比翼のアルビノ

30.砂吐いた宇宙の片隅で

真昼に見る蛾の翅のような不健康な白い肌に、切れ長の橄欖石の双眸、その下瞼の下に鋭く走る濃い隈。右横にふわりと流したやわくうねる前髪を、キャップの鍔の隙間から覗かせる。まるで生き写し。鏡の中の自分はあの目立つ金髪でも褐色の肌でもなく――紛れもなく、赤井秀一そのものだ。……ただし、炎上するシボレーから逃げ延びたというシナリオを装うため、本来の奴には存在しなかった火傷の痕を右の頬に捏造していたが。

「……こんなところね」

メイクブラシの筆の先で、すう、と僕の肌を払うと、ベルモットは満足そうに菫色のルージュの引かれた口元を曲げる。

「恩に着ますよ、ベルモット。流石ですね、本当にあの男そのものだ……」

感慨深く自分の偽物の顔に指を這わせていると、「あんまりべたべた触らないの。崩れるわ」とその手はベルモットに奪われた。銀幕の中の住人のような流麗な仕草で彼女が取った僕の腕にも白いファンデーションが斑なく引き伸ばされており、元の肌色の面影はない。

「その顔で赤井の関係者の周辺を練り歩き、その反応を伺い、死亡を確認する……。少なからず接触する必要がありそうだけれど、バーボン……貴方、声色は変えられたのかしら?」
「貴女のような声帯模写はできませんよ。ですが、元々無愛想な男でしたし……お仲間だってこのこれ見よがしの火傷の痕を見れば、向こうから勝手に察してくれるでしょう。例えば、炎上の事故のショックで口が聞けなくなった、とかね……」

年が明けて間もない東京は肌寒く、今日に至っては空から雪の欠片が舞い降りている。僕は鈍色の雲に閉ざされた空を睨みつけながら、鏡の中の赤井にマフラーを巻いてやった。鏡に姿を写しているだけで胸が煮え立つのを、あの男の鉄仮面を真似たポーカーフェイスの下に隠して、今一度自分の総身をあらゆる角度から確かめた。

「赤井と言えばニット帽だと思っていたけれど。意外ね、抜かりのない貴方が用意していないだなんて……」
「再現度だけを追い求めるのであればそれでもいいでしょうが……このキャップはいわば次の餌です……」
「餌?」

怪訝そうに首を傾げるベルモットに、キャップの後ろに入っている“米”の字を象ったワンポイントのロゴマークを見せつけた。

「このキャップ、米花百貨店オリジナルデザインの限定商品なんですよ。今日FBIと接触して、死亡の確認が取れればそれが一番ですが、ニアミスに終わる可能性もあります。僕としても、綻びを出さないためにも最低限の接触で済ませたいところですしね。そうなったとき――どうです? 死んだかに思われた同僚と瓜二つの男と町ですれ違い、しかし彼に撒かれてしまったFBIは、是が非でも男の行方を確かめたいでしょう。そこで、彼の身につけていたものなどの僅かな情報から二度目の接触を図ろうとする。その足がかりとして、このキャップを敢えて餌として印象づけるんです……」
「限定モデルのキャップで百貨店に誘い出し、そこを次の接触地点にする、というわけね」
「顔に火傷がある長身強面の男が購入しに来たとなれば、幾らなんでも店員の印象に残りますから……。そう踏んだFBIが聞き込みに来ることを見越して、こちらからも再びこの格好で百貨店に行けば、容易に第二のチャンスが掴めます。デートの待ち合わせの約束にしては賭けの成分が些か多いですが……たまにはゆったりと釣りを楽しむのも悪くはない……」

くつくつと喉の奥で笑う僕の横、感慨なさそうに肩を竦めるベルモットはふうと煙を吐いた。
そして変装に使ったビジネスホテルを出ると、僕は一人、雪の降る米花町へと繰り出していく――。
横断歩道を行き交う、雨傘を差した人々の波に紛れながら、自身も傘を手に彷徨い歩いてやや経った頃。想像以上に早く魚が網に引っかかった。

「ちょ……ちょっと待って……シュウ!」

僕を赤井秀一の渾名で呼んだのは、亜麻色の短髪に野暮ったい眼鏡をかけたFBI捜査官の女だった。

「シュウ!! シュウーッ!!」

やや低めで深みのあるアルトを路上に響かせ、追いかけてくるが、人の波に阻まれて、その声は僕が歩みの速度を上げるまでもなく勝手に引き剥がされていく。
町で同僚を見つけただけにしてはいっそ悲壮なまでに必死な声色だが、しかし死を確証するには至らない。長丁場になりそうだという嘆息を喉の奥に仕舞ったままにしながら、僕は女を巻いて路地裏に消えた。



その後、他の捜査官にもこの顔とキャップを印象付けておきたいと欲を出した僕は、先程一度撒いた女性捜査官が同僚と合流することに賭けて、今度は逆に彼女を尾行した。そして訪れたていと銀行にて、組織とは全く関係のない銀行強盗事件に巻き込まれることになる……。
一発の銃声からそれは始まった。銃を構えた5人の覆面の男達が天井高く銃声を轟かせたかと思うと、銀行内を外界から隔絶し、僕や女性捜査官を含む客を一箇所に集め始める。
立ち向かおうとした勇気ある一般人が腕を弾丸に撃ち抜かれ、悲鳴を上げる人々を押しのけながら床に倒れ込む。

「わかったか!? 痛い目に遭いたくなかったらさっさとしろ!」

一発の銃弾に依る損傷を軽んじる訳では無いが、撃たれた位置と出血量を鑑みるに命を脅かすほどの影響はないと判断できた。激痛に苛まれている彼には悪いが、今は自分の任務を優先し、処置は見送らせてもらう。不測の事態に陥った際のためにベルモットがどこかに控えているわけだが、裏を返せば監視の眼がどこにあるともしれないということだ。

「――大丈夫ですか!?」

努めて傍観者であろうとする僕とは裏腹に、積極的に切り込んでいくのは聞き慣れた声だった。銃声にざわめく人混みをかき分け、撃たれた男に駆け寄ったのはどんな因果かなまえで、跪いた彼女は自分の巻いていたマフラーを首から引き抜くと、それで男の二の腕の、傷のやや上をきつく縛り上げた。GPS情報から彼女がこの付近に足を運んでいることは知っていたが、まさか針に糸を通すような偶然でこの場に居合わせるとは。
彼女の止血の手捌きはとても華麗とは言えない。だが、混乱に飲まれるだけの人々よりも、傍観を決め込むだけの自分よりも、手やコートの裾を血に染めながらもいまできる最善を尽くす彼女はこの場の誰よりも立派だった。

「おい、女。勝手な事をするな」
「……っ!」

発砲した張本人が今度は彼女に対して銃口を差し向ける。行動は勇敢ではあったが、彼女は元より威圧的な男に対して臆病だ。額や心房を貫通すれば一瞬にして命を焼き切る武器を差し向けられ、竦んだ彼女は、マフラーを左右に引っ張って結び目をきつくすると、その場を離れた。

「いいか! 知り合いや連れがいたら一緒に固まるんだぞ!!」

発砲した男が四方八方に銃口を向けながら、声を張り上げる。
――知り合いや連れと一緒に……?
銀行強盗の人質に対する要求にしては珍しいそれは意識に違和の爪痕を残す。疑問を持ったのはFBI捜査官の女も同じだったらしく、僕や他の人質たちが半ば腰を抜かすようにその場に座り込む中、彼女は思案の顔で立ったままだった。

「おい! そこの外国人女! 日本語がわからねぇか!?」
「NO、少しならわかりまーす!」
「じゃあ形態出してさっさと座れ!」
「OK、OK!」

拳銃を向けられ、捜査官は米国の人間らしい大仰な動作で両手を上げる。そしてその場にぺたんと腰を下したところで、敢えて彼女の隣を陣取っていた僕にその肩が触れた。

「Oh,Sorry! ……――!」

ぶつかったことを詫びながらこちらを横目に伺う捜査官。視線がかちあった刹那、彼女との間に稲妻の如き緊張が走る。僕の顔を認めた女は信じられないもの……それこそ亡霊とでも巡り合ってしまったかのように、この国では珍しい色彩の瞳孔を皿のように見開くのだった。

「シュウなの? シュウなんでしょ? シュウだと言って!!」

女は生き別れの恋人に泣きつくような必死さで僕に詰め寄り、何度もあの男の名前を呼んだ。
千の顔と声を持つ魔女とは違い、声帯を自在に切り替えることのできない僕は無言を貫く。

「…………」
「私の事わからない? 口が利けないの?」

やはりそう解釈してくれたか。話が早い。しかしやはりこの反応、赤井秀一は本当に死んでいるのだろうか。そうと取ることが自然とさえ思える迫真の反応だが、確証を得るには明言が欲しい。
幸いにもキャップの出処である米花百貨店はこのていと銀行のすぐそば。この火傷の男の容貌を印象付け、次の邂逅に誘い出すには持って来いだ。

「コラ! 何騒いでやがる外国人女! さっさと携帯をこの袋の中に入れろ!!」
「OK、OK!」
「おい、お前もだ! 早く出せ!」
「…………」

強盗犯の要求が僕にも向けられた。燃えゆくシボレーからの脱出劇に瀕して言葉と記憶を失ってしまった赤井秀一を演じる僕は、黙殺したまま男を睨みつける。

「てめェ、ぶち殺されてェか!!」

するとせっかちな強盗犯に胸ぐらを掴み上げられ、床から臀部が浮く。目出し帽から覗く犯罪者の濁った眼から、僕は目を逸らさない。

「NO、NO! 彼は事故のショックで口が利けないんでーす! 火傷の跡、その証拠ね! 口が利けない人、電話持ってても話せないと思いまーすよ!」
「あーわかったわかった!」

流石はビュロウと言ったところか、女は機転を利かせて庇ってくれた。
拳銃を携帯した5人の強盗犯に、人質とされた大勢の一般人。その中にはなまえまでいる。事を荒立て、間違っても彼女に危害の矛先が向けられたり、暴発した銃弾で彼女が傷つくといったことは避けたいが、変装の都合上無言という制約のある僕だ。我が物顔で僕の日本を踏み荒らすFBIは、公安警察としては看過できない存在で、それこそ鬱陶しい羽虫のようで気に食わない。しかしままならないコミュニケーションが円滑になるように手を貸して貰えるのは実のところ助かっていた。

「ホラ、次はお前だ!」
「は、はい……」
「おい、この銀行の支店長はいるか!? こっちへ来い!!」
「ええっ!?」

人質の中にいたスーツ姿の中年男性が声を上げる。

「ビビるなよ! このケースにここにある金を全部詰めてもらうだけだ! 簡単だろ?」

コンコン、と強盗犯は拳銃の銃口でアタッシュケースを叩いた。
人質の群れの中からひとり立ち上がった支店長の男性が不安そうに問う。

「わ、私1人でですか?」
「ああ……お前なら金の在り処に詳しそうだしな!」腕時計を気にしながら答えた。
「よーし、次は連れや知り合いがいねー奴! その場に立て! 1人ずつこのガムテを取りに来い! こいつで連れや知り合いがいる奴らの目と口を塞ぎ、両手を後ろで縛るんだ! 赤の他人じゃねえと手加減するかもしれねえからなァ! もちろん、お前らは後で俺らが塞いでやるよ!」

成人男性の腕ほどの大きな銃を構えた男が指示を矢継ぎ早に飛ばす。
恐らく1人で銀行を訪れているなまえは、連れのある人質に拘束を施す役目を請け負うことになるはずだ。キャップの鍔の奥で眼球を転がし、店内に視線を這わせていると、後ろから声がかかった。

「あ、あの、貼らせて頂いていいですか……?」

――なまえ……。
恐ろしく耳に馴染む声音にまばたきが零れる。振り返るまでもない、僕の背後で千切ったテープを震える手で伸ばしているのは、なまえだ。
遠慮がちな彼女の問いに、こくりと頷いて答える。なまえは僕の帽子をそっと浮かせて口元と目元を塞ぎ、後ろ手に組ませた手首にもくるくるとテープを巻いていった。時折触れる彼女の手は哀れなほどに冷えて、震えている。目隠しを施される前に見た表情は恐怖に強張り、銃傷を受けた男の止血に飛び出していったためにマフラーを外された首は寒々しく、手や膝や裾には他者の血が赤黒くこびりついていた。それが彼女自身の負傷によるものではないことにつくづく安堵させられる。

「すみません……貼りますよ……」

そう言ったのは、他の人質同様にガムテープを手に、FBIの背後に立ったウェーブがかったボブの黒髪の女性だった。それに対してFBIがこの場に立ち込める緊張感の霧を切り裂くように剽軽に言う。

「Oh! その前に……トイレに行かせてくださーい! 我慢とても無理ね!」
「チッ! またこの外国人女か……。いいだろう! その代わり、目と口と手は塞がせて貰うぞ!」
「OK!」

日本での違法捜査に就いては癪だが、アメリカ合衆国の機関といえど彼女らも正義の徒。信条は違えど根本にある正義は信頼には値する。それに彼女も道化を演じているだけで愚かではない、何か策があるのだろう。僕は強盗犯の1人に連れられて化粧室へと向かう彼女を見送った。
早ければ機動隊がすでに到着している頃だ。



しかし……僕の期待は裏切られた。暫くして化粧室から舞い戻った捜査官の女は、自分の足で歩いていなかった。目を塞がれているため詳しい状況は分からないが、強かに床に叩きつけられても呻きのひとつすら漏らさない辺り、女はスタンガンかなにかで気絶させられているのだろう。

「とんだキツネだったぜ、この外国人女……」
「今、殺っちまってもいいが……銃声聞いて外の警察が突入して来たらヤベェしな……」

床に伸びるFBIに吐き捨てられた強盗犯の言葉から察するに、彼らを罠に嵌めようとして自らが嵌められたと見るべきか……。

「あ、あのー……お金用意しましたから……ケースを開けてくれませんか?」

支店長がおずおずと切り出す声がする。

「おいおいそれっぽっちかよ!? もっとデケェ金庫にたんまり入ってんじゃねえのか!? 何なら爆弾でふっ飛ばしてもいいんだぞ!!」
「ええっ!?」

男に荒々しく詰め寄られ、支店長の声は跳ね上がる。
それから男が声を潜め、何事か支店長に告げていたようだが、ここからでは聞こえない。

「よーし! 連れや知り合いがいねぇ奴ら、こっちへ来てガムテで自分の目と口を塞げ!」
「両手は俺らが縛ってやるからよ!」

恐らくなまえも今拘束を受けているはずだ。
あのFBIが行動不能にされた以上、有事の際には僕が動くしか無い――。
僕は後ろ手に自分の靴の靴紐を引き抜き、それを手首を縛っているテープの隙間にするりと通す。警察学校時代にコンビニ強盗に遭遇した際と同じ手法で、紐の摩擦を利用してテープを切った。自由になった手をそのまま後ろで組み、まだ縛られている振りをして機を伺う……。

「――――くそっ!! こーなったら金庫ごとふっ飛ばしてやる!! 野郎共、手伝え!!」

大声が響く。
続いて、人質の集められたホールに控えめな足音が幾つかと、台車を転がす音が小さく響いた。子供が2人と、40キロ程度の人間が1人の足音だ。

「おいコナン! ……」
「その上にこれを……」

潜められた声が交わる。足音の主たちは荷物を台車に乗せると、来たときとは裏腹にがらがらと乱暴に台車を転がして去っていく。
その直後だ、エレベーターの方から爆発音がしたのは。
また足音が戻ってくる。子供が4人。
しかし、この次にホールに響き渡った声は、子供ではなく銀行強盗犯のうちの1人のものだった。

「よーし、次は全員立って……俺の声がする方にゆっくりと歩いて来て貰おうか!! いいか! ゆっくりとだぞ! 前のやつにけっつまずくんじゃねぇぞ!」

視界を奪われた人質たちがぞろぞろと大名行列のように声に向かって進んでいく。

「――あんたら3人だったんだね?」

無邪気さの中に聡明さと凛々しさの伺える芯を宿した、少年の声だった。

「計画にない事を指示されて動かないのは、強盗犯本人達だけだからね!」

移動させられた人混みの中、僕は密やかに目元のテープを捲り、人影の隙間から周囲の様子を伺った。移動させられた大勢の人質と、元いた場所に残ったまま座り込んでいる3人。そして得意げな笑顔でその3人に歩を進める少年こそが先の声の主なのだろう。

――あの少年は。

キッドキラー、江戸川コナン。
そして、萩原と松田の仇の爆弾魔が東都タワーに仕掛けた爆弾を解体し、なおかつ爆弾の爆発直前に表示されるというヒントから次の爆破予定地の場所まで特定したという……。
君は一体何者なんだい――何度と無く画面の中ではにかむ彼に問いかけた。まさかこんなところで相対することになろうとは。否、彼の認識の中に僕はいないのだが。
少年の奇策で炙り出された強盗犯達がある種彼らを象徴していた目出し帽とジャケットを脱ぎ、自らに拘束と目隠しまで施している状況から、人質に成り済まして銀行を脱出する算段であったことを悟る。客を連れがいる者とひとりで来た者にわけたのも、後者から体格の似通った5人を選出し、気絶させ、彼らに脱いだ目出し帽とジャケットを着せ、身代わりに仕立て上げるため。身代わりと支店長、ついでにあのFBI捜査官を爆弾の傍に寝かせ、現金ごと爆破させれば、「強盗団が爆弾を使って金庫を開けようとしていたが、それが途中で爆発し、支店長と女性を巻き込んで爆死し、計画は失敗に終わった」と見せかけられるわけである。
となると爆破させるつもりの現金とは別に多額の金をインターネット・バンキングの口座にでも振り込ませていた可能性が高いが、マネーロンダリングの横行する昨今ならその対策も追いついている。

「よーし! まずは銀行員さんのガムテープをはがして入り口を開けてもらってくれ!」
「うん!」

少年が高らかに指示を下すのは、同年代と思しき3人の少年少女に対してだ。その手際の良さは、ストリート・チルドレンの協力者、ベイカー・ストリート・イレギュラーズを駒のようにしなやかに従えるシャーロック・ホームズのようだと思った。

「機動隊が中に入ったらこの3人と……廊下で縛られてる奴とトイレでのびてる男を……」
「――誰がのびてるって?」

刹那。がっ、と鼻血を垂らした小太りの男が眼鏡の少年を背後から取り押さえた。トイレで伸びているとは言われていたが、先の爆発で覚醒したのだろう。拘束をしていなかったのか。
男が少年の首に腕を回し、締め上げるように彼の小躯を持ち上げるので、だらりと足が浮き、その非力さに、あれだけ頼りがいのあった彼がまだほんの子供だと認識させられる。

「あの外国人女といい、この餓鬼といい……何だってんだ!? おい! そこの餓鬼共! こいつの首へし折られたくなかったら、カウンターに入って拳銃を持って来い!」
「ええ!?」
「こうなったら籠城作戦だ! 地獄の果てまで付き合ってもらうぜ?」

少年のベイカー街遊撃隊に酷い命令を出した男は不気味ににたつく。巨漢を押し付けるように少年を捕らえる男は、彼の服の裾に膨らみを見つけた。

「おっと! もう持ってんじゃねーか!」

どういうわけか拳銃が少年の腰に挿し込まれていた。なぜあの歳の子供があんなものを、とも思ったが、強盗犯をもう1人拘束していると言っていたので、そいつとこの小太りの方のどちからかから奪ったものと考えるのが妥当だろうか。
ともかく男の手に凶器が渡った今、悠長に傍観者を気取ってもいられない。銃口が江戸川コナンの後頭部に突きつけられ、空気が張り詰め、重くなる――。

「とりあえずお前は……死ねや……」

刹那、ドン、と空間を切り裂く発砲音が轟く。引き金を引いた指に伝わる衝撃、飛び出る空薬莢。赤井ではなく、僕の利き手である右手で撃たざるを得なかったことは度し難いが……。
Miss Right運命の人――赤井秀一はレフティだ。奴に扮する僕は、僕自身の利き手である右手で発砲した。

「くおっ」

肩から血潮を噴く男の腕から解放され、少年が床に足をつける。振り返り、周囲を見渡す眼鏡の奥の大人びた双眸に、僕の像が結ばれることはなかった。逃げ惑う人々が目隠しとなって。
ベルモットの宝物だという少年を、彼女との約束に従って守ったということで説明がつけられる行動だが、無論それだけじゃあない。
彼はきっと松田のことも萩原のことも、ましてや僕という人間のことなど知るはずもないが、僕にとっての彼は、旧友の仇を打ってくれた恩人だった。



各局の取材のカメラの押し寄せた銀行付近を赤井の顔のまま歩き回り、努めて痕跡を残したあと。着替えに使ったビジネスホテルでメイクを落とし、素顔に戻った僕はなまえに電話をかけた。

「無事か? 君、強盗事件に居合わせただろ」
「な、なんで知ってるの?」

僕の第一声に彼女はあからさまに戸惑っている。

「ニュースに写ってた」
「そうなの? びっくりした」

まさか他人に変装して僕もあの場に居合わせていましたとも言えまい。

「それで? 怪我は? してないのか?」
「し、してない。ひとり撃たれた人はいたんだけど……」
「ならいいんだが……」

人質となった人間のリストを部下に手配させ、満遍なく目を走らせたが、怪我の情報は拳銃で撃たれた男のものしかなかった。あの場では彼女とは他人だった僕は、遠くから彼女の無事を確認するだけで精一杯で、怪我の有無までは確かめようがなかったため、ずっと心配していたのだ。
テープと長時間接触していた手首や顔の皮膚がかぶれていてもおかしくはないが。それは帰宅後、薬を塗ってあげるとでも言って手を握る口実にでもしよう。

「じゃあ、ごめん。無事を確認したかっただけだからそろそろ切るよ。今日は帰れるから」
「ほんと? 待ってるね」
「ん。じゃあな」

短い挨拶と共に電話を切る。
帰りしな、僕は米花百貨店に立ち寄って女性物のマフラーとコートを購入した。寸法は把握しているし、直近で裸で抱き合った折にも体型に変化は見られなかった。クラウドのバックアップ同期機能を利用……というより逆手に取り、彼女の検索履歴やウェブサイトの閲覧履歴なども網羅しているので好みから逸れることもない。一応、今日の件で駄目になってしまったマフラーとコートの代わりが務まるように似たデザインのものを選んだが。
百貨店のロゴの入った紙袋を下げて帰宅した僕は、早速それを彼女に差し出す。

「買い物してきたの?」
「プレゼント。マフラー失くしたんだろう。正確には強盗に遭ったときに人にあげた、かな。あと新しいコート」
「な、なんで知ってるの?」
「ニュースの映像だよ。朝に巻いて出たマフラーを、解放された人質の中にいた君はしていなかった。代わりに、同じく映像に映り込んでいた銃で撃たれたという救急車で運ばれた男性が同じ柄のマフラーを腕に巻いていたし、事件の後にその男性と思しき人物がSNS上で『今日のていと銀行の事件で、強盗犯に撃たれたときに止血してくれた女性にお礼が言いたい』という投稿をしている。添付された写真に写っていたマフラーも君のものだ。マフラーで傷口の上できつく縛って止血したんだろう?」
「正解です……」
「コートも映像で見たときに汚れていたからな。これからクリーニングに出すにしても戻ってくるまでの替えは必要だろう」
「あんまり思い出したくないし処分しちゃおうかな……」
「それでいいんじゃないか」

服の上から肩に新品のコートを宛てがい、「似合うかな」と首を傾げる彼女に、勿論だと頷く。
タグを切ったコートとマフラーを早速彼女に着せて、2人で近所のコンビニに買い物に出かけた。


2023/08/06
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