比翼のアルビノ

33.あなたでは硬度が足りないみたい

亡き赤井秀一が、置き土産として浮世に残した、数々の緋色の断片を拾う調査の道のり。僕の調べは、杯戸中央病院から忽然と姿を消した患者、楠田陸道の足取りを追うことに集約されつつあった。
アナウンサーの水無伶奈が入院してたと噂になったり、怪我人や食中毒を訴える患者が押し寄せてパニックになったり、爆弾騒ぎがあったり、となにかといわくの多い病院である杯戸中央病院。高木刑事の証言によれば、その爆弾騒ぎの数日前に病院付近で破損車両が見つかっており、所有者は病院に対して組織がスパイとして送り込んでいた楠田陸道だった。
組織の末端で、コードネームも未所持である楠田陸道は、当然とも言えるが大きな仕事を任されたことはほとんどなく、警視庁の凶悪犯が名を連ねる闇の名簿の中にも、彼の指紋やDNAは登録されていなかった。社会の裏から大仕事を任されていなかったこと、表から警戒すべき悪として認識されていなかったことが掴めれば、また一歩、生きた人間を幽霊になったと誤認させる方法へと肉薄する。

――つ、疲れていらっしゃったんですね……缶コーヒーを落とすなんて……。――っていうか襲撃って……?

――この病院の患者だったそうですけど……急に姿をくらましたらしくて……。謎の多い事件でね……その破損車両の車内に大量の血が飛び散っていて……1mmにも満たない血痕もあって……鑑識さんが言うには……。

――楠田って男……あなたが予想していた通り……拳銃自殺したそうよ……。自分の車の中でね……。

集めたパズルのピースが或る男の、憎らしい緋色の影を真相として浮かび上がらせていく。



「ミステリーはお好きですか?」

工藤邸のインターフォンに指を添えるとともに、静かに戦いの火蓋を切って落とした僕は、沖矢昴の細い目を前に静かに問いかける。まあ、単純な死体すり替えトリックですけどね……と、続けつつ、ティーカップとポットを乗せたトレーを運ぶ大学院生をソファの上から挑発的に仰いだ。それは、宣戦の布告だった。

「ホォ――……ミステリーの定番ですね……」

言葉の球を弾き返し、ラリーを繋いだ沖矢昴は、これを受諾した。開戦の狼煙は、双方の狭間で厳かに舞い上がる。
謎解きを始めよう。赤井秀一は、舞台俳優さながらに小道具を駆使し、自らをキールに撃ち殺され、殉職したことに仕立て上げた。そしてその直前に拳銃自殺を図った楠田陸道という男の遺体から、その“楠田陸道”という名前を剥ぎ取り、代わりに“赤井秀一”の名前を与えた。
どんな犯罪者にも愛してくれる家族がいて、友がいる。だがしかし、楠田の遺体の利用に瀕して遺族への説明は、調べうる限りでは無かったと結論づけるのが妥当だ。
江戸川コナン君。全てがあの子の画策なのだとしたら。
――君は一体、何者なんだい。
僕は何度あの眼鏡の奥の双眸にその疑問を投げかけてきただろう。松田と萩原を葬った爆弾を解体したとき、少年探偵団を手足のように操り銀行強盗犯の一味を追い詰めたとき、米花百貨店の爆弾騒ぎの真相を看破したとき。そして、安室として出会ってからの幾つもの事件の渦中にて、彼の頭脳を目の当たりにし、幾度となく痺れた。
あの少年は、本当に恐ろしい男だ。そして赤井、共犯者として少年にまで手を汚させたお前の心の冷たさも、恐ろしい。

「目先の事に囚われて……狩るべき相手を見誤らないで頂きたい……。君は、敵に回したくない男の1人なんでね……」

数年ぶりに聞いたあの男の言葉――肉声ではなかった――が、耳の奥に反響する。

――いいや、僕は狩る相手を見誤ってなどいないさ。

いかな潜入捜査官といえど、潜入だけが仕事ではない。某組織への潜入は、公安警察に課せられた日本の安全と秩序の維持という大きな使命の花の、花びらのひとひらに過ぎない。遺体損壊を成し、あまつさえそれを小学生に幇助させた男を取り締まることは、警察の仕事からなんら逸脱していないのだ。楠田の遺体を赤井として燃やし、偽装を成立させたくらいだ、楠田の車両や入院していた病室に残留する彼の指紋は拭き取られていたと見てまず間違いない。死亡偽装の成功というたったひとつの事象から垣間見える、その裏の丹念な犯行の隠蔽と工作。加えて、(毛利さんを守るためだったとはいえ)ジンへのスナイプに、今晩の来葉峠での発砲……。ビュロウの肩書を盾に鮮やかに罪を重ねていく彼は、僕ら公安が粛清の牙を剥く対象だ。
管轄が違う、と叱られるのならそれまでだが、だとしても楠田の遺体損壊の件はどの道公安の預かりになる可能性が高い。赤井が過去に潜入していたのも、楠田の背後にいるのも某組織で、その組織からはバーボン、ひいては僕、降谷零に繋がってしまう。一介の警察官に僕の身の上に繋がる仕事を上が回すはずもなく、僕が独断で動いた事への咎めは最低限だろう。
断罪の選択肢のひとつとして、無論、奴の身柄を裏切り者として組織へ引き渡す、という択もあった。公益と私情をどちらも均衡して満たせる、冴えた復讐だったのだ。

「それと……彼の事は今でも悪かったと思っている……」

電話口の赤井の、この切り際の一言は僕の神経を逆なでするには充分だった。
俺の友人を拳銃自殺させておきながら、お前は拳銃自殺の遺体を利己的に利用するのか。それはお前がして良い冒涜ではない。
それに幼い少年に共犯者の烙印を躊躇なく押してしまえるほどの男だ、どんな手を使ってでもスコッチを生き長らえさせる事とて出来たのでは無いか。だというのにあのときそれをしなかった。してくれなかった。
やはり僕の見立てに狂いはなかった。赤井秀一は、あんな真夜中の寂しい峠で心臓を撃ち抜かれるような軟弱者ではなかったのだ。僕の称賛に値する男だった。滝壺から黄泉帰る探偵のように、華麗に生還してみせた。そんな男なら、スコッチを助けられたはずなのに。そうに違いないのに。
赤井秀一への嫌悪と憎悪と評価のその先に、一人の人間の肩には重たいほどの大きな期待があって、そして、それを裏切られたことで、また嫌悪と憎悪が加速する。しかし彼が動けば動くほどに僕の評価に値する成果は叩けば出る埃のようにほろほろと零れ落ちてきて。
ヒロの死が、ただそれだけが、完全無欠の狙撃手の都合のいい悲劇的な失敗だったとでも言うのか。僕はどうすればいい。

「我々の正体を知られた以上、これ以上の深追いは危険……。撤収してください……。上には僕の方から話しますので……」

部下にはそう冷静に告げ、あの男の復活劇は幕引きと相成ったが、心の裡の舞台袖では歯ぎしりを続けていた。



なまえの前では、僕は幾つもの言えない言葉を後ろ手に背の裏に隠して、それでも幼馴染として、夫として、嘘ではない笑顔をぶら下げている。懐に忍ばせた拳銃そのものの如き、鋭く怪しく危険な秘密を手品のように袖や彼女の死角に秘め、数少ない明かせる真実を口にして、他愛もない話をする。
それでも今夜は緋色の騒動に身を浸していたこともあり、沈黙を守ることがやや歯痒く感じる夜だった。

「零君、今帰り? 一緒だね。おかえり」

自宅のアパートのすぐ前で、ばったり僕はなまえと鉢合わせた。僕がヒロを巡る宿敵と拳を交えない争いを繰り広げていたことなどは露ほども知らない彼女は、平素と変わらず穏やかにただ夜の中に佇んでいる。

「……ただいま。それから君もおかえり。残業だったのか?」
「ちょっとね。零君、どうかしたの? 疲れちゃった?」
「まぁ、少し。ずっと調べていたことが一段落ついてね」
「そうなんだ。よかったね。早く入ろう?」

赤井秀一の名に心当たりもない彼女。バーボンにもスコッチにもライにも酒の名称以上の意味を見出だせない彼女。ヒロの本当の死因を一生知る由もない彼女。
つき慣れた嘘で、隠し慣れた秘密だ。いまさら秘事を難しがることもないが、それでも笑みを称える唇の裏で、どうしようもなく歯茎が疼く。
今夜僕は、賭けに負けた。一世一代の大勝負で、赤井に出し抜かれた。
こつこつとアパートの通路を歩んでいく彼女の背中、服の中に仕舞われたなだらかな臀部の曲線に視線が釘付けになる。
嗚呼、抱きたい。今すぐに、むちゃくちゃに掻き抱いて、行き場のない逃走の熱から性に逃げたい。


2023/08/19
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