比翼のアルビノ

14.ちっぽけなわたしだけのアルタイル

22歳、4月。
大学卒業後、僕と景光は警察学校への入学が決まった。なまえは都内の企業に就職して一足先に社会人となり、数日後に入社式と初出勤を控えている。
寮生活に向けた荷造りを手伝ってくれたなまえへの礼として、僕らは三人で食事に赴く。それぞれの卒業祝いと、入学祝い、入社祝いも兼ねて、都内でも人気の料理店をこの日のために抑えていたのだった。
入寮後は外出ひとつするにしても許可が必要となり、なんらかの問題が起これば罰則として外出泊を禁じられることさえままあると聞いている。晩餐は、これから暫く会えなくなることを惜しんでの、儀式のようなものでもあった。

「じゃじゃーん。零君とヒロ君に、私から入学祝いのプレゼントです!」

鞄を漁ったなまえが、片手で掴めるほどの長方形の箱を2つ、僕と景光の前に置いた。ダークトーンでまとめられた落ち着いた色相のラッピングはシンプルで、包装と控えめに走るロゴから有名なメンズブランドの品だと推測できる。
瞳を輝かせたヒロが「開けていい?」と早速尋ねると、彼女は勿論と笑顔で頷いた。

「うわ、いい時計だ……! え、もらっていいのか? 高かっただろ?」

どこか初々しいヒロの歓声が隣から響く。

「バイト頑張ったんだ。子供の頃の夢が叶うんだもん、何かお祝いしたくて。二人分買うからちょっと大変だったけど」

一歩遅れて僕も開封すると、紺の文字盤に漆黒のベルトの品のいい腕時計が箱の中央に収まっていた。インデックスはバータイプ――つまり時間を示す数字部分に、数字ではなく棒を散らしたようなデザイン――で、バーと秒針、時針、時計の縁に当たるベゼルは光沢のある金色で統一されている。
安物の腕時計か、携帯端末のデジタル時計くらいしか使ったことのない学生としては、やや気後れしてしまう。

「すっげ……。あれ、ヒロと僕のでちょっと違うのか」

覗き込んで見せてもらったヒロへの贈り物は、同ブランドの腕時計ではあったが、彼のもののベルトはキャメルブラウンで、秒針やベゼルなども銀色……と僕のものよりもやや落ち着いた印象を受ける。

「えへへ、せっかくだから似合いそうなのあげたかったの」
「ああ、確かにそっちゼロっぽいね」
「だよねだよね! 零君の色だって思ったもん」

僕の色とは……? 頷き合っているヒロとなまえに首を傾げると、その動作に合わせて眼前で揺れる金色。ああこれか、と少し伸びてきた自身の前髪の毛先を摘んだ。

「言われてみればそっちも確かにヒロっぽいな」
「え〜、そうかな? なんか照れるよ……」
「ヒロ君は落ち着いた色似合うと思うよ。同じラインで色違い出てて絶対これって思ったの。あと二人共よく荷物ごっちゃにしてるし、ちょっと違った方が絶対いでしょ?」
「それは……」と、僕。
「気遣ってもらったみたいで……」と、ヒロ。

物心ついてからはレディースのかわいらしいデザインの雑貨を持つようになったなまえとはなかなかないが、お互いの家に遊びに行ったり泊まったりを繰り返しているうちに、僕とヒロの荷物が混ざったり、知らぬ間に入れ替わっていたり、ということは多い。ヒロが買って良かったと言っていた文房具を僕も真似て買う、といったことはその逆も含めてままあったし、デザインの幅がないメンズの品だと遠目から見た時に区別がつきにくく、咄嗟に掴んで鞄に突っ込んだものが相手の持ち物だった、ということは日常茶飯事なのだ。

「ありがとう、毎日つけるよ」

早速ベルトに手首を通し、真新しい贈り物を身に着けて、僕は笑む。
暫くは望む機に会えない寂しさも、これが紛らわせてくれるだろう。

「うん。これなら持ち込めるし。ありがとう、なまえちゃん」

ヒロは大事そうに箱の蓋を締め直してなまえを見つめた。

「これから頑張ってね。私も頑張って納税するから」
「なまえちゃんの血税、無駄にできないね、ゼロ」
「嗚呼……ちゃんと国に奉仕して返さないとな」

暫くして、注文した料理が次々にテーブルに並ぶ。
アルコールのグラスを寄せ合って乾杯をし、僕らは談笑と食事を楽しんだ。

「制服の写真、絶対送ってね。あと着たときは、あの……なんていうのかな、正装も」
「儀礼服のことか?」

僕が名称を提示してやると、なまえは頷く。しかしながらなんでまた。

「そう、それ。警察官とか自衛隊の正装ってすごくかっこいいから。着たら見せてよ。絶対二人共かっこいいよ」

警察官の儀礼服は主に式典などのかしこまった場に瀕して着用する、格式高いものだ。紺色を基調とした制服とは異なり、主に黒一色で、故にエポーレットや飾緒という飾り紐の金色が映える。
警察以外にも自衛隊や消防にも儀礼服は用意されており、結婚式などの晴れの日にはこれを選択すること新郎も多いと聞き及んでいる。

「多分儀礼服着るのは卒業式かな?」

ヒロが僕を見た。

「そうだな。表彰されるようなことがあれば着るだろうけど、そんなこと稀だろうし……。そういえば、卒業式ってなまえも呼べるのかな。お兄さんからなんか聞いてないか、ヒロ?」
「あー……地域とか学校によるみたいだから、オレたちのところは確認しないとわからないかも。基本血縁者だけとか、何名まで招待できるとか、式は駄目でもそのあとの面会はいいとか、色々らしいよ。兄さんのときはどうだっただろう……」
「……だってさ。式は時期が来たら確認するとして……制服は写真撮ったら送るよ。多分郵送になるから時間かかると思うけど」
「え? もしかしてスマホの持ち込み駄目なの?」

なまえが眼を丸くした。そうだった、これについても彼女に伝えておかなければならない。
ヒロが説明役を買って出てくれる。

「入校する時に預かられて、使用禁止になって、外出する時に返却される感じだって。一応校内に公衆電話があってそれは使えるらしいけど、それしか連絡手段がないから、夜の自由時間は長蛇の列になるって兄さんが……。まあ、あとは手紙とか? になるのかな?」
「すっごいアナログ……。厳しいんだね、警察学校。……わかった、夜はすぐに電話に出られるように待ってるよ」

そこまでしてもらわなくても……僕とヒロの声が重なるが、なまえは食い下がる。

「だってこっちから掛けられないんでしょ? せっかく順番待ちしたのに私が出なかったら、なんのために〜ってなるじゃない」

それもそうだ。僕が隣席のヒロをちら、と見遣れば、同じようにこちらを伺っていたそいつとかち合う。

「なまえちゃんがそう言ってくれるなら……」
「甘えることにするよ」

――厳しい訓練に精神をすり減らす日々に見を投じることになる僕達は、のちに彼女のこの提案にひたすらに感謝することとなる。くたびれた脚を引きずって公衆電話の使用権をもぎ取り、一日の終わりに聞く彼女の声は、警察学校時代の確固たる癒やしだった。

「あとなまえが関係ありそうなところで言うと、在学中は運転も禁止ってことくらいか?休日に遊ぶことになっても僕とヒロはハンドル握れないから、遠出は電車とかバスになるな。まあ日帰りで遠出なんてしないだろうから気にすること無いと思うけど」
「都内なら車無くても不便ないけど……免許あるのに駄目って変な感じだね」
「初任科生でも扱い上は警察官ということになるらしいな。僕らが不祥事を起こすと警察官の不祥事として扱われる。交通事故って比較的起きやすいから、警察官でも青切符切られることは珍しくない。その予防ってことなんだろう」
「じゃあ二人共もう警察官なんだ? すごいねぇ」

カクテル2杯目にしてすでに頬が赤らんでいる彼女は、アルコールで舌がもつれたように、少しだけおっとりとしたような語調で言った。
20歳を迎えてから2年、こうして何度となくこの3人で飲んでいるが、あの飲み会と称してサークルの先輩に騙された夜以降、彼女が悪酔いしたことはない。酒に弱いのではと心配していたが、食事に彩りを添えるものとして楽しめているところを見るに、複数の男に囲まれたストレスによるものだったのやもしれない。
ちなみに3人の中ではなまえが一番弱いが、彼女は言ってしまえば並程度で、僕とヒロが一般人と比較しても大分強いというだけである。警察官を目指すなら酒に耐性があるに越したことはない。公安部など一部の部署は下戸ならばまず採らないとも聞く……。

こうして荷造りの礼と、卒業祝いと、入学祝いと、入社祝いと……様々なめでたい出来事を兼ねた晩餐は終わりへと近づいていく。
自然とお開きの空気が漂い始めていた。なまえは勘定を一瞥したのち、自身の財布を取り出そうとするので、それを止める。

「いいって。ここは僕らが出すって話だっただろ。荷造りのお礼」
「でも卒業までバイトできないんだし、お金大事にした方がいいんじゃ……」

予めそういう名目で誘ったというのに彼女は慎み深い。

「ていうかなまえちゃん、プレゼントくれたじゃないか。ここまで奢られたら正直立場がないっていうか、悪いよ。オレらの顔を立てると思ってさ。ね?」

こういうとき、彼女を丸め込むのは僕よりもヒロの方が上手いと思う。他者を気遣えるヒロだからこそ、相手に気を遣わせまいと器用に立ち回れる、というか。

「うーん……じゃあ次に会ったときは、私が初任給でなにかご馳走してあげるね」

彼女も彼女で人に気持ちよく奢らせるのが上手い。
店を出て、火照った体に夜風を浴びる。
酩酊の熱はまだ醒めるまでに時間を必要としそうで、これからしばらく彼女の顔を見れなくなるのだと思うと解散に踏み切ることができない。そんな気持ちは3人共共通していたようで、誰かの家で飲み直そう、という話になった。
大学の4年間を過ごした僕とヒロのアパートは荷物の大半を実家や警察学校の寮に送ってしまい、空き巣も目にかけないほどのすっからかん。必然的になまえの家が選択肢として上がってくるが、彼女のアパートは女性限定の賃貸である。

「死ぬほどこっそり入ったらバレないよ。怒られても2人はもう寮生活だから、今日が最後になるんだし」
「いやさすがにそれは……なぁ?」僕はヒロを見る。
「気が引けるよねぇ」と、ヒロが頷く。

彼女のように男性を苦手とする人間が住んでいる可能性を思うと素直に頷けない。
顔を見合わせて尻込みをしている僕とヒロに、なまえはさらなる奇抜な提案を投げかけた。

「じゃあ、ラブホ行く?」
「は!?」

僕とヒロの驚愕の声が夜道に重なった。
発送の飛躍が激しすぎやしないか。

「待てよ、おかしいだろ! 幾らなんでも!」

僕は彼女に食って掛かる。隣ではヒロがうんうんと頷いて援護してくれていた。

「でもこの前女子会したよ?」
「なんでそんなところでやる必要があるんだ」
「設備揃ってるし、内装かわいいとこあるし、大人数で騒いでも怒られないから人気みたい。私が行ったところはバーみたいになってて、自分でお酒作れるようになってて楽しかったよ。そういえばそのとき後輩の子が彼氏と別れたからってメンバーズカードくれたから、安く使えるはず。……あった、これこれ。行ってみようよ」

大体そんなところに男二人と女一人で意気揚々と入ろうものなら、三人で楽しもうとしている性的好奇心旺盛な若者だと思われるだろう。

「私、最後にヒロ君のカクテル飲みたいな」
「なまえちゃんがそういうなら……」

なまえの一言でヒロが撃沈した。甘いやつ!

「……じゃあ僕も行く」

仲間はずれは嫌だ。



「はい、なまえちゃんは『ブルドック』。ウォッカをグレープフルーツジュースで割ったやつ。『ソルティ・ドック』っていうカクテルをスノースタイルにせずに――ああ、グラスの淵にレモンを絞って、塩とか砂糖で縁取ることなんだけど――、それにせずに作ったものらしいよ。アレンジでオレンジジュースも加えてみた。お酒の量はレシピより減らしておいたから、安心してね」
「わあ、ありがとう。嬉しい」
「どういたしまして」
「犬の名前なんだね」

僕が黙っている間にも、バーカウンターを挟んで二人は会話を続けている。
『ブルドック』――カクテル言葉は確か、「あなたを守りたい」だったか。偶然にしてはこいつがなまえに差し向ける感情があまりにも表面化されている。無論、ヒロがどこまで計算しているのかわからないが。
せっかくならそれっぽくいこう、と言うヒロによって出されたチャームのナッツとドライフルーツ。小皿の上のそれを見つめたきり、手を付けずに黙りこくっていると、彼女の視線がこちらに向けられた。

「零君、どうかした? 気分でも悪い?」
「い、いや、別に。大丈夫だよ。ただ、その、本当にいいのかなって思っただけさ……。ほら、僕たち3人で、なんてさ。変じゃないか?」

僕の言葉になまえは首を傾げていたが、カウンターの中に佇んでいたヒロはというと、僕に同意するように何度も深く首肯している。受付を通るとき、僕がどんなに恥ずかしかったことか。
しかし僕の内情など露ほども知らぬ彼女は、あっけらかんとした様子で言うのだ。

「いいじゃない。おしゃれな部屋でお酒飲むのって楽しいよ」
「まあ……確かにここ、雰囲気はいいよな」

今夜のヒロはどうしてかなまえの味方に付きがちだ。おかげでラブホのイメージ変わったよ、などと言いながら、ウォッカとコアントローとライムジュースをシェイカーに入れて振ったものを、氷を積み立てたグラスに注ぐ。マドラーでくるくると軽やかにステアされたそれを、こん、と僕の前のコースターに置いた。

「はい、ゼロは『カミカゼ』な。この前気になるって言ってただろ」
「覚えててくれたんだな。ありがとう、ヒロ」
「ゆっくり飲めよ」
「わかってる」

名前の由来は無論、“神風”だが、このカクテルの生まれはアメリカだというのが通説とされている。もしくは米軍占領時代の基地。いずれにせよ、遥か異国の人間が日本に見た夢から生まれたものだろう。
お互いの酒の強さを認識しているだけあって、なまえにしたようなアルコール濃度を下げるといった配慮はない。口をつけると舌を裂くような切れ味の鋭い刺激に襲われる。

「おいしい?」
「ん」

なまえがそんなことを尋ねてくるので、一口わけてやると、舌先を触れさせただけで眉を顰めた。「きっつ〜!」と悲鳴を上げる彼女をヒロがあわあわと見守る。

「ゼロ君とヒロ君はスピリタスって飲んだことある?」
「悪いことは言わないからあれはやめておけ」

僕は即答した。

「あるんだ〜」
「あれ飲むタイミングなんて、度胸試しとか一発芸だけだよ。君は知らなくていい」
「先輩の家で宅飲みしたときの罰ゲームだっけ? オレとゼロがあんまり強いからつまらないって言われてそうなったんだよね。そういえばゼロ、あれ瓶ごと貰って帰ってたよね? あのあとどうしたんだ?」
「薄めて消毒液作った」
「さすがゼロ」

けらけらとなまえが笑う。つまらない話だろうに、酒で笑いの沸点が低くなっているのだ。

「スピリタスってどんな味なの?」
「おいしいとかまずいとかじゃなくて、“熱い”、だな……」
「辛い?」
「まあ……でもやっぱり熱いと思う」

黒歴史じみた悪ふざけで味わったあの味の記憶を辿りながら、僕は語る。

「なまえちゃん、そろそろお水挟もうか」
「は〜い」

ほろ酔いの彼女の前にチェイサーを差し出したヒロは、いよいよ自身のカクテルの用意に取り掛かっていた。
僕は料理は不得意だがこうしてなめらかにものを作り上げていく職人の手を間近で観察するのは好きだ。何かを調理する景光の手や指は美しいと思う。いつもなら集中力をそいでしまっては悪いと思って、調理中の彼をじっと見入る真似はしないが、アルコールで遠慮が溶け落ちてしまっていたらしい今は食い入るように見つめてしまい、「ゼロ、見過ぎ」とやんわり窘められた。
ブランデーに対して、その半分の量のオレンジ・キュラソーとアニゼット、黄卵をひとつをブルドック以上に強めにシェイクし、カクテルグラスへと注ぐ。おまけとして少々のナツメグをまぶせば……。

「ヒロくんのはなあに?」

やや舌足らずとなった、ふわついた語調でなまえが問う。

「『ナイト・キャップ』だよ。寝酒として飲まれるカクテルだって」
「へえ〜」

ヒロはグラスを持ったままカウンター内から座席の方へと移動し、なまえを挟むように僕の反対側に腰を下した。

「海外では就寝前に酒を飲む文化や、寝酒そのものをナイト・キャップと呼ぶんだ。それとは別に、寝酒の適性が高いとされている幾つかのカクテルを『ナイト・キャップ・カクテル』として分類している。ちなみにヒロが今飲んでいるのは、分類名ではなく固有名詞として『ナイト・キャップ』という名称を与えられているカクテルだ」
「さすがゼロ。詳しいな」
「うーん……私絶対忘れちゃう……。明日同じ内容でメッセージ送っておいて、ゼロ君。今頭回んなくて……」

気づけばカウンターテーブルに突っ伏している彼女はグラスをほとんど空けてしまっているではないか。度数の低い酒を好んで飲む分、ペースが人より早いのが玉に瑕で、僕らとしては懸念の種である。
机の上に組んだ腕に顎を乗せ、不安になるほどゆったりと緩慢なまばたきを零していたなまえだったが、やや経つとべちょり、と組んでいた腕を潰して頬を机の木目に押し付けた。頬どころか額まで赤らんだ顔はすっかり瞼を閉ざしており、僕と景光の談笑にも反応しないことから本格的に寝入ったことがわかる。このまま机で寝かせれば体も冷えるし、どこかしら痛めてしまうだろう。
グラスの底の方に薄く残っていたブルドックの飲み残しを、彼女に代わって僕がごくりと飲みきる。
空にしたグラスをコースターに置くと、眠る彼女を抱き起こした。脱力しきって流動体のようになっているふにゃふにゃの体は運ぶにしても一苦労だ。なんとか横抱きにして、室内の大きなベッドの上に寝かせてやる。薄っぺらい掛け布団で肩まで包んでやってから、僕はカウンター席に戻った。

「贅沢な奴だなぁ……あんなにでっかいベット独り占めして……」

自分のグラスに唇を寄せつつ、僕は呟いた。
すると同じように彼女の寝顔を眺めていたヒロが笑う。

「気持ちよさそうでかわいいじゃない。でもこの先ひとりでお酒飲むときが心配かな。新人なら飲み会も断れないだろうし」

警察学校に入学する僕らの身分は引き続き学生だが、なまえは来週には社会人だ。まず待ち受けているであろう新人歓迎会に、慣れた頃には飲み会、打ち上げ、取引先との食事。
進む道が別れれば当然一緒にいてやることは難しくなり、不安な夜道を迎えに行く役割も引き受けられなくなってしまう。

「この分だと泊まりかぁ〜……」

ヒロが椅子の上でわざとらしく伸びをした。
そして矢庭に僕に向けてこんなことを問いかけてくる。

「ゼロってラブホ来たことある?」
「……そっちこそどうなんだよ」
「聞いてるのオレなんだけど」
「……。女の先輩とサシで飲みに行った時に」
「うんうん」
「目が覚めたらホテルに居て」
「えっ」
「乳首舐められてびっくりして蹴り飛ばして帰ってきたことなら、ある……」
「ごめん、嫌なこと思い出させて……」
「いや……」

スピリタスの比ではないほどの黒歴史だ。僕の場合は相手が武力で対抗できる異性であったから、ひたすらに嫌悪感で胸が満ちるだけで済んだものの、これが男女逆であったならどれほど恐ろしいことか……。
ビールに薬品かなにかを混入され、意識の朦朧とする中ホテルに連れ込まれていたおかげで受付のタッチパネルなどは今日始めて見た。
ヒロは……と聞き返してやろうかとも思ったが、子供の頃から知っている相手の性に纏わる面を垣間見るのは生々しい。こいつがこういった場に来たことがあってもなくても心に靄がかかることは目に見えていたので、質問は控えることにした。
からん、という氷同士の触れ合う音は、どちらのグラスから鳴ったものなのだろう。

「ヒロ、最近眠れてないのか」
「あはは、寝酒のカクテル飲んでたからって疑うのか?」

アーモンドの形の、猫のような瞳を細めて笑うヒロは、自身の寝酒のカクテルのグラスを傾けた。笑顔で返答を紡ぐわりにヒロは僕の方を振り向かなかったし、敢えて酒を煽ったのも言葉をそこで打ち止めたかったからのように思えた。
交差しない視線を訝しんだまま、僕は親友の横顔を見つめ続ける。
ヒロは、丸みを帯びてきた氷に眼を落として、躊躇いがちにくちびるを割り開いた。

「……睡眠時間は足りてるよ。悪いのは夢見、かな」
「そう、か……」
「ゼロやなまえちゃんが泊まりに来てくれる日は、夢を見ずに眠れるんだけど……寮に入ったらそれも難しくなるな」

寂しい、なんて態々声を紡いでまで口にするような歳でもない。でもそれは声から、視線から、どこかから、零れ落ちてしまう。
ようやく警察官という夢の叶いそうなところまで来て、膨らみ始めた蕾を踊る心で撫でている。これからの新生活が楽しみだ、心から。でもそれと彼女と離れる寂しさは胸の中で共存しうるもので。

「ゼロ、なまえちゃんのこと好きだろ」
「……当たり前だろ」
「知ってた。オレも好き」

ヒロと僕はほぼ同時にグラスに口を重ねていた。飲み干すまでには、まだ時間がかかりそうだ。


2023/06/30
カクテル言葉
■ブルドック……守りたい(景光・降谷→なまえ)
■カミカゼ ……あなたを救う(降谷→なまえ)
■ナイト・キャップ……眠れぬ夜、あなたを想う(景光→なまえ)
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