比翼のアルビノ

27.壊死の手触り

26歳、冬。
12月7日。
――悪い降谷。奴らに俺が公安だとバレた。逃げ場はもう、あの世しかないようだ。じゃあなゼロ
命日だなんて認めたくはない。
諸伏景光の止まった鼓動を、この耳で聞いて確かめたくせに、受け入れられていない。

血まみれの手で自宅の鍵穴に鍵を挿し込んだ。指を濡らす親友の鮮血を流して落としてしまったら、もう僕とあいつの繋がりも、あいつが此処にいた証も、何もかも消え去ってしまうのではないかと思え、恐ろしくて、酸化した血が凝結して赤黒く変色するまで、いや、してもなお、洗い流す決心を固められずにいた。
正義のために暗躍する僕たちは、表の名簿に名前を記されることはない。成した善行がおおやけにされないのと同様に、誰にも知られず死んでいく。家屋の影で一生陽を浴びれないまま葉だけを大きくしたクローバーに似た、誇り高い生涯。賛美と縁のない奔走を心憂いたことはない。なかったのだ。今夜までは。

――スコッチ……。

居合わせたライの目を気にして、まだ体温を残している親友に「スコッチ、スコッチ」と呼びかけていたからか、まだ彼のコードネームがこの血痕同様に唇の裏にこびりついていた。安全圏に身を移してもなお、本名ではなく呼称が口を衝いて出てくる。同様のさなか、僕はいまバーボンと降谷零の狭間にたゆたっている。2つの顔を演じきれていない。
自分の掌をべっとりと汚している諸伏景光の遺伝子だけが、あいつがこの世に生を刻んだ証明だった。
かろうじて回収した、大きな空洞として弾痕を彫り込んだ携帯端末と、血まみれの腕時計。確かに奴の所有物だったものが、いまや遺品に成り果てている。この2つが、あいつが人知れずこの世を去った証明だ。

――萩原、松田に続いて、ヒロまで……。

松田の殉職から1ヶ月。あのときも、やつが死ぬだなんて夢にも思っていなかった。何しろ松田の命日となった11月7日……その前日の6日に、僕ら4人は顔を合わせていたのだ。
玄関に入ると、後ろ手に閉じた扉に凭れてずるずると崩れ落ちていく。靴も脱がずに蹲る。

――あの日、ヒロは僕を助けてくれたな。

爆弾魔を追って階段を駆け上がってきた彼は僕を助けてくれたのに。今日、僕が駆け上がった階段の先で、彼は生き絶えていた。
僕の呼びかけに答えないスコッチの心臓に耳殻を押し付けたが、嘘のように鼓動はない。生きた人間のあたたかさを残す躰とは裏腹に、息も心音もないあいつは、蝋人形のように静かだった。
拳銃で自決したために返り血が両手首にも付着していて、腕時計をべっとりと汚していた。それは、警察学校の入学祝いに彼女から贈られたものだった。肌身離さず、それこそ就寝に瀕しても身に着けていた時計は、天に登る間際にも景光のそばにあった。
僕は、彼女になんと言えばいい?

「――零君? 帰ってるの?」

嗚呼……。
廊下の暗がりに彼女の影が差す。無傷でありながらまるで満身創痍かのように息苦しい僕に、痛いほど優しい声が降る。
寝室から顔を覗かせた彼女がひたひたとこちらに歩み寄る。照明はなく、蒼い夜陰に沈んでいる玄関で、ドアに凭れながら項垂れている僕を認めるや否や、駆け寄ってきた。僕の異変には気づいていたようだが、血みどろな僕をその眼に移すと声色と顔色を切羽詰まったものへと変える。

「どっ、どうしたの!? その怪我! ど、どうしよう、救急車――!」
「必要ない」

ヒロの亡骸に触れた両掌、心音を聞くためにヒロの胸に押し付けた耳、それに密着した拍子に血を吸ってしまった白いニットの胸元。それらを汚すどれもこれもが、僕の皮膚を裂いて飛び出たものではない。

「でもっ」
「僕の血じゃ、ないんだ……。僕は怪我をしていない……」

今にも駆け出していこうとするなまえを引き止めるためにその手を掴んだが、親友の血とはいえ、あまりにも彼女に似合わない絶望的な色彩であったので、萎縮して手を離してしまう。
零君……、と心配を煮詰めたような声で僕を呼んで、彼女はその場に膝を折った。同じ高さで視線がかちあう。触れたい。顔を合わせる資格もないのに。すまない、君の……僕達の友達を守れなかった――届けられない言葉が埃のように降り募る。

「零君……靴、脱ごう?」

彼女は呆然としている僕のくるぶしを捕まえた。踵を靴底から浮かせ、つま先を引き抜く。両足を革靴の締め付けから開放すると、玄関の段差の前にそれを揃えて置いた。
錆びた階段をカンカンと鳴らして駆け上がった靴。あれくらいで疲労するほど軟弱ではないのに、立ち上がる気概もない。景光の喪失は僕の骨を、芯を、砕いた。

「景光君――」
「……っ」

彼女の零す言葉に僕はがばりと顔をあげる。あいつの痕跡に過敏になっていたのだ。帰宅後、はじめて生きた人間らしいまともな反応を示した僕に、なまえは当惑しつつも紡ぐはずだったらしい言葉を続ける。

「あの、ね……? さっき景光君から変な留守電入ってて……。掛け直しても出てくれないんだけど、何か知らない?」
「留守電? あいつが? どんな?」
「それが大した内容じゃなくて……。でも、うまくいえないけど、なんか変で」
「それ、聞かせてくれないか」

息を吹き返したように身を乗り出す僕に、なまえは戸惑いつつも寝室に自身のスマートフォンを取りに走ってくれる。
僕宛の最後の言葉はメールだった。志を等しくする公安警察として僕を「降谷」と呼び、綴られていたはずが、最後には「ゼロ」と締めくくられていた。ないまぜの公私。潜入捜査官として別離を告げるつもりで、しかし最期の最期で親友として別れを告げられた。

「ねぇ、ヒロ君のこと何か知ってるの? それに零君もなんか様子おかしいよ。大丈夫?」
「すまん、聞かせてくれ」

僕は戻ってきたなまえの言葉を遮り、その手から端末を奪い取る。そして通話アプリの記録から直近の留守番電話を再生した。

――しばらく会ってないけど元気にやってるか? ゼロと仲良くな。あいつのこと、任せるよ。あいつすぐ無茶するだろ、だから……ずっとそばにいてやってほしい。二人とも俺の大事な幼馴染だ、ゼロなら俺も安心して君のこと任せられる。それじゃあ、な。
――……嗚呼、そうだ、この電話には折り返さなくていい。多分出られないから……。

最愛の親友の声だった。やや鼻にかかった、色気と落ち着きのある甘いテノールの声音。今日から、もう二度と聞けない声だ。何度も再生する。
留守電は僕宛のメールの送信時間よりもだいぶ早い時間に残されている。
メッセージ性など皆無の他愛もない遺言だが――その中においてすら、あいつは一度も彼女の名前は呼ばなかった。僕の本名も。万が一にもこの記録が流出した際、或いは電話している声を誰かに聞かれた際、彼女や僕を守り抜くためだろう。
肉声を聞く前にあいつは自ら命を絶ったから、僕は聞き馴染んだはずの景光の声を酷く懐古した。

――そうか……あいつの肉声を最後に聞いたのは、ライだったのか……。

憎い。憎い、憎い、憎い。
馬が合わないあの男だが、実力だけは認めていた。奴が自決を強要したとて、その評価は覆りようもないが、しかし性格の不一致でしかなかった嫌悪は、決定的なこの夜を引き金に、憎しみへと色を濃く変えていく。
何度目とも知れない留守電のループの中、耳がふやけるほど景光の声を耳朶に浴びながら、全ての感情を握り潰すように自分の前髪をぐしゃりとかき乱す。瞼の裏が熱い。眼球の奥が辛子を垂らされたみたいに染みている。
なまえは僕の名前を一度呼び、その腕に僕を招いた。僕はそれにはなにも答えずに、ただその背中を抱き返す。縋るように抱く手を強める。

「泣かないで」

泣いていない。しかし目元を隠して俯く僕は、彼女からは涙を流しているように見えたのだろう。だがどんなに目頭が熱を帯びても涙だけは一向にあふれないのだ。しかし心はどうしようもなく揺れている。今にも零れそうな垂れ下がる雫の如く、揺らめいて、震えている。

「ヒロは――」

あたたかで、規則的な心音がはっきりと生を示している彼女の胸の中で、呟いた。

「ヒロは……死んだよ」
「うそ……だよね……?」
「俺も、嘘がよかったよ……」

泣きじゃくりながらも僕を抱きしめてくれるなまえが、泣くことのできない僕の分まで涙を請け負ってくれた。


2023/07/20
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