比翼のアルビノ

15.ひなたの眩しさに解を求める

そうして警察学校での日々が始まった。入学後早々に松田に喧嘩をふっかけられ、夜桜のもと殴り合ったり、初めての射撃訓練では銃弾の紛失、さらには教官が宙吊りになったりと、退屈を感じる間もないほどにトラブルが絶えない。
就寝までの自由時間は、へとへとの体で実家や恋人のぬくもりを求める生徒達で、数に限りがある公衆電話の前に噂以上の列ができる。母親らしき電話の相手に毎日きついと泣きつく同期の声を聞きながら、僕とヒロは今日の講義の話をしながら順番を待っていた。校内にも寮内にも携帯端末はもちろん娯楽もないから、こうして手持ち無沙汰で会話をするのは、遊び道具の数が少なかった小学校の頃を思い出す。

「あ、空いた」
「行くか」

いつの間にか列の頭にいた僕らは、前の生徒が電話の前からはけていくと、待ちわびたとばかりに移動する。

「あれ? お金出てきちゃった」
「一回受話器持ち上げてから硬貨入れるんだよ」

投じた硬貨がすぐに吐き出されてしまったことに眼を丸くしているヒロの横で、こうやって、と僕は明るい黄緑色の受話器に手をかけた。もう一度ヒロが硬貨を投入すると、今度こそ発信音が聞こえる。ヒロが使い方に疎いのも無理はない、幼少期から携帯電話が普及していた僕らくらいの年代だと電話ボックスすら使ったことも……下手をすれば眼にする機会すらほとんどない。僕が知っていたのだって、公衆電話は110番通報や119番通報であれば無償で利用出来るから、いざというときのために心得ていたというだけだ。
ともあれ、暗記してきたなまえの電話番号にダイヤルする――。

「あ、もしもし。みょうじです」
「なまえ? 僕だけど」
「オレもいるよー!」

自分の耳と口に寄せていた受話器をくるりとひっくり返し、僕と距離を詰めたヒロの声も拾うようにそちらに向ける。グループ通話ならこんなにくっついて話す必要もないだろうに、とは思わないでもないが、10年以上一緒にいる幼馴染なので嫌悪はなく突き放す気もおきない。
古びた機種で再現される彼女の声はどこかに新鮮さが香っていた。

「……それでね、ゼロってば初めての射撃で全弾ほぼ的の中央に当てちゃってさ」
「すごい! ゼロ君もさすがに銃は撃ったこと無いのに。本当に何でもできちゃうね」

彼女が今どんな顔で受け答えをしているのかは容易に想像がつく。僕が仕入れてきた新しい知識をひけらかすと、そうなんだ、知らなかった! と笑って頷いてくれるときと、きっと同じ顔をしている。
幼馴染2人に褒めちぎられて満更でもないが、照れ臭さで顔が茹で上がりそうだったので、横から口を挟んだ。

「でも僕以上の凄腕の先輩がいたって教官言ってたじゃないか」
「その人、もう退職しちゃったんでしょ? ならゼロも警察官トップの射撃の腕、狙えるって」
「どうせならその人と競って勝った上で一番になりたいけどな」
「零君は向上心すごいねぇ」
「まあ退職されてるなら今後会うこともないだろうけれど」

まさか未来で身分を偽った上でとは言えその人物に師事することになるとは夢にも思わず、だからこそ飛び出た軽口だった。



別の日。
そろそろ桜の木々も花びらを散らし始め、彩りが寂しくなりつつある4月半ば。お決まりの時間、いつものようにヒロと2人で公衆電話の使用権を勝ち取り、彼女に電話をかけるとやはりすぐに通話が繋がる。彼女の端末には非通知と記されているのか、やはり開口一番は「みょうじです」という他人行儀な名乗りだ。「僕だけど」「オレ、景光」とそれぞれで名乗ると、「二人共!」と電話口の声色がワントーン明るくなる。
ふと彼女の声の背後に随分と近い車のエンジンの唸りや、風の音を見つけ、もしやと思う。僕に代わって問いを口にしたのは、ヒロだった。毎度ながら受話器を共有するために僕らはくっついている。

「もしかしてまだ外?」
「初残業で遅くなっちゃって。夜道だから電話来てちょっと安心しちゃった。いまNOWSON過ぎたとこ」
「なら家まで10分ってとこか。着くまで切るなよ」

心配だから、と僕が言う。

「うん、ありがとう」

かつかつ、とヒールがコンクリートを打ち付ける小気味良い音が電話の裏から響いてくる。
それにしても、と僕は切り出す。

「残業させられるまでが早いな。ブラックだったりするんじゃないか?」
「やめてよ〜。実はそうじゃないかって薄々思ってるんだから。新人は早く帰れって言って貰えるけど、それって新人じゃなくなったら帰して貰えないってことかなーとか」
「大丈夫さ、僕たちも来年には滅私奉公だから……」
「それ大丈夫じゃないよね。でも呼び出されたりする分、零君とヒロ君の方がハードか」

これくらいで音を上げていられないよね、なんてなまえは言う。こうやって意図せず我慢に誘導させてしまうのならからかうのではなかったと僕は少し後悔した。

「でも無理はするなよ、人にはキャパシティっていうものがあるんだし。法律関係なら多少相談には乗れる」

と付け加えれば、「うん!」と受話器越しにいいお返事。
僕とヒロは大抵公衆電話前では肩をくっつけて同時にスピーカーから流れる彼女の声に耳を傾けているが、この電話の仕方に慣れる頃には喋るときは順番という暗黙のルールが出来上がりつつあった。そのとき喋る方が受話器を持って、片方は受話器の裏からスピーカーに耳を押し当ててなまえの声を聞き、時折茶々を入れる。
あくびを噛み殺しながら、帰路を行く彼女の言葉を聞いていた。ふわ、と受話器を握っているヒロが僕の呑み込んだ分を取り返すようにあくびを零す。それを聞いて、「ふふ、眠い?」なんて彼女の優しい声。頷いてしまいたくなる。

「オレ達、昨夜当直の登板でさ……。徹夜明けの今日が警備実施で……あー、機動隊員の装備をつけて走り回る訓練だったんだけど、おかげでオレもゼロもへろへろ」
「わぁ……大変だったね。お疲れ様。早く寝てね? っていうか私のことはいいからもう休んだら?」
「そんな事言わないでよ、なまえちゃんと話すのが今のオレ達の癒やしなんだから」
「えっ、大袈裟だよ、恥ずかしい〜……」
「あはは。でもここ、本当に娯楽がないんだ。だからオレのためだと思ってこのまま電話させて? 切られる方が退屈で死んじゃいそうだよ」

入学前、なまえが夜は直ぐに電話に出られるよう待つと言ってくれたときはそこまでしなくてもと遠慮した僕らだったけれど、連日の過酷な授業に磨り潰されて、今では彼女に砂漠で唯一の湖のような存在と感じるようになっていた。
夜道を案じる気持ちも無論あるが、できる限りたった一輪の花のようなこの瞬間を長く味わっていたいというのが一番なのだ。



陽が凶悪な顔をちらつかせ始める、若葉と葉桜の季節。
入学後、1ヶ月も経つとようやく生徒の外出泊が許可されるようになる。
浮き足立つ僕らは初週の週末、真っ先に彼女を誘って久しぶりに3人で集まろうという計画を立てていたのだが……。

「楽しみだね、今週。会うのって一ヶ月ぶり? 子供の頃からほぼ毎日会う生活してたから寂しかったよ〜」
「あー、それなんですが……」と、僕。
「残念なお知らせがありまして……」と、ヒロ。
「え? なんで敬語?」

お決まりの夜の公衆電話前。嬉々とした声色で週末の予定を口にする彼女に、揃って肩を萎めた僕とヒロはおずおずと切り出す。

「僕らの教場……クラスみたいなとこで、一人やらかしたやつがいて……」
「連帯責任でオレ達も今週外禁になりました……」
「外禁って?」
「外出泊禁止……」
「嘘! 週末の約束、無しってこと!?」
「そうなるな」
「ほんっとごめん! なまえちゃん!」

ヒロは話し相手が眼前にいないにも関わらず、ぱんっ! と両手を合わせて全身で謝罪の意を表明していた。

「な、なんで謝るの? 確かに残念だけど、二人がなにかしたせいじゃないんでしょ? 仕方ないよ。やっちゃった人にはちょっと文句言いたいけどね……」
「そいつならみんなからしこたま睨まれてたよ」
「あはは、私の分もちょっとだけ睨んでおいて。ちょっとだけね」

唇の乗せた乾き切った苦笑いに、一滴の和やかさが垂れた。約束する、なんて冗談めかして笑う。



3人での遊びの約束は外禁の解ける数週間後に持ち越しとなった。
急なキャンセルの詫びとしてなまえの好きなところに行こうと提案すると、上野の博物館で執り行われている宝石展と、SNS上で有名だというアーティストの個展を3件ほど梯子することになる。

「あ、チケット、幾らだった?」

財布を取り出すヒロをなまえが笑ってたしなめる。

「もう、今日は私が出すって言ったじゃん。初任給で奢るって約束でしょ。だからいいんだよ」
「そうだった。ありがとうね、なまえちゃん」

申し訳無さそうに眉を寄せてヒロが引く。

「ね、小銭多くない? お財布ぱんぱんだよ。それだと重いでしょ」
「あー……すっかり崩す癖ついちゃって。あれだよ、公衆電話のために小銭作るようにしててさ」

悪戯が露呈した子供でもあるまいに、ヒロは罰悪そうになまえの視線から自身の膨らんだ財布を隠した。「まあそうなるよな」と僕も同調する。小銭をなるべく消費してしまわないように努めて紙幣を出しているうちに、自分の財布も似たような状態となっていたからだ。

「ふふ、またお揃いの小銭入れでも買ってあげようか」

彼女は冗談とも本気ともつかない自然な笑みを浮かべる。3人の中で収入を得ているのが自分だけだからといって少し浮かれているのだろう。初任科生の僕らにも給金は支払われるが、雀の涙だ。
僕はちらりと、毎日欠かさず身に着けている、入学祝いに贈られた腕時計を横目に一瞥する。

「そういえばヒロの奴、寝るときまで君がくれた腕時計してるよ」
「そうなの? 大事にしてくれるのは嬉しいけど、寝るときは外さないとむずむずしない?」
「あれは規則が時間に厳しから逐一チェックするためにっていうだけで……。オレ以外でもそういう奴多いよ。時間に追われる生活だから」

なるほど、そういうことか。大切にするのはわかるが幾らなんでも過剰ではないか、なんて思っていたが、謎が解けた。
購入したチケットを提示し、博物館に足を踏み入れる。宝石展では装飾品として加工する前の剥き出しの鉱石から、熱して色を鮮やかにされた宝石、撮影不可とされる特別室で外国の貴族や王室の人間が実際に身に着けたという歴史と価値のあるアクセサリー類を見て歩いた。
3件の個展は、既存の概念では測れない、頭を捻るばかりの現代美術の展示に、著名な作品の一文を当て嵌めて撮られたという写真作品の展示、印象派を下敷きとしたタッチの画家の風景画の展示……。彼女が用意したチケットに規則性はない。
最後の風景画の個展で、彼女が長く足を止める1枚があった。

「その絵が好きなのか?」
「うん。なんか、子供の頃に小説読んでて思い浮かべた景色にそっくり」
「へぇ……そう聞くとなんか、いいな……」

なまえの瞳がこちらを向く。僕は彼女の心を射止めたその風景を視線で撫でて、緩んだ唇で続けた。

「だってなまえが想像しただけの、存在しないはずの景色ってことだろ。それと似たものを誰かが描くなんてさ」
「不思議だよね。零君はどの絵が好き?」
「僕はあっちの――」

千差万別の芸術品に触れて。買ったチケットを全て使い切っても、まだ寮の門限までには幾らかの時間を残していた。彼女が予約してくれていた雰囲気のいい店で夕食を摂ったあと、締めにカラオケにでも行こうという話が降って湧く。

「職場の人と行ってもメジャーな曲しか歌えなくて詰まらないんだよね。やっぱり2人とじゃないと。零君もヒロ君も私が知らないような変な曲入れるから、私も遠慮しなくていいんだ」
「せめてマニアックと言ってくれないか?」

僕がからかい半分で突っ込みをいれると彼女はごめーん、軽い調子で笑う。
とはいえ彼女の言い分は僕らにも見に覚えがあった。先日も萩原にセッティングされた合コンに参加したが、カラオケでの選曲に迷ったことは記憶に新しい。
昔から同じ時間をともにしていると良くも悪くも相手の影響が顕著に現れる。音楽の話に花を咲かせる事が多かったのは主に僕とヒロだったけれど、私も混ぜてと首を突っ込んでくるうちに彼女にも知識は付いていた。同じ曲を聞きたがるようになった最初の動機は話題に振り落とされないためだったのだろうけれど、月日を重ねるうちに世代を問わず様々なロックナンバーを三人で開拓した。

「なまえちゃんも気付いたらマニアックになってたよね。もしかしてオレたちのせい?」

わざとらしく首を傾げるヒロに、そうだよ、となまえが返す。

「私は2人ほどじゃないけどね。メロディラインとかコード進行とか気にしたこと無いし、わからないもん」
「まあ音楽やってないと気にしないことだよな。ベースでよかったら教えるよ。やってみないか?」
「じゃあギターやりたくなったら僕に言って」
「そうやってすぐ私にもやらせようとするんだから」

駅からほど近いカラオケ店に入ると、僕は波土禄道の『雪の堕天使』、ヒロはTWO-MIXの『WHITE REFLECTION』と『BREAK』を入れた。
どちらも僕らが事あるごとに好きだと話していた曲やアーティストだったから当然なまえも何度か耳にしており、イントロが流れ始めるなり、ああ、これか、と表情を明るくさせた。なまえが僕の歌声に合わせて小さくハミングする。音程が外れるたびにくすりと笑って、正しい音を教えてくれる。そんなお節介がかわいいので、敢えて節々音を外してみたりした。歌い終わると、彼女は目を輝かせて拍手をしてくれる。
なまえが入れた曲は男女のデュエット曲で、僕もヒロも聞き覚えのあるものだったので、相方でも務めてやろうと思ったが、彼女はひとりで歌いきってしまうので、目が点になった。「これ男性パートも声が高いから一人で歌えるんだ」とのことである。

それからそれぞれに交互に曲を披露し、「懐かしい」とか「オレこれ弾けるよ」とか「PVがいいんだよな」とか、談笑を続けているうちにあっという間に終了の時間が来た。フロントからの連絡に延長はなしでと応じ、荷物をまとめて部屋を出る。
休日の夜、背広を着込んだ社会人と僕ら同様遊びに繰り出していた若者たちでごった返している駅の改札の前で、手をふり合う。

「じゃあね! またみんなでどっか行こう」
「送れなくてごめんな」
「気にしないで。次は車出してあげるね。私の不安な運転でよければだけど」

改札にスマートフォンを翳し、通り抜けたあとも、彼女は振り向いて視線が合う限りは首を回して手を振り返し続けてくれた。それも人混みの障壁が僕らの間を隔てて、小柄な背中は喧騒の中に溶けてしまう。
熱を和らげるような夜風は心地よかったが、同時に寂しさを胸に連れてきた。

「楽しかったな〜。なまえちゃん、元気そうで安心した」
「あぁ。久しぶりに遊んだな」

ヒロの言葉に頷く。
あの子がくれた腕時計を確かめると、時刻は19時半に差し掛かろうとしていた。寮への道を少し急ぐ。



週明け。日頃の派手な行いへの罰則として鬼塚教官から命じられた風呂掃除に励む。
どこの教場も連日の激しい特訓を示すように泥塗れの足で浴場に駆け込むから、一段と汚れが酷い。支給されたモップで床をこすり、落ちたと思えばタイルの隙間に流れていく汚れを睨みながら必死に掃除を続ける。

「てっきりお前らも彼女なしだと思ってたのによ……水臭えじゃねぇか」

モップの柄のうえに顎を乗せた松田がじっとりとした生暖かい目で僕を見ていた。

「なんの話だ?」
「とぼけるなよ、ゼロ。一昨日、お前とヒロの旦那が同い年くらいの女と歩いてるの、駅の改札で見かけたぜ。それに入学以来毎日のようになまえって女と熱心に電話してるだろうが。もう証拠は上がってんだ、さっさと白状しちまいな」
「白杖ってな……」

さりげなく掃除の手を休めて僕に詰め寄る松田。
背後では「ドラマの悪役刑事か」と班長が呆れていた。

「あっ、俺もその話詳しく聞きたいなー。2人のこ・い・ば・な」

話を聞きつけた萩原が乱入してくる。女子中学生か。厳しい制約の中で誰もが娯楽に飢えている警察学校では、少しでも浮いた話があろうものなら鰯の大群に飛びつく海鳥のようにすぐに関心の的となる。誰々と誰々が夜の暗がりでああしていただの、なんだの、といった噂は一度囁かれれば瞬く間に広がってしまう。
松田は僕に口を割らせることを諦めたのか、今度はヒロに詰め寄った。

「で? どっちの彼女なんだ?」
「さぁ、どっちのだろう?」
「気になる言い方するねぇ、諸伏ちゃん」

ヒロがお決まりの文句でうまく躱すと、ひゅう、と萩原が冷やかしの口笛を吹く。

「ほーら、さっさと白状しやがれ! 楽になりてえだろ〜!? 旦那ァ
「わー! やめろって、松田〜!」

ヒロに飛びついた松田がうりうりとじゃれつく。
賑わしくしている僕らの背後で、こほん、というわざとらしい咳払いが一つ転がった。

「お前ら、さぼりとはいいご身分じゃねえか」

班長である。
その圧のある鶴の一声で散らされた蜘蛛の子のように僕らはいそいそと掃除に戻っていった。
5人での奮闘の甲斐もあって元の輝きを取り戻しつつあるタイルを引き続きごしごしと擦り続ける。額を垂れる汗の粒を手の甲で荒く拭い、顔を上げたついでに僕は先程の続きを口にした。

「まぁ、でも……一応言っておくけど、本当にあの子はそんなんじゃないよ。ただの僕とヒロの共通の友達で、幼馴染だ」
「えっ、じゃあ俺狙ってもいい? 今度紹介してよ……って冗談冗談、二人共顔怖いって」
「あの子、昔色々あって男が苦手なんだよ。だから冗談でもやめてくれ」
「そうなのか。からかうような真似して悪かったな」
「いや……」
「降谷と諸伏が大事にしてる“オトモダチ”ってわけね」

大粒の宝石のように手ずから丁寧に磨いて、いつでも目をかけて、それでも手垢で汚さないよう決して触れず、どこかに隠しておきたい存在。僕の中での庇護と清らかさの代名詞。
――そうだな、友達だ。
己を戒めるように、萩原の言葉を胸中で復唱した。

「けっ、つまんねえの。浮いた話かと思ったのによ」

松田が退屈を隠しもしない声色で吐き捨てる。

「じゃあこの話は終わりだな。陣平ちゃん、手止まってるよ〜」

ぱちん、と手を打ち鳴らす、たったそれだけの仕草で萩原は場の空気を塗り変えてしまった。
萩原の人との距離感を掴むことの巧みさには恐れ入る。異性の尻を追い回してばかりとも言われるが、同性とも広く恙無く交流を持つのもこういう人間性ゆえだろう。
景光も円滑な人付き合いをしていく力に長けているとは思うが、どちらかといえば親しい人間に気を遣わせず、いい時間を過ごしてもらおうと尽くす、内向きなコミュニケーション能力の高さに感じられる。萩原はその逆で、外向きの――個々人に眼を配るのは勿論のこと、けれどもそれ以上にその場の空気を重んじて、コミュニティ内での関係性に亀裂が入らないように立ち回るのがうまい。
摩擦なく人と関わっていく術を学ぶとしたらこの2人からだろう。
なまえのことが話題に登ったからか、つい一昨日、それも丸一日一緒に居たというのにすでに彼女の声が恋しくなりつつあった。今日も夜の自由時間が待ち遠しい。


2023/07/02
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