比翼のアルビノ

31.とうとう透明のひと、とうに透明のひと

半ば私情で赤井の死の真相に迫るその一方、失踪したシェリーの行方を探るべく、僕は毛利小五郎への接近を狙っていた。手がかかりとして毛利探偵に白羽の矢が立ったのは、キールに仕掛けられていた盗聴器と発信機の一件である。彼女の靴の裏に付着していたそれら……仕掛ける機会を持つ人間として、直前に水無伶奈から相談を受けており、彼女の自宅に招かれた毛利小五郎の名が浮上したのだ。
結局、毛利小五郎への疑いは晴れ、赤井の介入もあって退却を余儀なくされたジン一行によって、彼の命は散らされずに済んだのだが――当時まだ正真正銘この世の人間であった赤井秀一は、憎たらしいことに700ヤード先のビルからジンを狙撃し、その頬骨を抉ったと聞いている――。綺麗に疑いが晴れたのではなく、曖昧に濁された側面も孕んでいたことから、ジンはまだ毛利小五郎を完全な白だとは思っていない。
さて、一見すれば繋がりなどないかのように思えるシェリーと毛利小五郎だが、ジンはこのとき、毛利小五郎が仕掛けた盗聴器と発信機が、以前シェリーが使ったそれらと型が似通っている、と零していたらしいのだ。爆弾には作成した人間の個性が、贋作には贋作家の自己顕示欲が、推理には捜査官の思考の癖が滲むもの。発明品に科学者の美学や型が表れるという考え方も、道理からは外れた話じゃあない。僕はシェリーの行方を掴むにあたり、まずは毛利小五郎と彼女の接点の有無を突き止める必要があると考えた。
まずは警視庁のデータベースから毛利小五郎の経歴を洗う。そして折を見て、探り屋バーボンの表の顔、私立探偵の安室透として師事するなりして接近する。そんな策を練っていた僕だが、世間に“眠りの小五郎”の異名を轟かせる名探偵の情報を紐解いていくうちに、この柔道と射撃の達人とされる元刑事に、過去の記憶の扉をくすぐられていた。

――上には上がいる事を覚えておけ! 貴様らの先輩に最初の試射で満点! つまり20発全弾ド真ん中に的中させた天才がいるからな!
――今は刑事を辞めて……米花町に探偵事務所を構えているそうだ……。

まさかとは思うが、警察学校時代に鬼塚教官の口にしていた僕以上の拳銃の名手は、毛利小五郎なのか。

「まさか“先輩”とお近づきになれるとは。随分と運命的じゃないか」

僕は資料の頁をめくる。担当した事件、調査に臨む際のスタイル、そして彼が警察を辞めるきっかけの、まさしく転機となる事件。
刑事時代の毛利小五郎は、当時抱えていた殺人事件の被疑者、村上丈という男の取調べ中、所轄署内で彼の逃走を許してしまう。そして村上はその日偶然毛利の着替えを届けに来ていた毛利の妻で弁護士の妃英理を人質とした。村上に対して拳銃を撃った毛利だが、その弾丸は妃英理の脚を掠めてしまう。

「人質……、脚……。なるほどな……」

当時をよく知る彼と同年代の先輩刑事にそれとなく探りを入れてみたところ、刑事時代の毛利小五郎は警視庁でも一位、二位を争うほどの射撃の腕を持つ逸材で、しかしそれゆえの慢心から発砲、人質を傷つけた、という話を多く拾った。
しかし僕は、彼が人質の脚を撃ち抜いた理由を頭の片隅で嗅ぎつけていた。
これは過信でも慢心でもない。

――眠りの小五郎……大した男のようだ。

確かに直接相まみえた眠りの小五郎は、拍子抜けするほど頓珍漢で、けれども不意に目覚めたように……いや、正しくは寝入っているのだが、理路整然と事件の真相を慧眼で見通す。神がかり的な眠りに陥っていない状態の彼に対しても、僕が事あるごとに流石です毛利先生、と過剰な持ち上げるような事を口にするのも、全部が全部偽りのおべっかではないのだ。



――どうやら、一応の信頼は得られたようだけど……私との約束は守ってくれるわよね? バーボン?

信頼を得た、とはどちらの意味だろう。あの夜の一部始終を見ていたベルモットの言葉を額面通りに受け取るのなら、愛車を犠牲に身を挺して誘拐されたコナン君を救ったことで、毛利探偵事務所の面々に取り入ることに成功した、という意味だが。同時に、あの夜の行動はベルモットの信頼を勝ち取るに足るものでもあった。
あの女はどういうわけか毛利蘭さんと江戸川コナン君を贔屓目に見ており、シェリーの生死は問わないと言ってのける癖に、その2人の命だけは奪うことを許さないと僕に約束させた。
コナン君のために派手な大立ち回りで救出劇を繰り広げてみせた僕に、信頼を寄せたのは、果たして彼と暮らす毛利家の人間だけではないのではなかろうか。もしものことがあれば貴女とボスの大切な秘密をばらしますと常に銃口を突きつけている僕に、ベルモットが一定の信頼を寄せた瞬間でもあったのではないだろうか。

――えぇ、得られましたよ。ベルモット……貴女からの最低限の信頼も、ね……。

さて、王石街道での一見は、苦笑を禁じえない形で尾を引いた。コナン君と樫塚圭/浦川芹奈を人質に走行する青いスイフトを止めるため、愛車に無茶を強いて車体に車体をぶつけるという強硬手段を用いた僕は、やはりやり過ぎだったのではないかと警視庁から呼び出しを受けたのだ。現役の警察官が事情聴取とは失笑である。
そんな折、毛利先生から、コナン君を初めとする少年探偵団が子供防犯プロジェクトのパンフレットのモデルに抜擢されたこと、引率は阿笠博士で、彼の車で撮影のため警視庁に向かうことを聞かされた僕は、これ幸いにと事情聴取の日程を彼らのパンフレットの撮影日に合わせていた。噂に名高い阿笠博士にはぜひ会ってみたかったのだ。が、しかし。

「やっぱ博士風邪みてーでよ……灰原付けてビートルで家に帰らせたよ……」
「えーっ!?」
「じゃあ灰原さん抜きですか……残念です……」
「僕も残念だよ……。せっかく噂の阿笠博士に会えると思ったのにね……」
「あ、安室さん……」

庁舎を出たところで耳に入ってきたコナン君と、少年探偵団と思われる子どもたちの会話に割って入る。僕は今日此処に来た訳を手短に話し、最も、と続けた。

「まぁ、ここに来たのは別の用があったのもあるけど……」
「別の用って?」
「あ……気にしないでくれ……。もう用は無くなったから……」

そう、亡くなってしまった。
時は数分前に遡る。
僕は聴取を担当してくれた刑事に、警視庁の捜査一課に配属されていたはずの旧友について尋ねていた。

「捜査一課の伊達航刑事って今いらっしゃいます?」
「伊達航、ですか?」
「えぇ。以前、事件に巻き込まれた際にお世話になったものですから、一言お礼を言いたいのですが……」
「確認致します」

所属と名前を控えた刑事が直ちに確認してくれたのだが、伝えられたのは不在でもなんでもなく、訃報だった。

「申し訳ありません、伊達は1年前に交通事故で他界しているようでして」
「え……?」
「その、なんと申し上げて良いのか……。お悔やみ申し上げます」
「いえ、確認頂いてありがとうございます。そう、ですか……」

警察学校を出て間もなくに萩原を亡くし、その仇討ちに躍起になっていた松田も3年前の同日に殉職、数カ月後には景光もスコッチとして自決。遺された伊達班長まで――それも1年も前に。
萩原の死は僕やヒロが世間的に姿を消す以前のことで、松田の最期の事件は大規模なものであったことからセンセーショナルに取り上げられ、僕の耳にも入っていた。スコッチは死ぬ間際に決死の覚悟を決めたかのような――いや実際にそうだったのであろう――メールを僕に寄越していたし、心臓を撃ち抜いたのだって僕の目と鼻の先、運命の釦が少し掛け違えられていれば間に合うような距離だった。
伊達は、人知れず息を引き取っていた。
僕の預かり知らぬところで同期の最期の1人が命を散らしていたことがどうにも釈然とせず、僕は伊達の事故死に就いての情報を集め始める。
件の交通事故の被害者である伊達の役職こそ刑事であったが、事故そのものに特別性はなく、落とした手帳を拾おうとして、居眠り運転の車に跳ねられたという平々凡々な交通事故だ。しかし悲劇という言葉の似合う展開に転じたのは、事故のあと。警察学校入学以前から伊達と交際していた恋人のナタリー・来間も後追い自殺を図り、その彼女の両親も彼女の遺体を引き取りに来る途中で交通事故に遭い、他界している。
班長を中心に多くの人間が命を落としているとは、悲しい話だ。悲劇が波紋のように連鎖していくだなんて。

そして。伊達の訃報を告げられた日から実に1ヶ月もの時間が経過していた。墓参りに向かうことは決めていたが、それを決行できるだけのまとまった時間を捻出するまでに思いの外時間がかかり、このざまだ、と。僕は多忙な己を嘲った。
ようやくけじめをつけられるのだという晴れやかな心と、4人目の友人の死に腰を据えて向き合うことに怖気づく心を胸の裡に同居している。あれだけ待ち望んだいとまだというのに、いざ時間が手元にあるとそれを手に取ることに柄にもなくプレッシャーを感じてしまい、墓地までの移動経路を確認し終えた今も、もうひと押しを望んでいた。

◆◆◆

「墓参りに付き合ってくれないか」

或る休日、私にそんな誘いをかけてきたのは零君である。

「いいけど、誰の?」
「警察学校時代の同期だよ。君も卒業式の日に少しだけ話している」
「亡くなったの……?」
「あぁ……みんな、いなくなってしまった」

みんなって――。景光君以外にも、あの日彼に紹介された3人全員が他界したというのか。
寂しそうに笑う零君を私は慈しむように抱擁した。

「スーツ出してくるね」
「そんなこと気にするやつじゃないよ。あいつも人の墓参りにはラフな格好で来てたしね」
「そう?」
「帽子だけ忘れないでくれればいい」
「帽子?」
「変装。同じようにお参りに来た警察関係者と顔を合わせないとも限らない」
「警察にびくびくするなんて犯罪者みたいだね」

そう言うと、零君は複雑そうな顔をした。朝に着替えた服のまま、銀行強盗に巻き込まれた日に彼が買ってくれたコートとマフラーを纏うと、それに似合う帽子をクローゼットから出してきた。姿見の前で色の組み合わせを今一度確かめていると、襟元にベルトを締めた黒のジャケットを着込んだ零君が部屋に入ってくる。

「ほら、君もこれかけて。伊達眼鏡。かわいいのにしておいたから」

言いながら、彼はすっと私の耳裏に眼鏡のテンプルを挿し込んできた。どんなものかと鏡を覗き込んでみると、予め用意しておいてくれたというそれは少し前に流行った淡い金色のフレームの丸眼鏡だ。

「私まで変装する必要あるの?」
「僕だけ顔隠してると浮くだろ」

黒いニット帽とサングラス、ついでにマフラーを手にした零君は、車のキーを指に引っ掛けてくるりと回す。なるほど、と私は頷いた。
目的地である墓地は東京の郊外に位置し、最寄りの駅からもそれなりに歩かなければならないというので、彼の運転で向かうことになった。RX-7の助手席に乗り込み、最近の車種よりも騒がしいエンジン音に耳を澄ませる。車を発進させる直前、運転席の零君がふと思い出したようにこう言った。

「嗚呼、そうだ、僕のことは外では安室って呼んでくれ」
「安室零っ!?」
「……おめめきらきらのとこ悪いが下の名前は透だ」

安室透――と、どうやら彼が職務上使っているらしいその名前を復唱すると、象った舌の上に味わい慣れない響きが滲む。知っている人を知らない名前で呼ぶなんて、一人の俳優をその都度映画やドラマの役名で呼びわけるのとはまた違った違和がある。
ハンドルを握った彼は駐車場から車を出し、道路の中の流れに合流したところで、その名前に付随する情報を羅列していった。

「安室透。職業は私立探偵、自営業。副業のアルバイト先は毛利探偵事務所の下の喫茶店ポアロ。眠りの小五郎こと毛利小五郎に師事し、授業料を払いながら弟子をしている。……以上だ」
「えっ……」

私はあからさまにその名前に反応してしまった。眠りの小五郎と名高い、かの有名な名探偵の名前に。

「どうかしたか?」
「う、ううん。なんでもないよ。毛利小五郎って有名な人だからすごいなって。ね、安室さんは確定申告とかするの?」
「気にするとこそこか」
苦笑いで突っ込む零君。うまく誤魔化せたみたいだ。
「万が一知人と顔を合わせるような機会があっても、君には悪いがその時は君との関係は初対面のクライアントと説明することになる。本当なら、せめて恋人とでも紹介できたらいんだけど……君と深い仲だとばれると僕の弱点として利用される恐れがある。理解してくれ」
「わかってるよ」
「さらっと納得されるとそれはそれで寂しいな……。理解がある奥さんで助かるけど」
「私だって寂しいよー。今日だって手も繋げないんでしょ?」
「人気のない場所でなら構わない。人の気配ならすぐにわかるし、万が一見られても身辺警護で恋人のふりをしているとでも言えばいいしね」
「本当? 嬉しいな」
「じゃあ、早速。はい」

真隣の運転席から差し出された手と零君の横顔を見比べる。

「今から繋ぐの?」
「駄目か?」
「繋ぐ」

外で肩を寄せ合うことができないなら車内で、というのは確かに理に適っている。外出の目的は切なさに満ちたものだけれど、だからこそ人肌が恋しいということだってあるだろう。彼がレバーを引くときを除いて、私たちは繋いだ手を道の途中はずっと離さずにいた。



閑散とした墓地。真冬の寒々しい空に舞う香煙と、色褪せた葉叢を風が揺らす。
墓石に刻印された伊達の姓が、卒業式の日に一度だけ顔を合わせた零君の旧友の死を寡黙に物語っていた。
班長と呼ばれ、慕われていた伊達さん。大柄だが心根は優しそうで、豪快に笑う男性だったことを覚えている。彼の墓は遺族や友人が時折手を合わせに訪れているのか手入れの行き届いた様子であったけれど、周囲を見回すと正しく風化という言葉に見合うくたびれた墓石がところどころに傾いていた。
無言で手を合わせる零君を邪魔しないように、彼の視界の隅で私も静かに両手を寄り合わせた。風の音色に耳を傾けながら、数珠の感触を掌で味わう。
徐ろに、思い出を愛でるように懐古的に微笑んだ零君がポケットへと手を滑り込ませる。彼が取り出したのは。

「……爪楊枝?」
「班長のトレードマークだったから」
「お花、本当に買わなくてよかったの?」
「花って柄じゃないからね。喜ばれるとしたら桜だろうけれど、それも季節はまだ少し先だし……。供えるならこっちだ」

ころんと墓前に寂しく転がされる一本の爪楊枝。それが伊達さんのトレードマークだったというのなら、見る人が見れば彼と親しい友人や親類が墓参りに訪れてくれたことを読み説いてくれるやもしれない。名乗りを上げられない零君の残り香を、誰かが見つけてくれたらいい。伊達さんを愛していた男が此処にも一人いたことは、どこかで誰かの救いになると思うのだ。そして、この一年越しの弔いが、天国の彼の足元に誰かから想われた証として花を咲かせてくれたらと祈る。
そんな折、背後から静寂を割るようにして石畳を踏む音が響いた。

「まずい、人が来たな……。こっち来て」
「わっ」

零君に手を引かれるまま、幾つか隣の背の高い墓石の影に2人で息を潜める。

「1ヶ月遅れになっちゃいましたね……伊達さんの墓参り……」
「まぁ、高木君……凍傷とか色々やばかったもんね……」

賑やかさの似合わないこの場所に、奇しくも同日に同じ人物を訪ねる弔客が集うとは、示し合わせたような偶然だ。
零君に背後から抱き込まれ、手で口元を塞がれながら、私はあとからやってきた弔客の会話に耳を澄ませる。やってきたのは私たちと大差ない年齢の男女のカップルのようだった。零君の同期である故人の年齢を考えれば同年代の客があるのも当然だろう。

「爪楊枝……」
「そーいえば伊達さん、いつもくわえてたわね……。前に墓参りに来た誰かが気を利かせてお供えしたのね……」
「でも誰が?」

――嗚呼、見つけてくれた。彼の訪問の証。どこにも名前は残せなくても、陰ながら死者へ敬意を向ける誰かの存在を香らせて、知らせる。
ぴとりと身を寄せ合っている零君を振り返り、サングラスに隔てられたその顔を仰ぎ見ると、そろそろ行こうと目配せをされた。手を引かれながら、歩き出す。スパイにでもなった気分で、なるべく石畳の上に足音を残さないように息を詰めながら。
RX-7の助手席に戻り、ばたんと扉が閉じ切られて空間が密閉されると、私はようやく心臓を落ち着かせることができた。気配を殺し、足音を忍ばせるだなんて零君にとっては造作もない事なのだろうけれど、一般人の私としてはそうもいかない。いつあの2人の弔客に姿を見られるのではないかと胸に冷や汗をかき続けていた。
運転席の背もたれにゆったりと深く腰掛けた零君は、帽子もサングラスも取り払った素顔で、口火を切った。

「消せなかったメールがあったんだ。――やっと消せたよ」

外で木の葉が揺らめいた。凍える風の届かない車内で、零君は木枯らしのような寂しい声色にやや憑き物が落ちたような晴れやかさを滲ませ、唇に乗せる。

「さようならだ。でも、忘れない……」

彼の友よ、どうか静かに瞑って欲しい。私は祈る。

「これでもう、僕をゼロと呼んでくれる奴もいなくなってしまったな」

伏せられた淡い色素の睫毛の下、まるで暗雲に閉ざされた空のように鈍く曇る彼の双眸に、彼を追い越して私が眼から雨を降らせてしまいそうになった。

「君はいなくならないでくれ」

哀愁の声で零君は希うようにそう言った。

「ずっといるよ。だから零君も……ゼロ君も、ずっといてね」


2023/08/08
2023/08/21 修正
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