比翼のアルビノ

29.君の心臓の最下部で息をする

彼女の知らないこと。僕がいつも彼女のその日の行動や、現在地をぴたりと当ててしまうのは、本当は推理力でも何でもないということ。
実際、素人ゆえに日々の痕跡を隠す必要のない彼女ならば、少し服装や様子を観察すればその日何をしていたのかの推測を立てることくらいは容易であるが……しかし僕がほとんどノータイムで言い当てているのは、結論を最初から知っているからに過ぎない。僕はなまえのスマートフォンに、公安特製のアプリアイコンが残らないタイプのGPSアプリと、必要に応じて起動できる盗聴、盗撮アプリを仕込んでいる。
仕事柄、警戒心が強く、疑い深くならざるを得なかった僕だが、何も幼馴染の配偶者にまで疑いの目を向けているというわけではない。これもひとえに彼女かわいさだ。
自分の過保護さは自覚した上で、僕にはそれを改める気はなかった。多忙の極まる時期には顔すら見られない日が何日、何週間と続く。そんな折、彼女のその日の行動範囲がマップ上に図解されたものを眺めたり、彼女の鼻歌や寝息を盗み聞きしたりしていると癒やされるのだ。
自宅には各部屋に一台ずつの監視カメラと、数機の盗聴器を仕込んでおり、そちらと合わせて帰れない夜に彼女の生活音に聞き耳を立てることもあった。それを材料に、仮眠室やトイレで自慰をすることさえ。

――結婚してなかったら変態だな……。

しかし止める気はない。
惜しむらくはこの手のアプリケーションは過剰に端末のバッテリーを食らうということだ。彼女の身の安全を知るためにインストールしたというのに肝心のバッテリーが出かけ先で事切れ、足取りを追えなくなるのでは本末転倒というもので。

――モバイルバッテリー、買ってやるか……。

◆◆◆

最後に自炊したのはいつだろう。昔は私の方が料理の腕も上だったのに、亡き景光君の熱心な指導と、持ち前の飲み込みの良さ、器用さを武器に、めきめきと頭角を表した零君は気がつけば料理上手になっていて、めっきり私が料理を作る機会もなくなってしまった。
零君は「気晴らしになるからやらせてほしい」と疲労を匂わせない爽やかな笑顔でいつも言い、私をキッチンに立たせない。まともな時間に終業する私が家事の大半を引き受けているけれど、いつ冷蔵庫を開けても常にそこには作り置きの料理が数十分、タッパーに小分けにされて収まっているのだ。
彼の警察学校卒業と同時に結婚して7年、零君の忙しさはとどまることを知らず、加速するばかりで、帰宅は日付を跨ぐことがほとんど、帰れない日だって珍しくはない。同居している配偶者よりも同僚や友人、離れて住んでいる親の顔を見る頻度の方が高いなんておかしな話だけれど、それが現実。
だというのに朝目を覚ますと洗濯物が片付いていたり、床がきれいになっていたり、冷蔵庫の中身が豊かになっていたり。親切な小人でも住んでいるかのように、零君が帰った痕跡がそこかしこにあり、それに寂しさが拭われて、でも顔を見れなかったことにまた新たな寂しさが滲んできて。そんな毎日。
私が寝入った後に帰って、起きる前に出勤しているのだろうけれど、帰宅後の時間を全て睡眠時間に当てても常人よりもずっと足りないのに、その上家のことまで気にかけてくれるとは。できた夫だができすぎていて怖い。
今日も私は、零君が作り置きしていってくれた朝食を食べて、残りをランチボックスに詰め込んで、朝も昼も夜も彼の料理を食べる。
ひとりきりの食卓だけれど、用意したのは全部彼だ。顔も見えないのに、私の胃を満たして、入れ替わるための新しい細胞を作り上げるのも、彼。

「ヒロ君の味に似てきたなぁ……」

零君の料理に箸をつける度、味覚に残る記憶が呼び覚まされる。

――本当に死んでしまったの?

何も残さずに幽霊のように私達の前からいなくなってしまった幼馴染。景光君の声も、ベースの音色も、料理の味も、全部が恋しい。
赤色。左利き。スマートフォンを胸ポケットに入れること。景光君の訃報があった頃から零君が厭うようになったもの。それがどう彼の死に結びつくのかは定かではないけれど、とにかく恐ろしいくらい時期が一致する。
赤色への嫌悪なんて特に酷くて、まだ嫌いなものが増えたことを知らなかった頃、臙脂色のブラウスで出かけようとしたら家を出る前にそれを引き裂かれて組み敷かれ、さらに中に着けていたのも似たような色の下着だったものだから、火に油を注ぐ形となり、昼間からしおきのように手酷く抱かれた。真紅のリボンとスワロフスキーのピアスは着けている耳朶ごと抓られて、血が出かねないほど乱暴に外されたあと粉々にされた。
「似合ってない」と何度冷たく突き刺されたことか。零君にも女性の好みというものはあるが何を着ても王子様のようにかわいいと褒めてくれるから、初めての酷い言い草に脳が凍りついたことを覚えている。

――あっ、乱暴にしないで……っ。
――どうせ捨てるんだから関係ないだろう。手持ちの赤いものも全部買い換えろ。お金は出すから。

そうして手持ちの赤色の服は捨てることを約束させられ、以来クローゼットやアクセサリーケースに赤や緋色のものはない。
とにかく乱暴にされることに怯える私は当然泣いたし、酷い、酷い、とリビングの硬い床の上で剥かれながら喚いていた。
「今日の予定はキャンセルするけど文句はないな。どうせこんなにしたら立てないだろう。髪もメイクも直す時間はないし」と言った零君にスマートフォンを取り上げられて、その日の同僚数人との外出の予定は勝手に断りを入れられた。深く挿入したまま電話をかけ初めた彼に、喘ぎ声が受話器の向こうに漏れ聞こえるのではないかと気が気でなかった。
最悪な思い出だが、後日気前よくおろしたてのブラウスと下着、ピアスを各種二つずつ贈られて許してしまったのだった。叱られた子犬のようにしゅんとする零君をかわいいと思ってしまったのもある。



通勤時間、私は耳にワイヤレスのイヤホンを嵌め込んで、音楽の代わりに零君からの留守電を聞く。

「僕だ、おはよう。タッパーの中、見たか? 前に貰ったって言ってた酒を香り付けに使ってみたんだけど、どうかな。結構上手いと思う。あと君のSNSの投稿を見たんだが、一昨日の写真、指紋が写ってるぞ。拡大してなにかに悪用されるリスクがあるから差し替えるか消すかしておけ、いいな。それと、今日は多分帰れるはずだ。それじゃあまたな――……」

僕だ、とだけ言って名前を名乗らないのは相変わらずで、くすりと笑みが零れてしまう。ちなみに零君は個人でSNSはやっていないみたいだけれど、アプリは入れずにウェブ上のURLから直接私のアカウントを見ている。監視とも言うのかもしれない。意外にも見たいと言い出したのは零君の方からで、私が普段何をしているのかに興味があるから教えてほしいと頼まれた。

――え、でも食べ物とか遊びに行った先とか買ったものばっかりだよ。
――そういうのが見たいんだよ。

そんな具合に。
仕事の兼ね合いでインターネットの扱いには長けているらしく、今日のように個人情報に繋がる恐れのある投稿には添削が飛んでくることも珍しくない。
電話だって互いの生活の時間が合わなければなかなかできないものだ。何でも卒なくやってのける零君も、すれ違う生活には多少焦ってくれているのか、手が空いたときには何らかの形で連絡を残してくれていた。帰宅前、出勤後、日中、深夜、早朝、と録音が残される時間帯はまばらだけれど、彼はまめに私の元に声を残してくれる。それすらできない日にはいつでも読めるメッセージ。
それに対して私も、今日食べたスイーツとか、どういう雑談をしたとか、仕事の節目とか、貰い物の酒の話とか、SNSにでも書けばいい日記じみたメッセージを返している。顔を合わせられない以上コミュニケーションだって不十分になりがちで、こうでもしないと零君が私の生活を知る機会がないのだ。零君の仕事の話を聞けない分、私が私の他愛もない日々の出来事を教える。
零君の多忙さは知っていたので既読がつけばいいと思って一方的に送っていたけれど、試しに犬のスタンプをプレゼントしてみたらそれ以降は読んだ後にそれを送ってくれるようになった。こういうところがかわいいと思う。



その夜。彼の偽名で登録してある連絡先から着信が入るのは実に数日ぶりだった。電話の内容は案の定今日も帰れなくなったというもので、電話の向こうでしゅんとしている彼を気にしないでと取り繕った声で励ます。

「なまえの顔が見たい」
「ふふ、私も」
「それに……ずっと抱いてもいないし」
「……今、外じゃないの?」
「僕一人だ。誰も聞いていないさ」

彼の背後で木の葉を揺らす風が、そのテノールの甘さをより一層引き立たせた。

「そういえば今日、僕宛の荷物が来る予定で……一応配達済みにはなってるんだけど。受け取ってくれたか?」
「うん、来てたよ。何か買ったの?」

食卓の零君の席に置いておいた段ボール箱に視線を投げる。秘匿義務の多い彼の荷物は頼まれない限り手を付けないようにしているので中身は知らない。

「開けてごらん」
「いいの?」
「君に買った」
「えー、じゃあ今開ける。ちょっと待ってね。なんだろう」
「まぁ……役には立つよ」

少しわくわくとしながらカッターナイフの切っ先を箱の切れ目に沿わせていく。毎度のことながら包装に対して中身はそれほど大きくはなく、携帯端末よりも一回り大きいくらいのパッケージが中央にちょこんと固定されていた。

「あ。充電するやつ」
「モバイルバッテリー。スマホの充電の減りが早いって言ってただろ。僕も電話繋がらないと心配になるし……。3回は充電できる容量だから」
「ありがとう、零君! 私の古いやつだから半分しか充電できなくて困ってたんだよね。明日からこっちにする」

零君が買ってくれたモバイルバッテリーは20代最後の歳の私が持っても違和感のない、無地のホワイトというシンプルなデザインだった。妙齢を過ぎつつある女性が持つことに抵抗を感じるデザインのものを贈ってこない辺り、非常に見る目と気遣い力があって助かるが、私からのプレゼントのハードルもまた上がってしまった。お返しはしたいけど、サプライズは自信がないし、今日を逃すとリサーチの機会にも暫く恵まれなさそうなので尋ねてみることにする。

「零君も何か欲しい物とかない? 今金欠だからすぐには無理だけど……」

零君には伏せているのだけれど、先日から少し“相談事”にお金を割いていた。

「特には。高いものじゃなかったからお返しとかはいいよ。僕がすぐに電話に出れるようにしておいて貰いたいっていうのもあったし、切れる前に充電するのがお返しってことで」
「やだイケメン……」
「あはは、それはどうも。まぁ、今後何かプレゼントしてくれるっていうなら、持ち歩けるものが良いな。なまえがくれたものだと時計と財布が嬉しかったよ。毎日使うものだし」
「家に置くものあげても零君帰ってこないしね……」
「ぐうの音も出ません。でも使えないからじゃなくて使いたいからというか」
「うん?」
「会えなくてもなまえに貰ったものを見てると少し嬉しくなる。君の顔が浮かぶからね、そこが好き」
「そっかぁ。えへへ、嬉しい。私も使って貰えるのも嬉しいし、誕生日とクリスマスはそういうので考えてみるね」

零君と景光君に時計を贈ってからもう随分経つ。いい加減新しいものを買ってもいいだろうし、あとはキーケースにパスケース、探偵に化けることもあると言っていたからそのための名刺入れなどだろうか。

「そういえば明日までだったな」
「何が?」
「フサエブランドの新作の予約。欲しいって言ってただろ」
「あー、うん。今金欠だから見送ることにしたんだ」
「金欠? 特に物は増えてないみたいだけど。何に使ってたんだ? 特に物は増えてないから買い物をしてるわけじゃないんだろう?」
「ご、ごめんね。でも私のお金から出してるから大丈夫だよ」
「別に責めてるわけじゃない。生活費も入れてくれてるし、散財してるわけでもないんだし。最近何して過ごしてるのか気になっただけだよ」
「えーっと……習い事の体験を何件か行ってみてたんだ」
「へえ、そういうのもいいな。ギターやってみたらいいんじゃないか?」
「身内に上手い人がいるのやだよー。自信無くしちゃう」

零君が仕事に戻るまで、私達はずっと他愛もない話をしていた。久しぶりに声を交える分、満たされるものも多かったけれど、その分通話を切る折の寂しさもひとしお目に染みる。

「おやすみ。愛してるよ」
「えっ、お、おやすみ。わ、私も好き」

あからさまに慌てふためく私に、零君は「“好き”、か。僕は愛してるのに」と冗談めかして笑って、ちゅ、ときざったらしくも実に様になるキスの音を残して切ってしまった。
家には私しかいないというのに、わあ、と熱くなる顔を覆う。私はいつまで初心でいるつもりなのだろう。


2023/08/05
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