比翼のアルビノ

運命を宝石にして胸に飾るなら

※オメガバース

僕はもっと早くに帰って来られなかったことを悔やんだ。
香水瓶を割ったように、酷い雌の香りが濃霧となって立ち込めている。アプリで彼女の周期は把握していたが、立て続けに舞い込んだ急な仕事のせいでスケジューリングはずたずたに引き裂かれ、この様だ。玄関の扉を閉めるこの時点でも頭蓋骨を揺さぶられるかのような目眩に苛まれているのに、いざ彼女の部屋に入る頃には自分はどうなっているのだろう。月明かりに魅入られた人狼のように変貌しないことを祈るばかりだ。
廊下を進む足の狭間、勃起しつつある自身に顔を顰めた。
「なまえ、入るよ」
「ん……」
僕のノックと断りに対して、返事とも唸りともつかない声が聞こえてきた。ドアノブを捻ると、雌の誘惑の香りは脳天を衝くほどの強さまで高まり、もはや暴力的な気圧差にも似ている。
カーテンの締め切られた室内で、寝台の上の彼女は、洗濯物の籠から拾ったと思しき何日か前に僕が着ていたワイシャツをしわくちゃに抱きながら息を荒げていた。寂しさの余り取られた僕を求める行動に心臓がくすぐられ、そして香りによってそれはすぐに情欲へと置換されていく。いとおしさと、抱きたいという衝動の境界を崩し、同一のものへと堕落する。
ベッドに近寄った僕のつま先が、かつん、と何かを蹴り上げる。床を見ると、睡眠薬と抑制剤、ピルを初めとした常服薬、ゼリー飲料とカロリーメイトの空のパッケージがごみ箱から溢れ返り、その周辺にも散乱していた。彼女は僕の不在時には体質に合わない効きすぎる睡眠薬を逆手に取り、半日以上意識を飛ばすことでやり過ごしているらしいが、それも底を尽きて眠ることさえできないのだろう。
「きちゃ……だめ……」
やっとの思いで紡がれた、蚊の鳴くような声の制止は聞き入れず、僕はなまえの枕元に腰を下した。
「ただいま、なまえ。頑張ったな」
「れいくん、みないで……やだ……みられたくないっ」
ほろほろと涙を流す瞳とそこに宿る拒絶の意志に反して、なまえの総身が奏でる香りや気配や存在の全てが僕に抱いてくれと懇願してくるようだった。
――嗚呼、こんなに濡らして。
彼女の汗や涙を吸い過ぎて重くなった僕のシャツは、もう元の所有者が誰なのかわからないくらいにそのフェロモンで汚染されている。どれだけこれに縋ったのだろう。こんな薄い布切れ一枚に、どれだけ助けを乞い、僕の存在を重ねたのか。
慰めるように肩をさすり、僕の体温を分け与えると、彼女は身悶えをした。
「さわん、ないで……っ。やだ、きたない、わたしきたないから、やだぁ……」
「汚くないよ」
「きたないの……こんなからだ、やだ……」
汚くない、とまた言ったなら、堂々巡りの押し問答の出来上がり。
「しなくていいのか? 辛いだろう。眠剤なら僕が持ってるから、また寝てる間に楽にしてあげようか」
僕の手持ちの睡眠薬で彼女の意識を奪っている間に抱いて、昂りを夢の外で鎮めてやろうかということだ。
自身の性を過剰に厭う彼女は、時折そうやって僕に体を差し出し、慰めを乞う。絶対的な弱者であるオメガとして、確約された性と社会の強者であるアルファに征服される己を、直視しないために。乗り越えるべき障壁としてセックスを熟す。

この世の中には運命がある。遺伝子に刻み付けられた運命の相手を、浮世の誰もが皆探し求めている。
しかしこのバース社会で一般に広く使われる繁殖の相手という意味ではなく、予め定められた歴史の大きな流れという意味での運命があるとするならば、僕はそれを許さない。
――彼女の本来の第二性はベータだった。それが塗り替えられたのは、まだ中学生の頃。意地汚いアルファの男の手によって汚された彼女は、オメガ転換……即ちビッチングを余儀なくされた。
転換の条件は大きく分けて三つあり、まず一つ目に、アルファが任意のベータもしくはアルファのうなじを噛むこと。二つ目がアルファの精子を幾度も繰り返し子宮に放ち、フェロモンの焼印を押すこと。三つ目に両者共にオメガに転換したい、或いは転換させたい、と志を等しくすることだとされている。
少女だった頃、当たり前の倫理の輪から外れた汚い大人に目をつけられた彼女は、繰り返し犯されて、発覚して間もなかったバース性を捻じ曲げられた。
驚くべきことに男は三つの条件を全て満たして彼女を転換させたという。力で強制できてしまえるうなじと射精の条件はまだしも、互いに転換を望む3つ目のそれは、強姦の被害者にそれを受容させることなどできるはずがない。しかし男は度重なる性と拳の暴力で理性を奪い、転換できたらやめてやると餌を垂らし、しまいには「私はオメガになりたいですと言え」と脅迫し、無理やり口にさせたという。
全条件を満たしていたからには無論男は彼女のうなじに牙を立てていた。番として隷属させられていた彼女だったが、男の逮捕と共に強いられた関係から解放される。しかしその影響な人生に大きな波紋を広げた。
番の契りはどちらかが命を落とすまで、命ある限り続く――法的、文化的な婚姻や恋人の関係よりもずっと強い、野生的な契約は、社会的な身分や立場ではなく、脳と体を縛られる。例外的にアルファの方からは番の契約を白紙にできるという抜け穴があり、それによって彼女はあの男から逃れることができたわけではあるが、関係の白紙化にはオメガ側に夥しい負荷をかけることになる。
なにしろオメガは二度番えない。切り捨てられたオメガは以降誰とも番として結ばれることができなくなる。それでも発情期は変わらず訪れるため、孤独に自身の性と向き合っていかなければならない。
僕となまえは夫婦だったが――番ではなかった。
なまえのそのオメガ性こそが、彼女が過去に異性に踏み躙られた証で、発情は普段意識に止めずに済む第二の性を現実感を伴って浮き彫りにする。発情期の時期を外して、人間らしい、夫婦らしい営みはできても、オメガとアルファとしての交尾だけは、体がどれだけ求めてもその心が拒絶してしまう。それゆえの、睡姦だった。
「口開けてくれ」
「うん」
あ、の形に口を開いた彼女の舌の裏に錠剤を入れてやり、口移しで飲ませた水で飲み込ませる。バーボンの仕事道具である水に溶けても色がつかない非認可の睡眠薬だ。有象無象のアンダーグラウンドの住人に盛るには罪悪感など欠片もないが、彼女に使うのはできればこれっきりにしたい。あとで薬局に行かなければ。
睡魔の訪れを、彼女と話をしながら待つ。
「それ、ちょうだい」
脱いだばかりで体温を残している僕のジャケットに、震える手が伸びてきたので、握らせてやる。眼前に僕がいるのにこんなものを求めるなんてとも思ったけれど、すう、と匂いを嗅いで安堵を顔に広げる彼女を前に何も言えなくなってしまった。
「零君の番になりたい」
僕の服に顔を埋めて、叶わぬ悲願に啜り泣く彼女の髪を撫でる。指にじっとりと触れる汗さえも、僕の心を躍らせてならない。
「零君、首、噛んで……?」
「嗚呼――」
それは意味の伴わない虚な行為だ。彼女はよくこうして僕に契りの儀式の真似事をせがむ。強いていうならまじないのようなものか。望まぬ情欲の苦痛を紛らわすための解熱剤として、牙を立てて痛みを処方する。
濡れた襟足をかき分けて晒したうなじに顔を寄せる。僕を酩酊させようという魂胆で薫る色めいた香りに唾液を滲ませ、かぷり、とそこに歯を立てた。
「んっ……」
それだけで性感を得ているのか、僕の牙の下で肌が震える。
「ひ、ぁっ……! れーくん、もっと……っ。もっと、かんで、くび、かんでっ……もっと、いたく、してぇ……」
脳髄を抉られるようなどれだけ耐え難い誘惑にも耐え忍んでみせるのに。いつだって傷つけないようにそっと抱いているのに。これにばかりは僕も抗えない。決して番えないと理解しているからこそ、それを忘れるためにも強く噛みつくのだった。
自身の丸めた背中が引き攣って悲鳴をあげてもそれに勤しむ。せがまれるたび、僕は皮膚が破れるほどに歯を押し付ける。痛いだけの行為にも感じ入っている彼女は、突き立てた歯が首の骨をごりごり抉るのに合わせて、びくっ、びくっ、と腰を揺らし、息を乱す。
「ひぁうっ……! れーくんっ、およめさんにしてぇ……っ」
「もう結婚してるよ」
僕はいよいよベッドに乗り上げると、うつ伏せでうなじを晒している彼女に背後から覆いかぶさり、まぐわる獣を彷彿とさせる格好でまた牙を剥いた。
「んぁっ! あんっ、あぁっ……やぁっ! やだぁっ、それだけじゃ……やだぁ……。つがい、なりたいっ、なりたかった……っ、なりたぃ、のに、なんで……。れーくんのに、してよぉ……」
「じゃあ、僕のになってくれ……っ。いっぱい、噛むから……、んっ、君は、僕のものだ」
理性と文明が干上がりつつある部屋の中、お互い譫言のような言葉を重ねあった。体勢と嬌声にセックスをしていると錯覚させられる。
僕は枕の上で握り込まれている彼女の左手を、背後から包んだ。徐ろに撫でるのは、その薬指の根本に煌めく銀色の飾り。首輪にもならない、綺麗なだけの輪。こんなものでは物足りない。本当はもっと、脳をジェリーにされるような本能的な繋がりが欲しい。サンタクロースも持ってきてくれない卑しい繋がりが、僕らは欲しい。
「つらっ……つら、いよ……たすけて、れーくんっ。いれてっ。ごめんなさい、ほしいの、いれてくらさぃ……っ! ごめ、なさ……えっちしたいっ」
なまえが陥落した。懇願に謝罪を織り交ぜるのは、オメガと化した己の境遇への後ろめたさからだろう。
僕は硬く変質したペニスを無意識のうちになまえの腰に擦りつけており、そこから沸き起こる淡い快感で我に返った。――嗚呼、まだ駄目なのに。彼女が眠るまでは。耐えなければ。でも耐え難い。マットレスと肉体の間に挟まれて潰れている乳房を揉みしだきたい。腰のくびれを直接撫であげたい。
なまえの躰を乱暴にひっくり返すと、正面からその唇を奪った。唇をこじ開けながらパジャマの裾を引きずり出して隙間から手を突っ込み、胸を鷲掴む。感度が壊れているのか、思いやりのない手つきで乳首を摘んだだけで、彼女は絶頂に押し上げられた。
「ひゃぁんっ! んぅっ、ごえんなさっ、おめがで……っ、ふっ、あっ! ごめ、ね……っ!」
「謝るな。なまえのせいじゃない。僕のものになってくれるんだろ? 大丈夫、なまえは僕のお嫁さんで、番だよ」
なれっこないのに、そんなこと、互いの心の鎮痛のために嘘を吐いた。気休めの甘い嘘を彼女の口にねじ込むように、またキスをする。
乳腺を潰す勢いで強く胸を揉み、腰にもどこにもべたべたと荒っぽく触れていくけれど、神経そのものが性感帯に置き換わったようななまえの躰は悦んで跳ね続けた。
首筋を噛んで、噛み跡を舐めて、またそこを重ねて噛む。なれない僕らはなろうとする。諦めの悪さはいっそ滑稽だ。
ごめんね――最後にそう謝って、眠りに落ちた彼女を、僕は抱く。

もう釦を外すという簡単なことすらできなくて、僕は彼女のパジャマの前を左右に引きちぎると、残骸を屑籠に投げつけた。ショーツごと下を剥ぎ取り、くったりと昏倒する彼女を裸にすると、僕の自由にできてしまうその肢体に手を付ける。
素面の彼女ならば止めるくらいに脚をみっともない角度に広げさせれば、発情期の狐のようにくっぱりと口を広げている窪みが認められた。苛立ちを帯びた手で避妊具の封を破り捨て、ぐいぐいと膜を被せる。一応指を挿し込んでみるが、広さも湿潤の程度も充分で、慣らしは不必要と判断するや否や高ぶる己を根本までねじ込んだ――すれば、怖くなるほど速やかに奥まで辿り着く。
「んっ、はぁ……っ、きもちっ。なまえ、なまえ……!」
がつんがつんと配慮に欠けたピストンで奥を穿ち、子種を欲しがる胎の中でそれを与える。膜の中で死んでいくだけの種を植えるのは、番えないことを承知の上で首筋に歯を立てることと同じくらい空虚で、無意義だ。
一度射精すると雌の香りに狂わされていた従来の思考力が蘇り、死んだように眠る彼女を好き勝手に抱いた野蛮な己を、俯瞰的に見ることができた。熱を放って幽かに萎びた自身を挿し込んだまま、なまえの首筋をぺろりと舐めあげる。塩辛い。でも、甘い。
「なんで……番じゃないんだろうな……。僕だって、なりたいよ」
がぶ、と。僕はまた、歯先が骨に届くほど強く、牙を立てる。
無反応な彼女の躰にそうっと愛撫を施していく。働いていない聴覚に、何度と無く愛していると囁いた。
脆弱なオメガ性の人間は各種バース性の中でも抜きん出て平均寿命が短いが、番を得られないとそれは加速度的に縮まり、男女ともに30歳前後で他界する場合が多い。彼女は一度番を得てはいるが――押し付けられてはいるが――今はおらず、さらに一方的な解消に伴う負荷も背負わされている。元がベータなので例外という希望的観測を信じたいところだが、こんなときでも論理的に眼前の事実を噛み砕いてしまえる脳が楽観的な夢に酔うことを許さない。
僕も彼女も、今年でもう29だ。彼女は年々体調を崩す頻度を増やし、ヒートの都合と合わせて仕事も辞めざるを得なくなった。冷静になって触れて暴くその肉体は、少し前に抱きあった折よりもまた痩せているように思える。骨の浮く体が、命の限界を残酷なまでに描き出し、知らしめる。
俺はあの男が憎い。憎くてたまらない。
ベータのままで生きられたなら――考えなくてよかった躰の限界。厭わなくてよかった第二の性。味わわずに済んだはずのヒートの苦しみ。一方的に番わされて、それを振り解かれて。強姦魔と番わされたままがよかったなどとは口が裂けても言えないが、解消が開放を意味しているかといえば微塵もそんなことはない。
燃え尽きない憎悪を紛らわせるように、またその首筋に歯型を残せば、彼女の首は、付根も、裏も表も、僕の歯のかたちを刻んで赤らんでいた。
またいきり立ってしまったペニスにスキンを付け替え、彼女に埋まる。
「ふあっ……んあぁ……」
「んっ、ふふ、寝ながら感じてるの? かわいいな……」
なまえの喉は働き者だ。ひくついて甘く鳴く喉笛に歯を立ててやり、腰を揺らす。
香りもフェロモンも混ざり合うほど何度も抱いた。
本当は、膜なんて野暮なものは取り除いて、直接その胎に僕の精を吐き、染色体をなすりつけ、孕ませたい。僕の子供を産んで欲しい。妊娠も出産も命の灯を日に日に弱めていく女にさせることではないが、先が長くないからこそ生きた形見が欲しかった。彼女と僕の遺伝子を半分ずつ宿した命はさぞや愛らしいだろう。
繁殖を望むのはまたしても置いていかれることに怯えているからか、単にオメガの子宮を屈服させたいアルファとしての本能かも、わからずに、孕め、孕め、と呪詛のように念じている。その癖、結局、膜に吐く。


2023/08/01
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