比翼のアルビノ

22.いつかうつくしくなる保証なんてないのに

住宅街に入ると、道の灯りも数を減らして暗がりが続き、頭上の星明かりに眼が向くようになった。マンションの群れの角ばった影の向こうに見上げた月は、やや欠けている。
アルコールを胃に突っ込んできたおかげで平素よりも鼓動は加速していたが、足取りは危なげなく、酒にかけては底なしの己が恨めしい。酔いたい時に酔えないのは、損だろう。
案の定灯りの点いている家では彼女が僕の帰りを待っていて、「おかえり」と出迎えてくれる笑顔がなんだか今日は目に染みた。それでも流す涙はなかったけれど。

飲んでくるとは伝えてあったから、食卓は既に片付けられており、何も並べられていなかった。
ジャケットを脱いでネクタイを緩め、汗として表に逃げた分を取り戻すようにキッチンで水を飲む。しかしそれでは心の乾きは満たされず、棚からウィスキーの瓶を取り出した。グラスに大粒の氷塊をごろごろと転がし、琥珀色の酒を注ぐと、ステアするいとまも惜しんでそれに口をつけた。

「飲んできたんじゃないの? まだ飲むの?」
「ちょっと酔いたくてね」
「零君酔わないでしょ」
「少し気分が上がるだけ。でも酔ったふりをしているうちに本当にそんな気がしてくるものだ……」

すでに風呂を済ませていたらしい彼女は見慣れたパジャマ姿でソファに腰を下ろす。ふうん、と鼻を鳴らして、シンクの前に立ったままの僕を見上げる。

「何杯目? お店のも入れて」
「んー? 何杯目だろう……数えてないからわからない」
「本当に珍しいね。どうかしたの?」

意外そうな声で言うなまえの顔には少しの驚きが広がっている。多分、ちょっとした僕の異変を嗅ぎつけられてしまったのだ。
僕を案じる彼女の問いには答えずに、早くも空になったグラスに新しく酒を注ぐ。舌の上に乗せかけた返答を喉の奥に押し返すように酒を煽って、濁した。

「……ペース早いよ、零君」

ワントーン声を低めたなまえはソファから腰を遊離させ、つかつかとこちらに歩み寄ってくる。眉の寄った顔もかわいいな、などと能天気に構えていると、乱暴な仕草で彼女は僕の手からグラスを奪った。
僕が自ら酒に飲まれようとしているのが珍しいというのなら、彼女のこんな強気な態度だって同程度に稀である。したたかな出方を跳ね返すように、へえ、と真下から睨みあげてくる瞳を鼻で笑った。飼い猫に指を噛まれた飼い主が、そのかわいらしい悪戯やおいたに対して微動だにしないのと同じだ。

「――」

何ごとか反撃の言葉を紡ごうとしていたのであろう開きかけた彼女の唇を、酒臭いキスで塞ぐ。
お互い瞼の幕を下ろしていなかったおかげで剥き出しの瞳が至近距離でかち合った。明るい照明のもとで、驚愕だけを材料に開ききっているなまえの瞳孔を視線でじっとりと嬲って、開放してやる。

「なにかあったの?」

それでも僕から離れようとしないばかりか、尚の事心配の念を強める彼女に少しの罪悪感が胸に落ちた。

「いや……」
「私が聞いちゃいけないことだった?」

ひとりでは口を噤んでもいられないと思って、奪い返したグラスをまた煽る。
――20代も半ばにして、某組織への潜入が決まった。
正式名称不明の国際的犯罪組織。構成員は頭の天辺から爪の先まで黒い服で固めて任務に就くことから、“黒ずくめ”と呼称されることが多い。
潜入捜査官として抜擢されたとき、激しく戦慄したのは記憶に新しい。自分の実力を認められたことへの喜びと、悪に対して燃える正義。そして、綱渡りの如き危うい仕事に、危機を認めた命が揺れた。
命を賭して使命を全うすることを恐れているつもりはなかったが、きっとどこかで心が揺れていた。それを酒の力を借りて見て見ぬふりに徹しようとして……この様だ。

「なまえ、今夜は一緒にいてくれないか……。君との思い出が欲しい」

つつ、と彼女の目尻を触れるか触れないかの力加減でなぞって、そんな言葉を吐いた。
かれこれ12年か13年一緒に過ごしてきて、山程の思い出を積み上げてきておいて、これ以上を望むなんて欲張りだろうか。
ここで果てるつもりは毛頭ないが、それにしたって土の下で眠る時、瞳孔に焼き付けた花嫁姿以外にも、もうひとつ何か持っていきたいと――或いは危殆に瀕した際、ねばりづよく生にしがみつく糧になるような思い出を懐に忍ばせておきたいと、思った。

「それは、」

なまえが口火を切る。

「私としたいってこと?」
「したい?」
「え……えっちな、こと……」

問い返せば思わぬ答えが返ってきた。
――えっちな、こと、って……。
予期せぬ発想。彼女の口から聞くには耐え難いほど刺激的な発言。
つまり、彼女は、僕の今夜は一緒にいて欲しい、思い出が欲しい、という言葉を、僕より一歩踏み込んだ意味合いで捉えたのだ。

「待……ってくれ! 僕はそういうつもりで言ったわけじゃない!」
「えっ!? うそ、やだ……嘘でしょ、何言ってるんだろう、私……」

半ば叫ぶが如く声を張り上げて訂正すると、なまえの顔がみるみるうちに真紅に染まっていく。どうしようもなく気まずい。

「僕はただ、純粋に今夜一緒にいたいという意味で言っただけで……」
「だ、だって思い出って」
「それも深い意味は……。デートにでも行ければいいけれどそんな時間も中々作れないだろう。だから寝る前に話す時間を作って、それからせめて寝顔でも見れればと思って。決して君を、その、抱きたいという意味で言ったんじゃないんだが……紛らわしい言い方をしてすまない……」

じりじりとコンロの弱火で炙られ続けている魚にでもなったような居心地の悪さだった。これから潜入捜査官となる身としては落第もかくやというほどに間を持たせることすらできない。
夫婦間での性的な話題はとことん避け、2年間の結婚生活では欲情や興奮もひた隠しにしてきたつもりだ。キスの先にも進んでいない。
そんな中で――きっかけこそ僕が誤解を招く発言をしまったこととはいえ――彼女の方から性的な提案を投げかけてきたことが意外で仕方がない。長年彼女に性の気配を感じさせないように徹底してきたこともあり、ともすれば彼女以上に過敏になっていた僕には、先の言葉はいささか強烈過ぎた。
そして。

「零君は、ないわけじゃないんだよね」

またしても意外なことにこの沈黙を破ったのはなまえの方からである。
確かめるような物言いだが、抽象的過ぎて話が見えない。

「何が?」
「性欲」
「……。まあ。人並みにはあるとは思うけど」
「私とはしたくない?」
「っ、」

そんなわけがない。したくないわけがない。どれだけ空想の中で君を傀儡のように犯してきたと思っている? 最低なほどに僕は君を求めている。

「私は零君としたいよ」

追い打ちをかけるようになまえが言った。

「私、頑張ってみるから……。私、零君のこと大好きだよ。だからそれで零君が喜んでくれるなら頑張りたい。最後までできるかわからないけど……一回、ちゃんと向き合ってみたくて」

向き合うとは、過去と、か。それとも僕自身と、なのか。

「手伝って、くれないかな?」

彼女の、不安の皿の上に僕への信頼を盛り合わせた瞳がこちらを見据える。気心知れた飼い主との触れ合いを求める、猫か兎のような目だった。
手伝う、という言い草がまさに言い得て妙だった。キスもハグもセックスもひとりではできない。其の場凌ぎの快楽を得るだけならば片手でもあれば足りるけれど、肉体的、或いは精神的なおうとつを埋め合うには自分以外の誰かの影が不可欠だ。結ばれるとはそういうこと。ひとつになるとは自分の欲に他者を巻き込むこと。
彼女の心と体を求めながら、いざほんとうに手中に収めてしまうと雪の結晶のように指で潰してしまいそうで怖いのだ。
僕は彼女が差し出してきた白い手を取ると同時に抱き寄せる。

「好きだよ。好きだから、君に酷いことをしてしまうんじゃないかと思うと、怖い」
「酷いことするの?」

あなたはそんなことしないでしょう――と僕を信じて疑わない瞳が問いかけてくる。なまえの肩口に頬を埋めながら彼女を見つめ返すと、その眼に反射する己の顔とかちあった。瞳の鏡の中の自分は、表情までは定かではないが、それでいい。欲に塗れた顔をする己を直視するのは憚られた。

「――優しくする。君を抱きたい」


2023/07/13
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