比翼のアルビノ

12.欠落をうつくしいと呼ぶ悪いくせ

■嘔吐表現有り



なまえとヒロのために買い揃えた来客用の布団に出番はなく。二人で躰を休めるには幾らも狭いシングルベッドで、互いの体温を寄せ合う。
せめてもの自戒としてなまえに背中を向けるかたちでシーツとタオルケットの間に潜り込み、枕元に置いておいたリモコンで照明を落とした。おやすみ、と互いに声をかけ合ったあと、瞼を閉じたところで夢など見れない、冴えすぎた瞳を闇に這わせる。
洗濯機の回る音が、洗面所から鈍く響いていた。

「零君、起きてる?」

背後から、遠慮がちな声色で呼ばれる。
つつ……、となまえが僕の肩甲骨を指でなぞれば、触れられた箇所から熱くなる。骨が燃えるようだ。

「……ああ」

少し迷ったが、僕はそれに短く答える。

「迎えに来させてごめんね」
「それはもういいって言ってるだろ」
「零君が来てくれて嬉しかった」

こつん、と彼女が僕の背中に額を寄せたのがわかった。
許されるのであればこのまま振り返って抱きしめてしまいたい。しかしそんな衝動的な欲求は、歯の奥を食いしばってすり潰す。
不純な心を濾過した、この世の清らかさだけを詰め込んだような言葉を唇に乗せた。

「君が無事でよかった。心からそう思ってる。僕こそ……僕を呼んでくれて嬉しかった」

彼女が微笑みを零した気配を背中の神経が敏感に拾い上げる。
なまえが眠りに落ちると、そっと寝返りを打って彼女と正面から向き合った。規則的な寝息を立てる彼女の意識がここにはないのをいいことに、その背中に腕を回し、抱き寄せる。髪に鼻先を埋めると、一日中駆け回った彼女のありのままの薫りが鼻を抜けてゆく。
ん……っ、という鼻にかかるような声をあげて、なまえが枕の丁度いいところを探って身じろぎをすると、ずるり、とだぼだぼのスウェットが彼女の肩を滑り落ちて、眼下に胸の谷間が見えてしまった。ふにゅりと腕に挟まれてふたつのまろやかな双丘が形を変える。肌よりも僅かに色の濃い乳輪が下着の隙間から溢れているのを見つけてしまい、いけないと理解しているのに視線を反らせなくなった。
無自覚に僕を誘う色めいた肌に、こくり、と喉が鳴る。
華に群がる蝶の如く、何も考えずに眼前の柔肌へ吸い付いてしまいたいが、生憎とそんな資格はない。

――今キスしたら蜜柑の味がしそうだな……。

無論そんな事はしないけれど。しかし焦がれてやまないのは事実。熟れた果実のように僕を惹きつける彼女の唇を、親指の先でふにゅ、と軽く押してみたのは出来心。
大好きな女の子が一晩添い寝してくれるなんて絶対に眠れるはずがないと考えていたが、その穏やかな心音に鼓膜を揺らされているうちに、僕も夢のほとりへと招かれていった。



「……いくん、……れいくん、……きて」

夢を見ていた気がする。記憶にも引っかからない、淡い夢。

「零君、零君、起きて。お願い、起きて、零君!」

僕の名前を呼ぶ声に、夜の海に散漫していた自我が再構成された。
まぶたの外から眼球を抉る光はない。恐らくはまだ深夜だろう。
気怠さが重みとしてのしかかる瞼をこじ開ければ、僕の腕の中でなまえがばたばたと暴れていた。なに、とまどろみを捨てきれていない声で問いかければ、切羽詰まった様子で彼女が声を上げる。

「トイレ、行きたいの……っ! 離して……!」
「あ、あぁ、すまん」

ぱ、と拘束じみた抱擁をやめにすると、緩慢な動作でなまえはベッドを抜けていく。起こされたついでにその後姿を見守っていると、足取りに不安定さが見受けられた。

「大丈夫か?」
「きもち、わるい」
「あ、おい!」

トイレのある廊下に続くドアのノブに手をかけたまま、捻らずにそこで背中を丸めてしまうなまえ。背中をさすると、「やめて、はいちゃう」と手を止めさせられた。

「ここで吐いていいから」

きつく瞼を結び合わせ、繭に皺を寄せた彼女がふるふるとかぶりをふる。

「よごしちゃう、から」

酷い吐き気に舌が縺れるのか、たどたどしく紡ぐ。
丸められたまま幽かに震えている背中を撫で続けながら、気にすることないのに、とは思うものの、吐瀉物に汚れた床を拭くことになるその後の自分よりも、そんな僕を前に顔を蒼白させる彼女がまざまざと想像できてしまい、気の毒に思えたので、トイレまで連れて行ってやることにする。
なまえの腰を持ち上げると、横抱きにはせず、なるべく体勢を変えさせないように努め、トイレまで運んだ。
狭い個室の床に彼女を座らせ、便器の蓋をぱかりと開ける。ぺたりと床に腿をつけた彼女の背後にしゃがみ、再び背中を擦った。

「でてって……っ、みないで……!」
「ほら、早く吐けよ。辛いだろ」
「……っ、れいくん……!」

彼女からすれば今自らが晒しているのは醜態なのやもしれないが、こちらからすればただの介抱を必要としている満身創痍の女の子だ。

「見ないでてやるから」
「……う、ん」

そう言ってやれば、なまえは安堵したのか便器に顔を寄せた。まあ、なるべく、だけど。
はくり、と真下を見ながら唇を割り、彼女は腹の中のものが食道をせりあがるのを待っている。しゃくりあげるような声と息を漏らし、吐き出そうと腹に力を入れているのがわかったが、歯の隙間から溢れるのは唾液だけ。ぱたぱたと零れ落ちる唾液の雫を白い便器が受け止めた。

「はぁ、はぁ……、うっ、え……」
「……吐けない?」

僕の問いになまえは目尻に涙を滲ませながらこくんと頷いた。吐き方を知らないのだろう。
「ちょっと失礼」と言い置いて、僕はぜえはあと肩で生きをしている彼女を背後から抱き込むようにして、後ろからその顎に触れた。指を上に這わせていき、唇の位置を探ると指先で割って侵入する。

「ひゃ、ひゃひ、れえくっ、う!?」
「ほら、大丈夫だから、吐いて。楽になりたいだろ?」

驚きの余り腰を反り返らせたなまえが、僕の腕の中にすっぽりと収まった。これ幸いにと体勢を味方に彼女の腹に腕を回して抱き寄せる。
口に突っ込んだ手の人差し指と中指の腹で濡れた舌を撫でて、付け根を目指して喉の奥へと進んでいく。

「ひゃらっ、ひゃらあっ! ひたないはらっ、ぬいてっ、ぬいてぇ……っ!」
「汚くないし汚していいから。大丈夫。大丈夫、怖くない」
「やえてっ、ほんとおねはいっ。やらあ……っ! やらのに……!」

ぽんぽん、と腹部をあやすように撫でる手とは打って変わって、舌の上の指は彼女の息を奪うように無骨に侵入を深めていた。
嘔吐の介助をしているだけだというのに、彼女のしゃくりあげる甲高い声と、侵入を拒むために発せられる「やだ」だの「抜いて」だのという言葉がまるでまぐわいを想起させるから、滅入る。そんな場合でもないのにずくりと脈打つ下肢だけは、何が何でも隠し通さなければならない……。

「んっ、ふあっ! やらっ、れいくんっ……、ひ、あ……」
「大丈夫、此処にいるから。ほら、舌、出せ、なまえ」

やだやだと泣く声がどんどんと蚊の鳴くような掠れたものへと変わっていく。声の代わりに涙と唾液の分泌量が増し、彼女の鎖骨や僕の手首を甘そうな露が濡らしていた。
抵抗の意すらも削がれつつあるのか、れろ、と濡れそぼった舌は僕の指を撫でたあと、必死に命を全うしようと力なく突き出された。

「……そう。よしよし、いい子。もっと舌出せるか?」

ひぐ、と辛そうに喉を鳴らし、彼女は健気に舌を伸ばす。僕は表に向かって突き出される舌に逆らう形で指を喉の奥へと進め、触れられる限りの奥を指で押した。
刹那、背筋がぴんと張り詰め、腹が痙攣したのがわかる。彼女は背骨をがくんと曲げると、濁った声と共に胃腸に収めていたものを吐き戻した。びちゃびちゃ、と水気の多い吐瀉物が僕の指にも跳ねるが、概ね便器の中へと吸い込まれた。
予めオレンジジュースを含む水分を多く摂らせていたのは、あくまでも酔いどれの人間の介抱のためであり、こうなることを見越していた訳では無いが、おかげで嘔吐までそれほど手間取らずに済んだ。不幸中の幸い、とでもいえばいいのか。

レバーを捻って水を流す。
ざばざばという水音が鼓膜に響く狭い空間の中、「見られちゃった」「汚いのに」「ごめんなさい」「幻滅しないで」「ごめんね」……嗚咽の隙間に、絶え絶えに繰り返す彼女。トイレットペーパーで口元を拭いてやったのち、跳ねる肩を抱き寄せて頭を撫でた。

「吐かせたのは僕の判断だ。気にすることないよ」
「な、んで……っ、れいくんはっ! わたしがなにしても、怒らないの……」
「怒るようなことしてないだろ」
「だって……っ、こんなことさせられて……! 普通、怒るよっ! 今日だってそう! すぐ来てくれるし……おかしいよ、優しすぎるっ」

普通ってなんだろう。
毎朝この家のベランダに舞い降りては毛づくろいをする一羽の若い雀。あれが普通の雀だとしたら、昔僕らが愛でたあのアルビノの純白の雀は、異端で、異彩で――それゆえにあぶれて。
あの鳥のように弾き飛ばされたり、群れを恐れるようになったりして、あぶれ者同士が寄りかかりあって固まっていったのが、僕と、ヒロと、なまえの3人だ。

「……じゃあ、普通じゃないのかもな」

普通でいられなかったのが僕らだ。
濡れた瞳が僕を仰ぐ。言葉の続きを待ってくれているようだった。

「君がどんなことをしても、何があっても、僕は絶対に君を嫌いになったりなんかしない」
「……零君」
「だから安心しろってことだ」

すっく、と天井の暗闇を押し上げるように立ち上がると、僕は未だ泣いている彼女に手を差し伸べた。

「ほら、くち、気持ち悪いだろ。ゆすごう。……立てるか?」

握った手は汗ばんでおり、ごめん、と彼女はそれを恥ずかしがった。
なまえがうがいを終えるのを見届け、少しだけ水を飲ませてからベッドへと戻る。マットレスの上に座り込んだ彼女は、タオルケットをめくるまえに服の上から自分の背中のあたりをごそごそと引っ掻くような仕草を見せた。

「何やってるんだ?」
「ブラ外したの」
「……。締め付けられるから?」
「そうだよ」

――いや、そうだよな。今まさに嘔吐したばかりなんだもんな。上半身を締め付ける下着なんて着けていられないよな。……いやそうだけどさ。もっとこう……。

君のことが好きな男に手心を加えてくれても、などと。浮き上がった下着によって中から少しだけ押し上げられているスウェットを見ながら思う。
眼の前で脱いだものを床に投げ捨てられなかっただけましなのかもしれない。ホックを外したブラジャーが肌に纏わりついた状態で寝れるのかという疑問もあるが、追求して外されてしまえばいよいよ困る。
彼女が一緒のタオルケットの中に潜り込んでくると、僕はため息をついた。今度こそ眠れないからも知れない。彼女のことも無論そうだが、今になって寝巻きのごわごわとした生地が気になり始めていた。いよいよ一睡もできないことを覚悟した僕は、枕の上、頭の下で腕を組んで暗い天井を見つめる。

――無警戒……じゃないんだよなぁ。他の男には。

赤の他人に差し向けるのは、警戒を通り越してもはや恐怖だ。
僕に対して何一つ警戒しないのも、半分は信頼の表れだと高を括るとしても、もう半分は日常的に神経を張り詰めていることからくる反動とも取れる。外界に対して過剰に鋭敏になりながら、誰に対しても常に気を張って日々を過ごしているのだとすれば、心休まる瞬間もこんなときくらいしかないのだろう。そうなると僕を男として警戒してくれ、と忠告し、数少ない止まり木を奪うのも可哀想になる。
……僕が僕の精神を鋼にまで鍛え上げて耐えるしか無いのかもしれない。

――この子がこうなのは俺にだけ。……まぁ、ヒロもいるけど。

ヒロとこいつが付き合えばいいとか、ヒロになら任せられるとか、そう思ったことは数知れずだが……。僕とヒロの立場をすげ替えた場合にも、なまえとノーブラで添い寝という現状があいつにも同じように適応されるのかと生々しい想像を掻き立てられると、流石に嫉妬が顔をもたげる。
なまえのことが誰よりもかわいい。だから安心して僕のそばにいてほしい。でも眼の前で胸の突起をスウェットから透かすのは……金輪際やめてほしい。


2023/06/22
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