比翼のアルビノ

16.日常の中にある羽化

7時までに帰宅できた日はそのまま速やかに風呂を済ませ、必ずすぐに手の届く場所に携帯端末を用意した上で食事の準備に取り掛かったり、部屋の掃除なんかに取り組んでいく。それが新社会人になってからの私の新しい日課。
そうして年甲斐もなく毎晩決まった時間に着信音を鳴らす、幼馴染からの連絡を楽しみに待つのだ。待ちきれないなんて、2人にばれたら呆れられるかも知れない踊る気持ちを、心臓の裏側に隠しながら。

電話をかける時、零君は名乗らない。大体その第一声は「僕だけど」で、まるで詐欺の手口みたいな。景光君はその辺彼よりも少しだけお行儀が良くて、電話口では毎度律儀に名乗る。
私も気の知れた相手との通話では名乗り忘れることもあるけれど、公衆電話からかかってくる彼らの電話は非通知として表示されるから、会社で電話を取るときのようにかしこまった言葉遣いで苗字を言う。もちろん、今日も。
私はキッチンの台の上で震えた携帯端末を手に取った。

「はい、みょうじです」
「あ、なまえちゃん。オレ……景光、だけど」

電話口で真っ先に挨拶をするのは零君であることが多いから珍しい。なんて思いながら、今夜は二番手に甘んじているのであろう零君の声が彼の後ろに続くのを待ってみるけれど、一向に「僕だけど」という一人称を述べるだけの声は聞こえてこなかった。

「あれ、今日は零君いないの?」
「うん……ちょっとなまえちゃんに報告したいことがあって、2人にしてもらった」
「報告?」

首を傾げて聞き返すと、ヒロ君が少し口籠ったのがわかった。躊躇を孕んだ、淀んだ息。急かさずに彼が意を決してくれるのを待ち続けていると、浅い嘆息のあと、口火を切った。

「――長野でオレの両親を殺した犯人がやっと捕まったんだ」
「そっか……。よかった。本当に」

ほろりと涙が零れ落ちる。目の奥の熱さをそのまま移し替えたみたいに、頬に零れた雫も熱い。
それが愛娘の死を受け入れられない余り、都合のいい幻想に囚われた男の犯行であったこと。その男が娘にそっくりの女児を誘拐し、その事件現場に景光君と零君、その同期の人たちが駆けつけたことで、死者を出さずに解決できたこと。つい先日のクリーニング店での爆発騒ぎも、その長野の事件と誘拐事件の犯人によるものであったこと。爆発に関する報道では警察学校の生徒が現場に居合わせたとの報道だったけれど、よもや彼らのことだったとは。
少し前のコンビニの立て籠もり事件といい、大型トラックが建設中の高速道路から落下した事件といい、入学からたったの一ヶ月でどうしてこうも恐ろしいことに巡り合うのだろう。
続け様にことの詳細を語ってくれているヒロ君に、余計な口を挟まずに相槌だけを打っていたこともあり、彼に私が泣いてしまっていることは露呈していないようだった。
景光君のことだから私が泣いたと知れば優しく慰めてくれるのだろうけれど、今この話の主役は私ではない。ひくついて嗚咽を漏らしそうになる喉を必死に抑え込む。

「あれから段々昔の夢を見ることも減ってきてさ。よく眠れるようになったんだ」
「よかった。少しずつ良くなってるんだね。私も嬉しい」

心から彼の悪夢の終わりを喜べるのは、過ぎたことに毎晩魘される苦痛を私自身が身をもって知っているからだ。私はまだ、あの夢の中にいる。彼とは異なり、私の事件は犯人だった男はすぐに逮捕されて、中学の頃に終演を迎えているはずなのに、いまなお私を竦ませる。
景光君が我が事のように私の痛みに想いを巡らせてくれたように、私も彼の夢の終わりを祝福していた。
事件が解決しても解氷しないわだかまりはいまもある。それのせいで2人にも迷惑をかけたし、共に事件の被害者という立場で、似たものを抱えていた景光君は特に私に甘かった。零君はいつも私の手を引いて新しい世界に連れ出してくれる黎明のような人だけど、景光君は痛んでやまない傷跡をただ認めてくれる、あたたかすぎる闇。まるで運命共同体のようだとも感じていたのに、いつの間にか彼だけが明日へと踏み出している。

「ヒロ君はすごいね。その犯人のこと、助けちゃうんだから」
「あのときは居ても立っても居られなくて、体が勝手に動いてたんだ。……それに罪はちゃんと償ってほしかったし」
「すごいことだよ、それって」

私にはできないもの――それが、続けたかった言葉。
まさしく正義という清らかな豪剣を心に宿している、日向の世界の人。私とは違う。
もしもあの忌まわしい思い出の中の暴漢が再び檻から解き放たれたとして、その現在の異住居を公的機関から告知されたとして、あの化け物の名前を再び眼にしたとして、私は平静でいられるだろうか。憎しみや殺意に囚われずに、服役によって彼の罪はもう洗い流されたのだから十分だと許すことができるだろうか。
――無理に決まっている。
復讐心を燃やすどころかあの顔も名前も意識の隅にさえ置きたくない。憎しみに心を染めることができないほど、私は今もあいつがただただ怖い。他の感情を抱く余裕もないほどに。

「でもね、オレも許したわけじゃない。だからこそ自殺なんてせずに、ちゃんと裁かれて、償いをしてほしいと思ったわけだし。許せないことと、死なないでほしいことと、喪った家族への気持ち……これって全部心のなかで共存することだと思う。説明するにはぐちゃぐちゃしてるけど、オレなりに整理はついたんだ」
「……っ、うん……っ」

強くて優しい彼の言葉に私は何度も頷いて、彼の結論を咀嚼して。景光君が前を向いたことを喜ぶ気持ちと、彼のようにはなれない自分への劣等感と、そんなこんがらがった劣等感すら丁寧にほどいてくれる彼の言葉、その全部が心の傷に染みて、痛くて、くすぐったくて、泣いてしまった。
景光君は慌てもせずに、しゃくりあげる私に優しい言葉の雨を降らせ続けた。

◆◆◆

「降谷か。今日、警察庁の方がお見えになっているんだが、お前と話がしたいそうだ。このあと時間を空けておいてくれ」
「警察庁、ですか?」

講義の終わり際、僕を呼び止めた鬼塚教官はそんなことを仰った。
反復するように問い返した自分の唇は柄にもなく少しだけ震えている。
当然だ。警察庁と言えば、内閣総理大臣の所轄の下に置かれた国家公安委員会の管理する組織で、警視庁を始めとした各都道府県の指揮・監督を執り行う華形。警視庁及び各県警の警察官は地方公務員だが、警察庁の警察官は国家公務員にあたる。

「お前ほどの成績ともなれば在学中からスカウトがかかるのも至極当然だ。無論スカウトと決まった訳では無いが、しっかりと話を聞いて将来の選択肢として前向きに考えるといい」
「はい」

返答は思わず凛々しい声色となり、背筋は自然と正された。
――結論から言えばそれは紛れもなくスカウトだった。
是非にと推された部署が秘匿性の高い部署なだけに他言無用と釘を刺されたため、幼馴染の親友にすら相談できない。
もし承諾すれば卒業後には僕が在学していた形跡は全て抹消され、国家という舞台の黒子として秩序の維持に貢献していくことになる。自分の能力が評価され引き寄せた縁だということを思えば喜ばしいことだが、半ばこれまでの人生を放棄することにも等しいのだ。
国のため、誰にも知られずに燃え尽きる流れ星になることを一朝一夕には決められない。二十歳そこらの若者には重い決断だ。
自動販売機で気晴らしに購入した缶コーヒーはプルタブを開けたきり口も点けずに手の中だ。
滅私奉公。選んだ先に待っているのは、きっとそんな生涯。
暗い自室でひとり、あらゆるものを天秤にかけて、自分の中でのその価値をひとつずつ推し量っていく。

――顔、見るだけ。見るだけなら、いいだろ。相談はしない。

相談はしない。ひとつの制約を胸に景光の部屋の扉を叩くが、返答はない。
そういえば長野の事件のことを報告したいからと今日はひとりでなまえに電話をかけるのだったか。腕時計を確かめ、そろそろ終わる頃だろうと公衆電話の設置されている共用スペースまで足を運ぶ。
スペース内を覗き込むと、まだ景光は通話中のようだったので、邪魔しないようにと少し離れた位置から見守ることにした。
何の話をしているのだろう。例の事件の報告は一通り済んだのか、朗らかな表情で団らんを楽しんでいる。話の内容は気になるが、このまま終わるのを待つ……つもりだったのだが。不意に受話器から視線を浮かせたヒロの猫目が僕の方に向いた。やば、と肩を浮かせると、おーい、と手を振られる。

「なぁ、ゼロ! ドラえもんでテレフォンカードのひみつ道具出てくるのってどの話だっけ!?」

……本当に何の話をしているんだ。

「『ザ・ドラえもんズ』の伝説のひみつ道具の『親友テレカ』だろ。あれはテレフォンカードじゃなくてテレパシーカードの略だ」
「そっか、ありがとう! ――あ、なまえちゃん? ドラえもんズだってさ。親友テレカってやつ。テレフォンじゃなくてテレパシーのテレらしい。……うん、そうそう」

本当に何の話をしているんだ?
でもどうしてか、頭の靄は晴れて、澄み渡った心で腹を抱えて笑うことができた。


2023/07/02
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