比翼のアルビノ

35.標本として生まれていたらきっとうつくしくなれたと思う

黒曜の色の短髪に、陽光のあたたかさを宿した小麦色の肌の男は、安室という偽名で借りている古びたアパートの一室の鍵を回す。存在しない人物の名義で契約しているその部屋は、彼が某世界的犯罪組織の情報屋として使うことの多い部屋で、中には組織の連中に探られても困らない程度の水と固形の食品、着替えしか置かれていない。
彼は部屋に入るなり洗面所に向かうと、水道の蛇口を捻り、水の流れる洗面台に自身の頭を突っ込んだ。躊躇なく自らの頭髪を水に晒せば、水道水は髪の隙間を通る際に煤でも溶かしたかのようなどす黒い水に変貌し、排水口へと逃げていく。男のいっそつくりものめいて見える黒曜石の髪は、偽の色だった。流しの横に佇んでいる黒染めスプレーで一時的に色彩を誤魔化していたのだ。日本人離れした彼の髪色は人目を引く上、印象にも残りやすいために。

――黒染めしたのは中学で頭髪検査に引っかかって以来だな……。

雨上がりの稲穂のような、陽を集めて光り輝く雫を纏ったシャンパンブロンド。本来の色彩を取り戻した鏡の中の己を少しの間見つめ、降谷零は黄昏れの笑みを口元に湛えた。
まだ中身の残っているスプレー缶を手に取ると、数ヶ月前からそこに佇んでいる古い歯ブラシと一緒に捨てる。用済みだ。これを使った調査は、今日で概ね片付いたために。
公安警察官としての仕事でも、悪の組織の幹部としての仕事でも、喫茶店勤務の私立探偵としての仕事でもない。降谷零という一人の男として、私情だけを燃料に動いていた。
用意の少ないハンドタオルで水を被った頭を拭いつつ、降谷は部屋の窓辺へと足を運ぶ。ブラインドで締め切られている窓の前に立ち、スラットという細長い帯の隙間に指を差し込み、外の様子を伺った。禄に掃除をしていない室内は埃と塵がそこかしこで舞い踊っている状態であり、ブラインドのスリッドから招かれた西日によってそれらがダンスする様が薄暗がりに描き出された。

――あの少年はいない、か。どうやら蒔けたらしい。

少年、江戸川コナンの眼鏡の奥の怜悧な瞳を思い浮かべる。
降谷が都内の或る建設現場で“私的な調査”を行っていた折、間が悪いことに偶然にもその場に少年の影が差したのだ。調査対象の肩越しに目があった時、髪色を変えて帽子を目深に被っていたためにすぐに自分が降谷もとい安室であると看破されることはなかったが、このアパートまでの道のりで背後に自分を追跡する影を知覚していた。まず間違いなく少年だろう。何しろ例の調査対象は取るに足らない一般人であり、降谷が奴を探っていることは気取られていない。
少年は降谷の命を脅かすような脅威ではないが、探りたがりな性分とそれを実現できるだけの頭脳と行動力は、降谷の秘密を幾つも一方的に暴いてきた。脅威ではないが、怖い男だ――それが降谷の江戸川コナンに対する評価である。

――それにこれは、君の両分じゃあない。

重ねにはなるが、降谷はいま私情で動いており、これは完全なる私用なのだ。最も、小さな名探偵は組織か公安の仕事だと信じて疑わないようだが。
15年前。降谷とその妻、そして他界した親友の諸伏景光が中学2年生だった頃。妻に性的暴行を加えた教師は、既に刑期を終えて表社会に解き放たれている。
元教師は現在都内の築数十年、風呂なしの安いアパートを借りて暮らしており、教員免許を剥奪されたために日雇いのアルバイトでなんとか食い繋ぐ、落ちぶれた生活だった。
元受刑者の就労環境は劣悪を極めている。足元を見られ、実質的に最低賃金を下回る仕事以外に選択肢がない人間は砂利の数ほどもいるだろう。元教師もそのうちの一人で、中卒の人間と変わらない手取り15万程度の収入で、娯楽もなく、なんとか日々を生き延びている。一度は犯罪に手を染めたとはいえ、法的には禊を終えている人間たちだ、改善は急がれるべきだろうが、なまえを傷つけた相手がそれ相応の身分に身をやつしている現実は、少しだけ降谷の胸を爽やかにした。
中学時代の降谷は、彼と教師と生徒として頻繁に顔を合わせていたため、同じ勤め先に勤務して動向を観察するに当たり、髪色を変えたという次第である。潜入の結果、勤務態度も特別悪いということはなく、同僚や雇用主の評判も悪くはない。正しく更生したと表現するに値する元受刑者だった。
元教師の情報を周囲から収集し、降谷は今日、ついに本人に接触を試みた。

「こんにちは。先日から入った利本です。昼、ご一緒してもいいですか? 場所がなくて……」

利元はこの仕事のために適当に誂えた偽名だ。調査が完了次第、蒸発することを見越して、探偵としてそこそこ知れている安室の名前を使うことは控えた。

「あ、ああ……」

日陰でコンビニ弁当をつついていた男は、人好きのする笑顔の降谷がエナジードリンクを片手に近寄ると、脚を寄せてスペースを分けてくれる。つなぎを着込んだ長い脚を地べたに折り、座った降谷はにこやかに世間話を振る。

「僕、昔は結構やんちゃしてたんですよね。それで色んな人に迷惑をかけて。だから職を選ぶにも幅がなくて……それでこの仕事に就いたんです。あなたは以前は何を?」
「あー……いや、大したことじゃないよ」

――大したことじゃない、ね。

人の人生に泥を塗っておいて、自分の罪を小さく見積もるものだ。笑顔の裏で降谷は憤った。
彼とてわかっている。犯罪歴をそう安々と明かせば生活が脅かされかねない。過去を伏せるためのただの誤魔化しだという線は濃厚だ。しかし妻の人生を踏み躙った相手を公平に見ることは難しい。
男が共鳴し、口を滑らせることに賭けて、降谷はでっちあげの若かりし頃の失敗談を滔々と語ってみたが、結局彼は頷くばかりで自身の過去を詳らかにはしなかった。それが犯罪歴という汚名をひた隠しにするための沈黙なのか、罪の意識に起因するものなのか、判別しかねた。
そして降谷は、煮えきらない態度の男の肩越しに、あの少年の姿を見つけてしまう――。
それが事の経緯だ。



数日後、夕刻の喫茶ポアロ。昼時のラッシュも過ぎ去り、空席の目立つようになった店内にはアフタヌーンティーを優雅に楽しめる身分の老人と、ラップトップを広げて仕事に励む社会人……そしてカウンター席にて課題に手をつける小学生の少年だけだった。小学生らしからぬ知識量を誇る少年がおとなびているのは、頭脳だけにとどまらず、味覚もであるようで、彼の手元には入店するなり迷わず注文したアイスコーヒーがコースターの上で汗をかいている。
ポアロの上の探偵事務所にて世話になっている江戸川コナン少年は、普段食事を用意してくれる蘭の都合がつかず、彼女の手が夕食にまで回らない折には、小遣いを握らされて下の喫茶店で済ませるように言いつけられることがままあった。今日もそんな日で、夕餉には早い時間から来店し、空腹を覚えるまでコーヒーと共に宿題を熟している。勉強をするにもただの孤独な沈黙よりも、食器の擦れる音色や人々の息遣いが聞こえる喫茶店の沈黙の方が心地よい。
それにここには彼がいる――私立探偵、安室透。シフトはまばらで滅多に顔を見かけない店員だが、運良く出勤日とかち合えば、何かしら話が聞けるだろう。コナンが気になる仕事の話や、人好きのする笑顔の裏の顔の話は、尋ねたところで煙に巻かれてはぐらかされるが、言動の節々に散りばめられた違和から何か探り当てられる可能性に賭けている。
そして単純に、聡明な少年は聡明な大人と話をするのが好きだった。コナンとしての友人は灰原哀を除けば皆去年まで幼稚園に通っていた児童であるし、本来の姿の友人の中にも彼と対等に渡り合える頭脳の持ち主はそうそういない。気の合う浪花の高校生探偵では西と東で距離が遠すぎる。向こうは頻繁に東京まで足を運んでくるが。
安室はコナンに疑念や保護者としての眼を向けることこそあれ、対等に扱ってくれる。しがない小学生を買いかぶり過ぎだとも言えるが。

「あれ、コナン君。来てたのかい」
「安室さん」

店のバックヤードから出てきた安室は、後ろ手にエプロンの紐を結んでいる途中だった。

「宿題? 偉いね」

カウンター席の上に畳んだばかりの計算ドリルに安室の視線が向く。

「そうしていると君も普通の小学生なんだなぁって実感するよ」
「ボクはいつだって普通の小学生だよ」
「そうだね。小学生で、探偵だ。あ、コーヒーのおかわりいる?」
「うん、いる。あ、ねぇ、蘭姉ちゃんに夜もポアロで済ませてって言われてるんだ。それまで本読んでてもいい?」
「構わないよ。ちょっと待ってね……」

カウンターの奥で安室が珈琲の用意に取り掛かり始める。

「安室さん、最近忙しそうだね」
「そういえば暫く会ってなかったね。ポアロのシフトは元々少ないし……」
「じゃなくて、バイト掛け持ちしてるでしょ。工事現場」
「僕は自分の方と毛利さんのところ以外だと、ポアロでしか働いていないよ。人違いじゃないのかな。髪色や背格好が似ていると見間違うよね」
「何日か前、安室さんが工事現場で働いてたのを見たんだ。髪色が違うし、最初は流しちゃったけど、あれ安室さんだったよね。工事現場の仕事で見た目にとやかく言われることってないと思うし、黒染めは変装のため? っていうことは探偵のお仕事なの? ねぇ、ボクに教えて! 手伝えることもあるかもしれないよ」
「その人、黒髪だったのに見間違えたの? よほど顔が似ていたのかな」
「聞こうと思ってそのあと尾行したんだけど撒かれちゃうんだもん。さすがだね」
「誰かにストーキングされた覚えはないんだけどな。知らない人をつけたら駄目じゃないか、犯罪だよ」

あくまでも覚えがないというていを貫く安室は、子犬でも嗜めるように迫力のない声で言う。言っても聞かないだろうけれど、と頭の片隅で理解しながら。

「ねぇ、その日もボク、ポアロで安室さんが働いているのを見たんだけど、シャツの首の後ろのところに黒いものがついてたんだ。使ったのはスプレー?」

――小狡いことするな、コナン君。
黒染めスプレーが衣類に付着している可能性を加味して、安室はあの日、コナンの追尾を撒いたあとに一度着替えている。つまり、この少年は幼気な顔をしながらも立派に安室にかまをかけているのだ。

「君ね……そのかまかけで口を滑らせるのは素人くらいだよ」
「えへへー……」

事件現場をうろちょろとして毛利に叱られた時と同じ笑顔で、コナンはごめんなさぁいと人畜無害な子供を演じた。安室はシンクに嘆息を転がす。
安室が口を割るまで追及の手を緩める気配のない名探偵に、誤魔化すよりは誠実に理由を伝えて口止めをした方が賢明だと判断する。
探偵業や潜入捜査の一貫ではないのだから秘匿義務はなく、某組織の幹部としての活動でもない以上開示しても彼に危険が及ぶことはまずない。しかし一人の人間の名誉のかかった話であり、いかな殺人現場に出入りしているコナンといえど、小学生の耳に入れるには汚れた話だ。ついでに安室という虚構の人間には存在しない配偶者の影がちらつく話でもある。明かせる情報も断片的にはなってしまうが。

「これ以上追求されても……それこそ毎日尾行なんかされたら堪らないから一応教えておくけれど、あの男性の監視は僕の本来の職務とは関係ないよ。ただの私用。だからこれ以上付き合ってもコナン君が望む情報は得られない。さ、この話は終わりだ」

簡潔に切り上げて食器の洗浄に移ろう安室だったが、コナンは中々引かない。

「仕事でもないのに監視するの? それこそボクが安室さんにした尾行みたいに犯罪だと思うんだけど」
「コナン君、話は終わりだと言ったよね?」
「プライベートなことなら教えてくれてもいいんじゃない? ボク、安室さんの私生活知りたいなー」
「そうだね、最近は家庭菜園にハマっているよ。朝は和食が多くて、洋食でも香り付けには日本酒を使うのが好きだな」
「そういうことじゃないんだけど。わかってる癖に」

入道雲のような泡が皿やグラスを覆い隠していく。肌触りのいいきめ細やかな泡で、油やソースの残骸を飲み込み、水に晒してシンクに押し流す。
憎しみは、耐えない炎。尽きない火薬。終わらない夢。幸せは、痩せた大地にようやく発芽した幽かな緑。
本当の名前で生きた半生と、人並みに抱える誰かへの嫌悪が、砂糖を塗りたくった甘い笑顔の裏にはある。誰にでもいい顔をする安室透も、人知れず汗をかいているし、人知れず誰かを憎んでいる。

「……――子供の聞く話じゃあない……」

そんなつぶやきを、排水溝に吸われる泡の上に乗せた。
コナンの視線がこちらに向く。その気配を感じ取る。

「……安室さん?」
「さっきの話だけどね、話せない一番の理由は、子供の聞く話じゃあないからさ。わかったら勘ぐらないこと」
「安室さ――」
「アイスコーヒー、おまちどうさま」

コトン、とコースターの上に置かれる冷えたグラスが、コナンが言葉を発する機会を奪った。安室の目論見に従って大人しく口を塞がれていてやろうとストローに口を重ねる。
緩やかな客足の店内で安室が時折接客する気配を背中や耳で感じながら、コナンは読書に勤しんだ。


2023/07/24
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