比翼のアルビノ

13.天使にも獣にもなれない

翌朝。炊飯器の炊ける音で目が覚めた。
乾燥した眼球の表面を守るように降りたがる瞼をどうにか押し上げ、夢と現の境界から現の朝に降り立つ。しかし朝霧の向こうの太陽のように朧気なこの頭よりもずっと、なまえの隣で目覚めた幸せな事実のほうがよっぽど夢心地である。
彼女の気崩れたスウェットの襟元を整えてやり、自分がベッドを抜けたことでめくれてしまったタオルケットを彼女の肩まで掛け直す。すれば、彼女の瞼が薄っすらと開かれる瞬間を見た。

「おはよう。まだ寝てていいぞ」
「う……? 零君……? おはよう……」

彼女のしまりのない面持ちに口元を綻ばせ、ゆるんだその頬をつん、とつついた。
講義のない土曜日の朝。こんなに早くに布団を出る必要性は薄いのだが、休日をだらしなく過ごすことで習慣を崩さないよう決まった時間に起きることにしていた。大抵のんびりと朝食を摂って、午前のうちに未提出のレポートに手を付けることにしているが、今日は昼頃までバイトのシフトが入れられている。
短いバイブレーションと共に、携帯端末のポップアップ通知で今日のスケジュールの報せが入った。出勤時間を今一度確認してから、フローリングに足を乗せる。

朝一番のシャワーを浴び、洗剤の香る真新しいシャツに袖を通した。
昨夜のうちに回していた洗濯機は乾燥までしっかりとかけられている。蓋を開けて中の衣類に触れて確かめると、まだ少し湿っていたので、ひょいひょいとハンガーにかけていく。干しておけば午後の早い時間には乾くだろう。
そのまま僕は歯を磨きながらキッチンへと進んで、やかんを火にかけた。
炊きあがっている白米を茶碗に盛り付けて、先日泊まりに来ていたヒロが作り置きしていってくれたおかずのタッパーを冷蔵庫から出す。ひゅうひゅう騒ぐやかんを止め、昨夜買ったしじみのカップスープに沸騰する湯を注いだ。
ヒロに言わせれば料理はからっきしである僕の朝食は大抵こんなところだ。米は炊くけれど、他は買って済ませている。

「なまえ、飯できたけど。食べられるか?」
「ん……んー……お米の匂いがする……」

タオルケットの山が呻き声を上げながらもぞりと動いた。緩慢に寝床を這い出でようとしている彼女からタオルケットを引っ剥がし、その重たげな瞼に新鮮な朝の光をぶつけてやる。

「僕、昼までバイトだから8時には出るぞ。君は洗濯物乾いたらいつ帰ってもいいから」
「ん」
「鍵、渡したのあるだろ。それで閉めて」
「んん」
「聞いてるか?」
「わかった〜……」

くぁ、とどら猫みたいな危機感のないあくびをひとつ零して、なまえはのろまな足取りでキッチンに向かう。そのまま昨夜使ったきり洗っていないグラスをシンクから取ると、それに水道水を汲んで一口飲む。喉が潤うと彼女のしわがれた声も少しましになった。

「二日酔いは? 朝食えそう?」
「ちょっと頭痛いけど、平気」
「じゃあ早く食べて血糖値あげた方がいいな。頭痛薬飲むにしても胃に何か入れてからだ」

言うと、僕はテーブルの上のケースから市販の頭痛薬のパッケージを出し、彼女の席に置いた。
二度目のあくびをしながら席についたなまえは、少しずつではあるが意識が覚醒してきている。さすがに古いPCよりは起動に時間がかからないな、なんて思いながら僕も椅子を引いた。

「ありがとう……いただきます……」
「ヒロほど凝ってないけど。僕もいただきます」
「私も家ではこんな感じだよ。パンが多いけど」

箸を手にしてしじみの味噌汁のカップスープに口をつけると、ずず、という啜る音が二人分重なって響いた。



アルバイトを終え、僕は13時過ぎに帰宅した。
買って帰ってきた牛乳を冷蔵庫に突っ込もうとすると、中には買った覚えのない卵が増えていて、しかも開封済みだ。野菜室で死にかけていた野菜も幾つか消えている。その行方はすぐに見つかった。
二人がけの狭い食卓にはおにぎりが数個と、すでに湯気のおさまったニラともやしの卵炒めが並べられている。彼女はわざわざこれを作った上で帰ったらしい。卵に関しては一度買いに出たということだろう。
そこまでしなくても、などと思いつつ、僕はすっかり喜んでいた。味でいえば景光の作る食事が一番美味しいが、彼女の手料理というところに途方もない価値がつく。ありがたく昼食と夕食にしようと思い、僕は手を洗うために洗面所へ足を運んだ。

「え――」

なまえがいた。一糸まとわぬ濡れた肌の彼女が、洗面所に立っていた。何が起きたのか理解するのに数秒を要した。
なまえはこちらを見て驚いた顔のまま凍りついている。
どくっ、どくっ、と叫ぶように激しく鳴り響く心臓が、鼓膜を叩く。
目の前にいる赤裸々の彼女は、ある種毒のような刺激を纏って僕の眼と心臓をずがんと撃ち抜いた。
きめ細やかな肌は、まだ拭き取られていない水滴を弾き、その瑞々しさを感じさせる。胸の中心を飾っている突起を隠そうと、我が身を抱くようにして彼女が胸を隠せば、膨らみは寄せられて余計に存在感を強調された。

「れいくっ、や……うそ……」

つう、と胸から臍にかけてを悪戯に流れていく一筋の雫が僕の視線を奪い、そして誘導した。下へと。柔らかそうな太腿の付け根まで、なめらかに滑っていく一滴は、脚の間の茂みに紛れてすぐに見えなくなった。僕の視線が腰骨を辿っていることを悟った彼女は、ほっそりとした太股の奥にある秘部を隠すかのように、内股になる。
湯浴みをして上気して色づいた頬は艶やかで、もしや僕を誘っているのではなどと色に狂わされた頭は都合のいい夢想を垂れる。
彼女の身体はどこもかしこも美しくて、僕はすぐに立ち去るべきだとわかっているのにずっと眺めていたくて堪らなかった。
沸騰して動かなくなった肉体の歯車が回りだす。きっかけは、なまえがハンドタオルを心許ない鎧として肌を隠し、後退ったからだ。僕は恍惚としたまま彼女に目を奪われていたが、我に帰ったところで自分のしでかしたことを理解した。

「……――うわっ!?」
「危なっ!」

背後は浴室の扉で、袋小路だというのになまえは震える足で後退りする。こつ、と裸の肩をぶつけてしまうと、扉はその微かな衝撃によって押し開かれ、彼女の背を預ける宛ては消え去った。そのまま後ろへと倒れていく彼女に手を伸ばす――しかし支えきれずに、僕も一緒に床へ倒れた。
体を反転させる余裕はないと判断し、咄嗟に彼女を抱き込んで頭部を庇う。

「きゃっ!」
「……っ!」

どうにか彼女を抱き締めたまま倒れることができた。風呂場と脱衣所に段差のない家の構造だったことは幸いだろう。肩から上は風呂場の床に突っ込んでしまったが。
無事を確認しようと自身の下敷きにしてしまっている彼女を見ると、自分の胸板に挟まれて濡れた乳房が潰れているのが目に入る。……柔らかい。
華奢な女の子に成人間近の男の全体重をかけて乗り上げてしまっていることに気づき、躰を引き剥がすと、彼女の少し開かれた脚の間に自分の膝を差し込んで膝立ちすることになった。

――床ドンに膝で股ドン……天丼か? いやいやいや。

やばい、頭が馬鹿になってる。
お互いの顔がわかる距離まで離れると、彼女の顔が熟しすぎて駄目になりかけた果実さながらに赤く染まっていることがわかる。

「す、すまん、」

すぐに退くから、と言って、僕はせめてもの配慮のつもりで目を閉じた。
最も、好きな子の生まれたままの姿なんてそうそう忘れられるものではなく、瞑目したところで瞼の裏に鮮明に再現されてしまうのだが。
高校時代のあの過ちの日以来に見る、なまえの裸に、拍動の速さは尋常ではなくなっていた。昨夜も胸は覗き見てしまったけど、大きさがわかるほどじゃない。こんな、なにもかも全て見たわけではない。
彼女が息を飲む気配を感じながら、慌てて身を起こそうとした時だった。もぞりと動かした膝が何かに当たる。

「ひゃう……っ」

体を揺らすとともに鼻から抜けるような上擦った声を出したなまえは、口を手で覆って恥ずかしげに身を捩る。やばい、すげーかわいい――じゃなくて。
思わず目を開けてしまった僕だが、「見ちゃだめっ」と泣きそうな声を出した彼女の手によって目隠しをされた。
目元を覆われる前に見た光景……多分、僕の膝が誤って彼女の脚の間をおしあげるようにぶつけてしまったのだと思う。なんてことだ。

「お、俺、出てるからっ。ほんとごめん」

目隠しの手を振り切って、目を閉じたまま洗面所を這い出た僕はさぞ間抜けだったことだろう。
廊下に出ると後ろでにドアを閉め、そこに背を預けながらいまいちど謝罪を唇に乗せる。

「本当にごめん……。てっきりもう帰ったと思って……。びっくりしたよな、ごめん……」
「せ、洗濯物、思ったより乾かなくて……。も、もう帰る」

か細いなまえの声と一緒に衣擦れの音が聞こえてくる。着替えを手に取ったのだろう。

「だ、大丈夫。ていうか一回見たことある、でしょ……?」
「え? あ、あぁ……そう、なんだけど……」

かくいうなまえも一回見せたことがあるから大丈夫という顔はしていなかったように思うし、今もその声には弱々しさがある。僕のための気休めなのだ。

「……慣れるわけ、ないだろ……」
「零君モテるのに」
「僕は……」

――僕は、君以外に興味ないんだよ。
僕にとってはかわいいのも愛しいのも君だけで、どうしようもなく欲を煽られるのも君だけ。
性を厭う君からすればこれほど不名誉なことはないだろうから、告げられないけれど。

「……僕のこと、怖くない?」
「怖くないよ。平気だよ」
「ありがとう……あっちで待ってるから。着替えたら来て」

ひとまずこの一件で絆が千切れ、彼女の恐怖の対象となるようなことはなく、安堵した。
立ちくらみのようにぐらぐらする頭を携え、リビングに入ると、テーブルの上にきらりと煌めくものがある。なんだろうと指でつまみ上げてみると、小ぶりなスワロフスキーの飾りのついたピアスだった。風呂か睡眠にあたって彼女が外してここにおいたのだろう。僕は廊下に人の気配がないことを横目に確認し、流れるような動作でピアスを自分のポケットに突っ込んだ。

そして彼女が自宅に帰った後、僕はメッセージを打つ。
『ピアス忘れて行ったぞ。今度取りに来て』
いけしゃあしゃあと。
好きな人に会うための口実だなんて、ださい真似。
――やってること、小学生の頃から変わらないじゃないか、僕。


2023/06/25
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