団の奴らも誘えたのか。しかも入場料無料。……まぁ、あいつらには退屈だと思うけど。灰原はともかくとして。せっかくだし、偶には大人の時間ってやつを満喫するのいいかもな……。

「ボク、シャーロキアンの知り合いがいるんだ。連れてきてもいい?」
「いいよ。楽しみだね。私アリスとかヴィクトリア朝好きなんだ」
「ホームズとも時代近いよね」

もうひとりの同行者とは言わずもがな、工藤家に身を潜めている大学院生の沖矢昴だ。ホームズの国の遺伝子を少しだけ躰に流し、英国で生まれ育った彼ならば話に花も咲くだろう。
早速コナンとなまえとで予定をすり合わせる。互いの日程を確認しあい、候補となる日をピックアップして、それをチケットの件と合わせて沖矢の端末に送っておいた。

「ごめん、私、お手洗い言ってくるね」
「うん、いってらっしゃい」

場を離れる言い訳として、お決まりの文句として定着するほど「ボクちょっとトイレ」を使っているコナンは、他人が化粧室に向かうところを見送るのは新鮮だと思った。
ストローで珈琲のグラスをかき回し、氷の触れ合う音を奏でる。ポアロには劣るな、などと胸の裡で批評しながら喉を潤し、本の続きに手を伸ばした――刹那。
ガタンッ! という音と共に、離れた座席の椅子が真横に倒れ、そこに座っていた男性が床に転がる。

「――お客様!? 大丈夫ですか!?」

店員の声がフロアに響き渡る。
苦しげに喉元を抑え、白目を剥いた男性は、獣じみた呻きをあげながら暫く藻掻いた後、動かなくなった。
本を放り出して駆け寄ったコナンは、すぐに倒れた男の状態を確認すると、おろおろと抱き起こそうとする店員に向けて凛と咆哮する。

「触っちゃ駄目だ! 今すぐ警察と救急車を呼んで!」


2023/07/25
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