比翼のアルビノ

17.凛々しくいられない日々のために

松田と萩原にも随分と早いうちから機動隊の爆発物処理班から声がかかっていたように、在学中から引き抜きの打診をされることは珍しい話ではない。
返事の期限が目前まで迫る中、未だ僕の回答は煮えきらなかった。
迷いを帯びた指先で黄緑色の受話器を握ると、すっかり掛け慣れたなまえの番号にダイヤルする。僕を躊躇わせる一要因である彼女に連絡をするなんて間違っているのだろうけれど、こんなときにこそ思い浮かぶのはあの笑顔なのだ。

「もしもし、僕だけど」
「ふふ、今日は零君ひとりなの? 交代制?」
「まぁ、そんなところ」

この前は景光だけだったもんな、なんて声のトーンを吊り上げて明るく喋ってみるも、不自然さが拭いきれない。

「なまえ……僕――」

――警察庁の公安部から勧誘を受けた。
口に乗せはしなかった、脳をぐるぐると駆け回っていること。公安と言えば暗躍という言葉の似合う、秘密めいた組織だ。幾ら彼女とはいえどそれを打ち明けることはしなかった。

「ごめん……。言えないんだけど、迷ってることがあって」
「そっか。答え出るまで話してよっか」
「ありがとう」

気を揉んでくれたのか彼女の方から話題を振ってくれた。最初は互いの近況のことを話していたが、すぐに話題は尽きて、公衆電話の設置されている壁際にひとり沈黙の墨を垂らしていく。
虚無感を誤魔化すように掌に用意した硬貨数枚を摘んで、側面のざらりとした感触を指で追う。

「やりたいことがあるんだ。でもその為には色々捨てなきゃいけなくて。多分、卒業したらしばらく会えない。連絡もできないと思う。外で会ったら他人のふりをするかもしれない。最悪、一生」
「それは……寂しいね……。でも零君のこと止めたくないな。零君は何をやっても良い結果を出せるから、きっとその道を選ばなくても、どこででもやっていけちゃうと思う。それで幸せならそれでもいいと思うよ。でも、妥協して後悔するなら、しないでほしいかな。私は零君本人に突き放してもらえるなら、ちゃんと納得するから、やりたいことをやってほしい」

そうやって、彼女はどんな応援歌よりも背中を押してくれる。

「私、零君のいろんなことに興味を持って、すぐ極めちゃうところ好きだよ。誰かに遠慮してそういう生き方やめちゃうのは、やめてほしい。零君のいいところだと思ってるから」

なまえとの思い出があれば、僕はどんな壮大な使命にさえ舌鼓を打てるだろう。国のために生きていくことに立ち行かなくなったとき、彼女のくれた言葉がきっと僕をまた歩ませてくれるに違いない。今後の僕の人生に彼女の影が差すことがなくなったとしても、積み木のように積み上げた思い出が僕を導く北極星になってくれる。そんな確信があった。

しかし、ほとんど固まりつつある決意を揺るがせる、たった一つの懸念もまた彼女なのだ。僕はこの子の涙の零れ落ちる音はひとつも聞き零したくない。彼女の涙を拭う役目だけは有象無象には任せられない。いつでも駆けつけられる自分でいたい。その権利が欲しい。彼女はどうしても手放したくない、たった一つの星なのだから。

「なまえ、僕と――」

箒星のように心に飛来した、たったひとつの冴えた名案を、唇に載せようとして。

「……いや、これは直接言いたい。今から会う……のはさすがに無理か。悪い、暇な日教えて貰えるか」
「待って、門限何時だっけ? 20時?」
「あぁ、そうなんだけど19時半には戻ってないと駄目なんだ。すまん、軽率なこと言った」
「大事な話、なんだよね……?」
「そう、だな……」
「なら今から車出す。5分でも10分でもいい。会って話そう」
「は? 今!? さすがにそこまでしてもらうわけには」
「大事なことなんでしょ? なら遠慮しちゃ駄目! 零君だっていつも大事な時にすぐ来てくれたじゃない。私にも同じことさせてよ」

見返りを望んだことなんて一度もないのに、こんなときにこれまでの彼女への献身が連鎖した。
20分で着くから、と言って彼女は慌ただしく電話を切った。腕時計を見ると現時刻はちょうど19時。彼女が予告通りの時間に辿り着いてくれたとして、本当に許された猶予は10分程度しかない。
僕は慌てて自室に戻ると、焦燥する手で制服を脱ぎ捨て、組み合わせなど気にもとめずに目についた適当な私服に着替えた。鏡に自分を映して一応のチェックをしたのち、出入り口の警備員に会釈をして表へ出る。
熱くなった表皮に吹き付ける夜風は白々しいほど冷ややかで、なまえを待つ間に温かい缶コーヒーとミルクティーを買った。
程なくして、見知ったナンバーの軽自動車が夜闇の向こうから走り寄ってくる。まばゆいライトに目を細めつつ、近寄ると、ドアを開けた彼女が僕に駆け寄ってきた。

「おまたせ! 話って何?」

言葉を用意していなかった僕が言い淀むと、彼女はへにゃりと笑う。

「あ、えっと、いきなりじゃあれだよね。とりあえず乗る? 座ったほうが落ち着けるよ」
「あ、嗚呼……ありがとう」

壁に耳あり障子に目あり。いつ人目に触れるとも知れない校舎前で口にする勇気もなかったので、彼女の車に乗せてもらえるのは助かった。
開けたままの扉から運転席に潜り込む彼女に倣い、僕も助手席に乗り込む。
なまえは「邪魔にならないところに移動するね」と断ってハンドルを握り、緩やかに車を発進させた。校舎と眼の鼻の先の道路から少し外れたところに改めて停め直すと、おずおずと遠慮がちに僕を見上げる。
その視線には気付いていたが、適切な換言が出来る気がせず、時間稼ぎとして座席の間のドリンクホルダーにミルクティーのボトルを差した。
ねじった体は戻さず、そのままなまえと向き合う。
僕は吸った酸素を吐き出すと同時に、人思いにその言葉を開放した。

「結婚してくれ」
「わかった」

彼女は今何と言った?
浪漫の欠片もない、日常の延長線上で一世一代のプロポーズを行った僕も僕だが、コンビニに行くついでに牛乳買ってきて、と言われて頷くようなあっけなさで受ける彼女は、なんだ。僕は都合のいい夢にでも溺れているのか。

「は……? いいのか? 自分で言っておいて言うことじゃないとは思うが、ちゃんと意味わかって言ってるよな? 結婚だぞ?」
「何狐に摘まれたみたいな顔してるの」

ルームミラーに反射する青褪めた自分の顔とは裏腹に、隣席の彼女は子供の失敗を優しく許す親のようにくすくすと笑っている。

「……普通即答されるとは思わないだろう。しかもそんな澄ました顔で」
「私零君のこと好きだよ。だから嬉しかった。ただの友達じゃ縁切らなきゃいけないなら、結婚して一生一緒にいたい」

だから渡りに船なのだと。そんな言葉ではにかんだ。

「ちょっっ……と待ってくれ。一旦僕の話聞いてくれないか? それからにしよう。な?」
「え? うん。ふふ、いいよ」

なまえのあまりに潔い即答に、心をかき乱されているのはプロポーズをした僕だなんて情けない。

「結婚して一緒に住んでもどれくらい帰れるかわからない。結婚式も挙げられない。秘匿性が他と段違いだから、仕事については隠し事ばかりになる。君には寂しい思いをさせることは目に見えてる。それでも言ったのは、ただの俺のエゴだったのに」

願ったり叶ったりのはずなのに、なぜか勧告のような忠告のようなことを長々と語る。

「そんなこといったら私だって……セックスとか、できないよ」

なまえの指が膝の上で握られ、スカートに皺を寄せている。伏せられた睫毛の下でその瞳は何を見ているのだろう。

「セックスがしたくてプロポーズしてるわけじゃない。君と一緒にいたいんだ。君を離さずにいる方法がこれしか思いつかなかった」
「そうなの? 零君頭いいのに」
「余裕ないんだ、仕方ないだろ」
「そんなに悩んでたんだね」

よしよしと彼女が僕の頭撫でてきた。真似るようにその頬を撫でると、ぴくりと瞼を震わせはしたが、甘える子猫のようにすり寄ってくれる。
そっと背中に手を滑らせれば僕の意向を汲んでくれ、シートの軋む音を連れてこちらに凭れ掛かる。「待て」の状態から「よし」の一言で開放された犬みたいに、僕はなまえを抱きしめた。
服を隔てて互いのぬくもりが広がって、馴染んでいく。堪らなく幸せだが僕らを追い立てるように終わりの時間は近づきつつあった。

「卒業したら籍を入れよう」
「うん……」

耳元でそう告げると、かかった息がくすぐったかったのか、彼女は幽かに震える。
そろりと抱き締め返してくれるあたり嫌悪感は抱いていないようだ。

「卒業式も僕の婚約者としてきてくれ」
「えっ、婚約者?」
「結婚の約束をしたんだ、そうだろう?」
「そっか、婚約者になったんだ、えへへ。わかった。招待してね」
「ああ。それと、指輪も買おう。どれがいいか決めておいて。今はあんまり高いものは買ってやれないけど、出世したらいいものを贈り直すよ」
「私も半分出すよ」

格好がつかないなどと自分で自分に呆れながらも、縋り付くにも等しい抱擁を緩められずに居た。

「30分になったら戻る。それまでここにいさせてくれないか」
「わかった。10分って早いね」

横目に見た車内の時計が指すのは19時26分……あと4分。
たったの4分後の近すぎる未来には、自分はもうこの腕の中の大切なぬくもりを手放さなければならないのだ。

「なまえ……キスしたい」

いいよ、と音のほとんどが吐息の中に溶け切った、囁き声が鼓膜をくすぐる。
自身のもみあげを耳の裏にかけた彼女の手をそっと掴んで、指を結び合う。はにかむ瞳が瞼の裏に隠されると、恐る恐るその唇に自分のそれを重ねた。繋いだ指で手の甲を撫でれば、くすぐったそうに鼻を抜ける声。

「ん、ふふっ……珈琲飲んだ?」
「ああ、さっきな。苦かった?」

舌を入れたら怖がらせるだろう。本当はキスを続けるために必死に上向きにされている顎を指でなぞって、内側からも此処を撫でてやりたい。粘膜を乱暴に擦り上げて、唾液を交換したい。叶えてはならない欲望を、紙くずを丸めて捨てるようにもみ消す。
ぎゅ、と指同士を絡めて重ねた手をよりきつく繋いだとき、彼女の方からキスを打ち止められた。

「長い、よ……恥ずかしい……」
「あと2分だから」
「時間までずっとするの?」
「だめか?」
「しょうがないなぁ……んっ」

長く、眠りの浅瀬で見る白昼夢のように浅いキスにまた溺れていく。
それ以上深まりもせず、どこに行く宛もない。ただ互いの平熱と大差ないぬくもりを分け合うだけの戯れなのに、躰の末端が麻痺していた。唇を割って舌を引きずり出すのを堪える代わりに、指の付け根や爪を骨の細さがわかるくらいにすりすりと撫で擦って。

「れいくん、じかん」
「こっちに集中して。僕が見てるから」
「ん……ふっ……」

瞳を転がして見遣った時計は無情にも1分を切っている。
自分の中にも彼女の中にもこの瞬間を焼き付けるように子供じみたキスを続け――そして約束の時間が来てしまうと、僕はそっと彼女を開放するのだった。

「また今度、だね」

頬に朱を乗せたなまえが名残惜しむような甘い声で別れの言葉を口にする。
助手席の扉を軽く開ければ、隙間から迷い込んだ夜風が僕を連れ出すように服の裾を引いた。

「気をつけて帰れよ」

もう一度、触れるだけのキスを落としたあと、僕は表へ出た。
窓越しに彼女と手を振り合い、車が唸り声を上げると急ぎ足で寮に戻る。
夢心地の時間から帰ったばかりの頭はまだ茹で上がったままで、めいめいの寝室に繋がる扉だけが並ぶ殺風景な寮の廊下さえ、煌めきを散りばめたように彩られて見えた。
汗ばむ指でくちびるをなぞり、あの子の感触を神経の上に呼び起こす。あの血が沸騰して湧き踊るような瞬間は夢じゃない。約束だって、きつく結ばれて、二人の間にちゃんとある。

「ヒロ、いるか? 話があるんだけど」

真っ先に報告しなければならない相手と言ったら、やはりこいつだろう。親友の部屋の扉を叩くと、ややあって中からぱたぱたと足音が響く。
水の入ったグラスを片手に扉の隙間から顔を出した景光は、私服姿の僕をひと目見て「どこか行ってたのか?」と問い、中に迎え入れてくれた。「まぁちょっと」と適当に流すと、「ふうん」と鼻を鳴らしてヒロは手にしていた水を一口飲んだ。
自分の背後でぴたりと扉が締め切られるのをしかと確かめ、ここが完全な密室となったことを確信したのち、僕は口火を切る。

「卒業したらなまえと結婚することになった」

お前には一番に聞いて欲しくて、と続けようとした僕の言葉を遮ってヒロが口に含んでいた水を吹き出す。

「ぶっ!! 結婚!? え!? オレ聞いてないんだけど!? 付き合ってたなら言えよ! 水臭いな!」
「いや、付き合ってはない」
「え?」
「この前ちょっと悩んでるって言っただろ」
「ああ、うん、例の言えない悩み?」
「そうだ。その件で色々考えて、勿論伏せてだがあの子にも相談してるうちに……なんというか、流れで……」
「流れでプロポーズしたの!? 指輪は!? 女の子にそれは酷くないか!?」
「だ、だよなぁ? 失念してた……」

今になって己の準備の悪さが恥ずかしくなってきて、あー、だの、うー、だの奇声じみた唸りを垂れながら僕はその場にしゃがみこんだ。

「まさかあのゼロがノープランでプロポーズするとはね。頭いいのに軽率だな」
「それなまえにも言われた」

からかうような口調で笑ったヒロが、座れよ、と言ってベッドを指し示す。言葉に甘えてマットレスに腰を下すと、ヒロもよいしょと隣に座る。

「……ヒロ、ちょっとなまえのこと好きだっただろ」
「ちょっとどころじゃないけど」
「すまん」
「謝るなよ。オレたちで守らなきゃって思ってたから。でも、そっか、ゼロと結婚かー。薄々思ってた。あの子がゼロと付き合えば安心なのにって。ゼロの魅力はオレが一番よく知ってるし」
「それは僕も思ってた。知らない男に奪われるくらいならヒロのこと好きになればいいのにって。ヒロならなまえのこと幸せにしてくれるだろ?」
「といいつつ自分が掻っ攫って行くんだから抜け目ないよな」
「すまん……」
「だから謝るなって。もちろんあの子のことは自分で守れたらって気持ちもあったけど……。ゼロとなまえが結ばれるのは、嬉しい。ちゃんと心から祝福するよ」

ふっ、と目元を綻ばせ、嘘偽りのない微笑みを浮かべるヒロを見て、本当に僕は友人に恵まれているのだと、己が果報者であることを強く自覚した。

「結婚式、呼べよ」
「あー、時期によってはフォトウェディングになると思う。安心しろ、なまえの写真は送ってやるから」
「楽しみにしてる」

それから消灯の時間まで思い出話に花を咲かせた。
中学時代、高校受験を目前に僕と景光でなまえの勉強を見てやったこと。事件以降男性は怖いけれど、父親以外では2人だけは怖くないのだと打ち明けてくれた彼女に、自分たちが守らねばと決意したこと。毎年ハロウィンやバレンタインシーズンには景光が凝った菓子を作るので、それを三人で分けて食べたこと。高校時代、バレンタインを翌週に控えた頃に彼女が景光にお菓子作りを教えて欲しいと申し出て、僕ら2人がそろってぎょっとしたこと。

「あの時は結局友達との交換用だったんだよな。あとご両親にあげようとしてたんだっけ?」
「そうそう。で、オレたちにもサプライズで作ろうとしてくれたのに、結局あそこで言わせちゃって怒られた」

夏はプールにも海にも行って、花火は夜空に咲く大きなものも手元でちりちりと光る儚いものも両方楽しんだ。
大学入学後、成人してからは酒に凝りだした景光がよくカクテルを振る舞ってくれて。
一晩で語り尽くすには多すぎる思い出をベッドの上に並べていくうちに、夜は更けていく。



翌朝、食堂にて。

「どうした、降谷。朝からテンション高そうだが」

僕と景光の迎えの席に着いた伊達班長が箸を取りながらにいと笑った。
なんでばれたのだろう、そんなにわかりやすかったか、などと思いながら白米を口元に運んでいると、僕に代わってヒロが答えてしまう。

「ゼロ、婚約したからね。機嫌いいんだよ」
「婚約?」
「婚約って……結婚っ!? 彼女いねえんじゃなかったのかよ、ゼロ!?」

思わぬ単語に眼を丸くする班長の背後で、トレーを持って歩いていた松田が叫ぶ。

「詳しく聞かせろ、ヒロの旦那」

凡そ警察官の卵らしからぬやくざめいたにやつきを浮かべ、松田は班長の隣りにどっかりと座った。

「それがさぁ、ゼロったら、付き合ってもいない幼馴染の女の子に突然プロポーズしてオッケー貰ったんだって」
「幼馴染って例の子? あの子はそんなんじゃない〜とか言ってたくせに隅に置けないねぇ」

今度は松田の隣にトレーを置いた萩原が乱入してくる。
人の恋路をエンターテインメントとでも思っているのか。

「お前らうるさい!」


2023/07/03
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