比翼のアルビノ

20.絶え間なく抱えきれない花束は萎れる前に手放さなくては

早くに仕事を切り上げたその日、『職場まで迎えに行く』となまえに連絡を入れ、彼女の勤め先の駐車場に車を停めた。
僕の左手の薬指は、大抵いつも空いている。帰路の車内で財布の小銭入れから結婚指輪を取り出し、家に着く前に嵌めるのが日課だった。身に着けられる時になるべく身に着けていようという気持ちゆえの行いだったが、いつしかそれは公安警察からただの既婚者の男に戻るための儀式になっていた。
なんとはなしに流しっぱなしにしていたラジオでは懐かしの一曲としてビートルズの曲が紹介されている。5枚目のアルバム、『Help!』から表題と同名の曲『ヘルプ!』と『イエスタデイ』。

――ヒロとよく弾いたっけ。

耳にも心にも馴染んだ思い出のメロディに躰を少し揺すらせた。とんとんとん、とハンドルに添えたままにしていた指がリズムを刻む。ハミングのひとつでもしてしまいたいところだったが、意外にも車内の音というのは表に零れてしまうものだから自重する。
18時になり、ラジオ番組が音楽からニュースに切り替わって数分が経った頃。道路交通情報を右から左に聞き流していると、胸ポケットに挿していた携帯端末が震えた。ポップアップの通知を確認すると、なまえからの『ごめん、お迎えやっぱり駅までにして』というメッセージを受信している。ロックを解除し、『了解』と返すと、はて、なぜ駅を指定してきたのか、外回りの話は聞いていないが……と疑問を頭に巡らせつつも、サイドレバーに手をかけた。

最寄り駅は電車が停車するとどっと人が改札に溢れて、暫くすると引き潮のように消えていく。また新しい電車がやってくると人で満ちて、数分と経たずにそれぞれが帰路に着くので静まり返る。それを決まりごとのように繰り返していた。
満ちては引く人の海を眺めながら、ロータリーで彼女を待っていると、僕の車の前に一台の車が停車した。スライド式のドアが自動で開くと、中から出てきた女性が運転席に向かって会釈をし、何ごとか言葉を交わしている。大方同僚に送って貰ったといったところだろう、とどうでもいい予測を立てながら視線を外しかけた時。僕の眼をその場に引き止めたのは、続いてその車から出てきたなまえだった。
なまえもまた運転手に向かって会釈をし、先に下車した女性とまた明日、とか、それでは、と笑顔で言い合う。それから彼女はきょろきょろとロータリーを見回し、僕の車が自身のすぐ後ろにいたことに気づくとこちらに手を振りながら歩み寄ってきた。フロントガラス越しにこちらも手を振り、助手席の鍵を開ける。

「ただいま、零君。お迎えありがとう」
「おかえり。誰かに送ってもらったのか?」

礼を言いながら隣に乗り込んでくるなまえに問いかける声は、我ながらおとなげなく感じるほどに不機嫌さを滲ませていた。
「やっぱ見てたよね」となまえは少し眉を下げた。かちり、とシートベルトを装着すると彼女は話し始める。

「男性の同僚が送るって誘ってくれて、私は断ったんだけど、そうしたらそのひと彼女持ちなのに他の女の子のこともしつこく誘い始めたんだよ。だからやっぱり送ってくださいって行って一緒に乗ってきた。その子に何かあったら怖くって」

僕は少し面食らってしまって、途端に胸中で煙を上げかけた嫉妬があまりにも場違いなものだったと自覚し、それを恥じる。

「優しいな。その女性も君が来てくれて安心したんじゃないか」
「そうかな。だといいな」

自分の古傷がまだ痛むからこそ、他人が傷つけられそうな瞬間にも敏感になる。
こういうところは、ヒロに似ている。あいつも彼女が自分のようにPTSDを発症することを恐れ、トラウマが刺激されないように立ち回ることにかけては僕以上に繊細にやってみせた。
幸いにも日常生活に差し障りを及ぼすほどの強烈な出来事を体験したことのない僕にとって、2人の抱えるそれは未知の領域で、どうしたって当事者と同じ深刻さで理解することはできない。こういうときはいつも歯がゆい。仲間はずれでいられることがどれだけ幸いなのかを知りながらも。

「……怖かった?」

膝の上に落とされたなまえの瞳が震えているように思えて、そう問うと、彼女は無言で頷いた。座席の上で丸まっている手に手を重ねて包み込むと、掌をくるりと返して握り返される。
冷たい手汗を纏った手はしっとりと湿っていて、呼吸こそ落ち着いているものの手首を撫でてみると脈は正常とは言い難い。「汗かいてるから、」と逃げようとする指を絡め取って掴んでやるとなまえは強張っていた表情を緩めた。

「帰ったらぎゅってして、零君」
「もちろん」

ぽつぽつと今日あったことを語らえるくらいまでに彼女が落ち着いてから、車を出す。

帰宅後、夕食の支度に取り掛かる前にまずは2人で一息つこうと紅茶を淹れる。戸棚から出した木苺の柄のお揃いのティーカップとソーサーは、彼女の友人が結婚祝いにと贈ってくれたものだ。
温めたミルクを片方のカップに注ぎ、其の上から淹れたての紅茶を重ねて注ぐ。ミルクを先に注ぐと、茶葉の香りが逃げてしまうのを防ぐことができると聞いてからは努めてそうしている。彼女にはミルクティーを用意し、自分のものにはミルクの代わりに輪切りにした檸檬を浮かべた。

「おいしい」
「それはよかった」

取っ手に指を差し入れているのとは別の手でカップを下から支えつつ、ソファに座したなまえはほうっと熱い吐息を室内に溶かす。僕はレモンティーのカップをソーサーの上に置きながら、徐々にほぐれていく彼女の面持ちに淡く笑んだ。
今日は僕の仕事が早く済んだからよかったが、こんな犯罪にもハラスメントにもかすりもしない他愛もない悪ふざけのようなことは幾らでも日常に潜んでいる。悪意未満の誰かの過ぎた言動が恐ろしくて堪らなくなった時、そばに僕がいない時、彼女はどうしているのだろう。これまでにも両手の指が足りなくなるほどこんなことはあっただろうに、どうしてきたのだろう。……そんなのは決まっている。ひとりで昇華してきたのだ。
大切な瞬間に傍らにいられないことなどお互い覚悟の上で籍を入れたはずなのに、今になってそれがどうしようもなくもどかしい。
低くなった紅茶の水面の下の、檸檬の傾斜を睨んでいると、ぽす、となまえが僕の肩に頭を乗せてきた。体重のかけられる場所が変わったために2人の重みを受け止めたソファが軽く弾む。

「どうした?」
「まだハグしてない」
「嗚呼、そうだったな……」

そういう約束だった――。
くびれた胴に腕を回し、華奢な肩を自身の胸の中に招く。骨を砕いてしまわないように……熱に浮かされた恋人のごとくかき抱くのではなく、極めて慈しむように、そっと。
ふわりと鼻腔をくすぐる汗と石鹸と彼女自身の香りにぐっと胸を鷲掴みにされた。
すりすりと僕に頬擦りをして気持ち良く収まれる場所を探していたなまえだったが、僕の胸にぴとりと耳をくっつける形で落ち着いた。彼女は目を閉じて、僕の心音に耳を澄ませている。それで安心できるなら安いものだと思って好きにさせた。
職業柄、脈を図るのは大抵死を確かめる目的であるし、もし自分が図られることがあるとすれば鼓動に現れる同様などから心の裡や嘘の有無を探られているということだ。人の脈拍を知ろうとするときも、人に脈拍を暴かれるときも、神経は張り詰めて脳が覚醒しきっている状況であることが多いので、こんな風に安らぎに染まる中で人に心臓の音を聞かせるのは初めてだった。
隠すつもりもないせいで、いま僕の心臓は心情を鏡のようにありのままに反映している。肋骨に響く振動を今この瞬間も彼女の鼓膜に余すところなく拾われているのだと思うと、少しだけ恥ずかしい。
心を紛らわせるようになまえの髪を一束掬い上げて、手櫛で梳くように弄ぶ。彼女のお気に入りのシャンプーの香りが舞い上がり、甘やかなため息を誘った。

「キスしていい?」
「うん……」

まどろんだ瞼をゆうるりと持ち上げ、顔を上げたなまえがきゅっと目を瞑る。かわいい、なんて思いながらその頬を撫でて、唇を重ねた。
キスはまろやかなミルクの香りを纏っていた。もっと舌で直接にその味を感じたい。しまいにはそれが薄まるほど互いの唾液をかき混ぜてしまいたい。
僕は御伽噺のようなこどもっぽいキスでは満足できない青二才なのだ。それでも賢明に清廉潔白で理想的な王子様であろうとする。或いは紳士か。それでも彼女の隣を陣取るためなら、僕は幾らでも柄でない配役くらい演じ抜いて見せよう。

「……っ」

キスのさなか――なまえが、唇を薄っすらと割り開いたのがわかった。
僕を呼んでいるのか。誘っているのか。
大人の恋路には学生の折のような明確な始まりの言葉などないことが多い。行為へ踏み込むのにも、形式張った言葉は野暮で、波に飲まれる方がスマートだ。しかしなまえとの関わりの中で一段とばしに言葉を省略してしまうのが僕は酷く怖かった。
ちゅっ、と軽く彼女の下唇を吸ってわざとらしいリップノイズを立て、キスを止めにすると不安そうな瞳が僕を仰いでいた。

「もうしないの?」
「……していいの? ディープキス」

なまえの唇の淵を親指の先でなぞりながら問いかける。
真下から突き上げるように僕を眼差す彼女が、不意に僕の首に手を回して勢いよく抱き寄せてきたかと思うと、そのまま唇が合わさった。
少しばかり乱暴で、ごく短いキスを終えたその口が、こう告げる。

「したいよ」

その手は僕の首に回されたままだった。
鼻先が触れそうな距離で見つめ合って、その距離すらも埋めるように、空気の分子すら入る余地を失くすように、詰めて、今度は僕の方からキスをする。
ぺろ、と彼女の上唇とした唇の境目を舌先でなぞれば、そこは先程と同じく薄く開かれて僕を其の中に招いてくれる。口腔の造形を確かめるように、僕は歯や裏顎の隅々まで舌で撫でた。
酸素の巡りが滞り、霞がかかる頭にふわりと快楽だけが広がっていく。鼓膜を濡らす湿った音が脳髄まで響き、その音さえ麻薬のように僕を酔わせた。
ゆるゆると拙く僕に絡みついてくるなまえの舌ともつれ合って、吸われたら吸い返して。
もっと深くまで繋がろうとなまえの舌の付け根を探る。
息苦しそうに眉間に皺を刻んだなまえが、はく、と酸素を求めて口を開けば、唾液が表に流れ出す。熱くなった手で彼女の首筋を撫であげ、その喉を親指で軽く押して嚥下を促すと、意図を汲んでくれたのか、こくり、と次の瞬間には指の下で喉が上下した。
それがかわいくて続け様に自分の唾液を彼女の口に送り込み、こくこくと飲ませていく。他人の涎で喉を潤すなまえは官能的だ。粘性のある液が痰のように喉に絡むのか、時折漏らす高い声が僕の耳朶を甘く焦がした。

キスをおしまいにすると2人の唇から垂れた銀の糸が橋を架けた。ぷつん、と唾液の糸が途切れてしまう前にもう一度キスをする。今度は刹那的なキスだ。
幾ら味わっても満ち足りる気配はついぞなく。このまま牙を立ててすっかり平らげてしまっても、僕はずっと貪欲になまえを求めるのだろうと確信した。この欲に際限など無い。
肩を上下に蠢かせる彼女の、その呼吸を聞いているだけでも腰骨の辺りに疼きが走る。必死になって枯渇していた酸素を肺に取り入れ、息を鎮めようとしている彼女から、これ以上呼吸を奪う真似はできない。僕は持て余した唇で、なまえの耳や首筋にキスを降らせていく。

「ん……っ、零君、くすぐったいよ」

くすくすと笑う彼女だが、その声もその瞳も切なげに蕩けていて、色香を捨てきれていない。

「なぁ、もう一回したい……勿論、息、落ち着くまで待つから……駄目かな」
「いいよ。ちょっと、待って……ね」

ゆっくりと深呼吸をするなまえを尻目に僕は彼女の耳輪の軟骨を唇で食んだ。舌は使わずにキスだけで耳をなぞり、柔らかな耳朶にかぷ、と歯を立てる。それだけで身を震わせて声を上げてしまう彼女だ、きっと耳の中なんて舐めたら嫌がるだろうと思い、それは止めにして僕の唇はそのまま首筋へと降りていく。

「零君っ、それ、しちゃだめっ。どきどきして息上がっちゃう」
「これ以上“待て”はできないな……。口が寂しいんだ」
「ふ、う……ぁっ……」

先程のキスで体温が増しているのかなまえは首の裏に少々汗をかいていた。張り付く髪を指で払いながら首元に顔を埋めると、少ししょっぱい。なまえ自身の匂いも強く感じられるようになっていて、生々しさに興奮が煽られた。
どこかでうちとめなければならない、終着駅にはたどり着けない行為なのに、どんどんと辞め時を見失っている気がする。
透けるほど白い頬にはほんのりと朱色が差し、厚く張った水の膜を雫として今にも零しそうな瞳の中には、淫靡な情欲の色が泳いでいる気がしてならない。少し開いた口元からは赤い舌が見え隠れし、そこから漏れ出る熱い息遣いを張り詰めた鼓膜が過敏に拾い上げた。

「汗、臭いからっ。ちゅうしていいから、れいくん、やめ……んっ」

満を持して僕は再びなまえの唇に帰り着く。
再び深く口付けて、差し出される舌を自分のものとこすり合わせる。
震えて反り返っている背中に手を這わせると、衣服の僅かな凹凸から下着の在り処を探り当てられてしまった。
留め具を外してしまいたい。平素は隠されている肌にまで余すところなく口づけたい。叶えてはならない欲望だと知っているから、そのまま手を滑らせて腰を抱く。

なまえが僕に差し向けてくれる愛情は、大部分が友愛や家族愛に近いもので、そこに少し小さな女の子が抱くような淡い恋心のシロップを垂らしたようなものだと思う。僕とて彼女に対して恋情以外にも友愛や親愛を持ち合わせてはいるけれど、やはり比率が大きく異なるし、そこには彼女にはない劣情までもが加わる。
触れ合うというなんてことはない行為や言葉ひとつを巡って、自分と彼女の齟齬を知らしめられる都度、己の野生を認識させられた。野獣が人の服を着て、文明的に振る舞っているだけなのだと。

さっきよりも深く、長く、何度も角度を変えて、キスとは名ばかりの貪りを繰り返した。彼女が逃げ腰でありながら決して逃げないのをいいことに歯列の裏まで舐め尽くす。
腕に収めているくびれた腰を抱き寄せた時、勢い余って自分の腿の間の昂りを彼女に押し付けてしまった。

「……っ!? 待っ――、やだっ!」

僕を突き飛ばした彼女は蒼くこわばった顔を憂色に染め上げていた。
その双眸が僕にあの男の影を重ねていることは流星が流れ消えるような速度で理解できた。
零君……と彼女が先程まで暴いていた唇の奥で紡ぐ。僕の象を捉え、我に返り、眼前にいる男が自分を乱暴に踏み躙った男ではなく僕だと思い出して、しかし彼女は安堵より先に当惑を顔に塗りたくったのだった。

「ご、ごめん、零君」
「ごめんな……少し調子に乗った。怖かったな。最後までする気はないよ。だから大丈夫……僕からはそっちに行かないから」

共にソファの上にいる。僕となまえの間にある距離なんてたかが知れているが、そこには途方もなく深い溝があるように思えた。
ぱ、と両手を翳して降伏する兵士のようなポーズを取り、距離を詰める真似はしない。なまえはまた「ごめんね」と泣きそうな声で言いながら僕に手を伸ばしかけ、その手を引っ込めた。

「無理しなくていい。僕が怖いんだろう」

なまえは首を振るが、しかしこの状況ではそれ以外に答えようがないだろう。
欲をあけすけに表現している性器なんて怖いに決まっている。

「生理現象だから完全に抑えるのは無理だが……放っておけば収まるものだから、本当、気にしないでくれ……。それも難しいとは思うけど。とにかく僕はなまえをどうこうしようってことはないから」
「でも結婚したんだよ。私達」
「何度でも言うけど僕はセックスするために結婚したわけじゃない。なまえと一緒にいる権利が欲しかった。たまにこうやってキスやハグができればそれでいいんだ」
「私は、普通じゃないのはやだよ……」

僕は伏せられた彼女の睫毛が花に止まる蝶の翅のように震えるのを眺めていた。

「零君は気にしなくていいって言ってくれるけど、本当はね、ずっと、どうして普通の夫婦とか恋人みたいにちゃんとできないのかなって思ってた」

アルビノの鳥は群れから弾かれる。恣意的に翼にペンキを塗りたくられた鳥も、昨日まで仲間だった群れから拒絶される。
僕も、東京に越してきたばかりの頃の景光も、白い羽の雀だった。彼女はあの日、あの男によって異彩のペンキを塗りたくられた。群れを爪弾きにされた鳥同士で固まったのが僕らだった。僕は景光となまえという理解者さえいればこれ以上幸せなことはないと考えていたけれど、彼女は違う。色を変えられてしまった翼を元の色に戻したいのだ。そのために、かつての不幸を再演してでも。高校時代に僕を誘った折も、そんな意図も持ち合わせていたのやも知れない。

「日本の家庭の約半数がセックレスであるという統計データもある。単純計算で二世帯につき一世帯がレスだということになる……。これって性行為を行わなくても夫婦としてなんら不自然じゃないと言えるっていうことだろう。近年じゃあ無性愛……アセクシャルっていう誰に対しても性欲を抱かないセクシュアリティにも言及されるようになったし、恋愛や性愛が全てじゃない」

キスの興奮の余韻でまだ頭が煮立っている。よく回る舌で、雄弁にそんなことを垂れていた。
昔から口数の多い僕にいつも笑顔で耳を傾けてくれる彼女は、今夜もまた取り繕うように多弁である僕にくすりと笑みを零す。

「……重ねるようだけど、本当に気にしなくていいんだ。幼馴染でしかなかった頃は、当たり前といえば当たり前だけど、そんなことしなくても仲良かったじゃないか。それに……僕だって周りから見たら充分普通じゃない。普通の日本人の髪の色じゃない。普通じゃない者同士、お似合いだ」

己を嘲るようにおどけて首を傾げると鬱陶しいくらいに照明を集めて光る自分の髪が睫毛の先で揺らめいた。
冗談めかした声色で紡いだにも関わらず彼女は僕の言葉にまるで我が事のように眉を顰める。誰に爪弾きにされても、君や他の誰かがそうやって僕の代わりに怒ったり悲しんだりしてくれるだけで、今はもう充分なのだ。

「そんなこと言わないで」
「ならなまえもそんなこと気にしないでくれ」

彼女は僕の襟足を一房掬って撫でた。
……そのあと、ひとりきりでトイレに篭り、熱を収めた。どれだけ紳士の演技が板についても、ペニスを握る折に瞼の裏に描くのはなまえの顔で、鼓膜に呼び起こすのはなまえの鼻にかかった嬌声と泣き声で。あの子の無垢な少女のような瞳の前に自身のそそり立つ芯を突きつける妄想をしながら、限界まで張り詰めたそれの先から白濁とした子種を開放した。
嗚呼、糞ったれ。僕は一体何をしているんだ――?


2023/07/12
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