比翼のアルビノ

21.箱庭には降らない話

景光から2人で飲まないかと誘いが来た。
指定されたのは会員制かつ完全個室制の居酒屋だ。駅から西に歩いた大通りの手前、一軒家風の外観は少々わかりにくい。警察庁に入庁したこと意外、所属などは詳らかにはしていなかったが、僕の言動から察するものがあったのだろう。互いに収入も安定してきたからこそできる贅沢でもある。
注文した料理に合わせて店のソムリエが勧めてくれる中からお供の酒を選ぶ。ひとまずはビールで乾杯をして、魚料理を白ワインと一緒に楽しんだ。

「大分時間が空いたな。5人で飲んだ時以来だろ? 2ヶ月ぶりかな」

顎に薄らと髭を蓄えた口元で、ヒロが笑う。子供の頃から見慣れた笑顔だが、松田のおふざけから髭を生やし始めたおかげで随分と大人びた印象を受けた。

「僕らの家に来てくれたらいいのに。その方がなまえも喜ぶ。今日もヒロ君によろしくって言ってたよ」
「2人の愛の巣にはお邪魔できないよ」

気にしなくていいのに、と思いつつ、鰹の出し汁が味わい深い和風スープを口に運ぶ。

「そういえばヒロの配属先、どこになった? そろそろ出た頃だろう」
「あぁ、それ、なんだけど……そのことでゼロに話があって、今日は呼んだんだ」

ヒロの言い淀む姿は久しく見ていなかったから、躊躇いがちに唇を割り開いて、言葉が見当たらないのか閉じて、視線を机の上でうろつかせて、としている彼に少し面食らう。
まだ長野夫婦惨殺事件が未解決のまま凍りついていたときのこいつを想起させた。両親の事件の捜査を試みようとして、けれども概要を話すためには自分の痛ましい記憶を刺激する必要があり、瞳を震わせて押し黙る、あの頃よく見た顔に少し似ている。
相応しい語彙を掴みあぐねるように黙り込んでしまう景光を一瞥し、僕もまた後を追うように黙する。配属の話などつついても痛みはしないだろうに、僕の中にもまだ沈黙するヒロに対して深く追求をしない癖が残っていた。まだ長野の事件を思い出す度に辛そうな顔をしていたヒロを見ていられなかった頃の名残だ。
不意に、景光がまっすぐに僕を見据える。

「――俺、警察辞めることにした」

決意を固めたようなひりついた瞳で、はっきりとこう告げた。
どんな酒でも意識を持っていかれた経験などないのに、その一言はがつんと僕の脳天を撃ち抜いた。

「は? なんで。そんな、いきなり」
「交番でいろんな事件や事故に立ち会ううちに、やっぱり俺向いてないんじゃないかって思うことがあって」
「向いてない? 馬鹿じゃないのか、お前。お前以上に正義感が強くて優しいやつはそうそう居ない! ヒロが向いていなくて他に誰が向いてるっていうんだよ!」

僕は品のいい食卓の上に身を乗り出す。
諸伏景光は親の仇の自害を止めるために自ら火の海に飛び込める男だ。憎しみに囚われず、仇に向かって罪を償ってくれと云える男だ。長らく癒えなかった心の傷だって乗り越えた。
彼なら人の痛みに寄り添うことができ、たとえ犯罪者であってもその命と尊厳を尊重できる、強く優しい警察官になれるとほかでもない僕が信じていたのに。

「もう決めたんだ。悪いな、降谷」

ヒロの言い放った短い言葉がテーブルの上に転がる。禄に言葉も尽くさない、説得しようという気概すらもない、冷たい響き。それは拒絶ともとれた。
拒絶は僕の頭に水をかけて、冷静にした。
降りる沈黙を、お互い破ることができずにいた。

――矢庭に、ヒロの指が水の入ったグラスをなぞる。こつん、と結露を真上から潰すように指先で一度叩いて、すうっ、とそのまま下へとなぞっていく。彼はそれを繰り返す。また指先で叩いて、なぞる。
花火のように確信が閃いた。
叩く動作は単音で、なぞる動作は長音。
モールス信号の「・ー」。意味は、“I have a diver down ; keep well clear at slow speed.”――「私は潜水夫をおろしている、微速で十分避けよ」。

――どういう意味だ。避けろは文字通り避けろ……今後顔を合わせられない、或いは見かけても無視しろということか? それともこの話題はここで止めようということ? 潜水夫をおろしている、というのは……海に潜っている? 潜る……隠れる、消える、立ち去る……一体どこから……? 姿を消すから無視しろ、っていうことなのか?

解読するにもヒントが少ない。暗喩として噛み砕くのならいかようにも解釈できてしまう。
景光の手が添えられた、汗をかいたグラスに深刻な視線を落としたままの僕に、彼はまた密やかなメッセージを綴る――その指先で。
ツー、トン、ツー。「ー・ー」の信号。意味は「私はあなたと通信したい」だ。
はたと視線を持ち上げると悪戯っぽい猫目とかち合う。
僕はすぐさま机を指でノックして、イエスを意味する信号、「ー・ー・」を返した。
するとヒロは口尻に愛嬌のある笑窪を刻むので、僕たちの間を結ぶ秘密の道が拓かれたことがわかった。



そして僕は、景光が警視庁公安部に配属されたことを知らされた。
省庁は違えど幼馴染が2人揃って同じ配属先とは口元も緩む。本当に辞めたと思っていた瞬間はなんの味も感じられなかった酒が、それを知ってからは美酒として味蕾を喜ばせた。
……よくよく考えてみれば最初からヒントは提示されていたのだ。警察を辞めたというのは公安部に配属された人間がよく使う嘘。
なまえを同席させなかったことにも合点がいく。このシグナルを僕だけに届けたかったからだ。なにしろモールス信号であれば彼女も理解できてしまうので、無関係の彼女にまでこのことが共有されてしまう。それは呼べないわけである。
数日後、景光はなまえにもこのことを共有したらしい。無論、秘匿性の高い部署への配属は伏せ、単に辞めたとだけ。

「ね、ねぇ、零君。さっきヒロ君から連絡きて、警察辞めるって……嘘だよね?」
「嗚呼、其の件か……本当だよ」
「そんな……せっかく夢叶ったのに……。何か辛いこととかあったの? 聞いてない? また家族のこと思い出したりとか……」

僕は警察庁であいつは警視庁と所属こそ違うが同じ公安部。なんて運命的なのだと喜んでいた。しかし磁場の蚊帳の外である彼女からすれば到底喜びや救いを見出せる話ではないだろう。
ひとりだけ真実を知らされず、悲しげな嘘を与えられたなまえが酷く哀れに思えたが、僕に対してすら口頭で伝えてこなかったことを思うと、そう安々と明かすわけにもいかない。口を噤まざるを得ないことに面目なさを覚えるが、この仕事を選んだ以上、僕らはこの先も秘密と連れ添っていくのだ。生涯に渡って彼女に対して多く抱える秘事のうちの、これはきっとほんの一端。
いつか悪びれもなく嘘を紡ぐ自分になれるまでの苦労だ。


2023/07/09
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