比翼のアルビノ

11.きみ、地獄をひだまりと呼ぶのはやめなさい

「明日のサークルの飲み会って何時からだっけ?」

なまえの問いかけに僕もヒロも揃って首を傾げる。

「……飲み会? なにそれ。僕は聞いてないけど」
「オレにも話し来てないな」
「えっ……おかしいな、二人も来るって聞いたから行くことにしたのに。連絡の行き違いかも。確認してみるね」

――昨日のその時点で怪しむべきだったのだ。
なまえと、僕とヒロとの間での話の食い違い。ラムネの瓶の中から取り出せなかったビー玉みたいに他愛も無い幽かな疑念は、その日帰宅して毛布に頬を埋めたら、忙しない日常の疲労感の中でかき消されてしまった。

そして翌日。サークル活動の行われなかったその金曜日、ヒロは高校まで同居していた東京の親戚と久しぶりに食事に出かけ、僕も夕刻の早い時間からバイトのシフトを入れていた。
タイムカードをセットした折り、不意に昨日のなまえが口にした、僕らの呼ばれていない飲み会の件が脳裏に踊る。しかしあのあと彼女からは訂正の連絡も何もなく、僕もすっかり忘れてしまっていたので、きっとスケジューリングのミスということで終わったのだろう、と頭の隅に追いやった。
その認識が覆されたのは、夜の8時を回って間もなくのことだ。シフトは9時半頃までの予定で、残すところあと1時間。もうひと頑張り、と10分休憩の終わりに大きく伸びをしたとき。
なまえからの着信があった。

「ああ、なまえか。悪いけど僕……」
『ねえ、零君、このあとこっちに来るって本当?』

もうすぐ休憩時間が終わるんだ、と続けるはずだった。しかし珍しいことに「今大丈夫?」という断りすらもなく、食い気味に要件を投げかけてくる彼女によって、言葉は中断される。

「こっちって?」
『やっぱり嘘だったんだ……』

確信を帯びた声色でなまえが呟く。状況がよく汲み取れないが、思い当たる点といえば昨日彼女が口にしていたサークルの飲み会だ。

「もしかして昨日言ってた飲み会、出たのか?」
『う、うん。ゆうべ先輩に確認したら二人に連絡し忘れたから今から確認するって言われて……そのあとすぐ出席の返事来たって言われたから信じちゃって……。零君、どうしよう。男の人しかいないの。女の子もいるって聞いてたから来たのに……おかしいよね? それに一回トイレ行ったら、お茶の味、変になってて……』
「それは……何か薬品を混入された可能性が高いな……。入手難易度で言えば睡眠薬が濃厚だけど……。それ、味が変わってからはどれくらい飲んだ?」
『一口だけ』
「賢明だな。もう口つけるなよ」
『う、うん』

彼女の返答の直後、スピーカーの向こうからドンドンドンッとなにかを強くぶつような音が聞こえる。次いで、見知らぬ男の荒々しい呼び声が続いた。

『なまえちゃーん? そこにいるんでしょ? 戻ってきて俺らと話そーよ』

声を投げかけた人間とは違う男の笑い声がさらに複数木霊する。悪趣味だ。扉を開けようものならなまえはすぐに腕を引かれて周囲を固められて退路も絶たれ、何が入っているかもわからない飲食物の並ぶ席に引きずり戻されてしまうだろう。
悪質だがありふれた性犯罪の手口である。

『零君、こわい……っ、助けて……』
「ああ、そのつもりだ。今、どこにいる?」
『お店のトイレ……。2つしか無いから……多分、ドアの前にいるんだと思う……』
「わかった、僕が行くまで個室から出るなよ」
『で、でも、迷惑になるよ』
「そんなこと言ってる場合か!?」

お前、今出たら多分……――喉からでかけたそんな言葉を口に押し戻す。下手に怯えさせることは言えなかった。
あの日の他人の精液を纏わりつかせた裸のなまえが脳裏に蘇る。
防衛の枷になるような気遣いなら、例え迷惑をかけてでもかなぐり捨てるべきだ。何かあってからでは遅い。中学時代の二の舞いなどまっぴらごめんだ。

「……店より君だ。いいから僕の言う通りにしろ。もし店員が来たら事情を話して助けてもらえ。話せそうにないならそのまま登場だ。いいな?」
『う、ん……うんっ、ありがとう……っ』

なまえに飲み会に使われている店の名前と住所を送るように指示すると、通話を終えたスマートフォンを服の胸ポケットに押し込んだ。バイト先の責任者には体調不良を理由に早退させてほしいと言い、慌ただしく荷物をまとめて表へ躍り出る。
信号に捕まったタイミングで端末が震え、画面にはポップアップの通知で彼女からのメッセージが浮かびあがった。送られてきた住所をマップアプリにペーストすると店は以外にも遠い。その場で通りすがりのタクシーを拾うと、勢いよく乗り込んで運転手に店の住所を見せつけた。
硝子の窓の外を街頭やネオンの灯りの残像が尾を引いて流れていく。流星のように後ろへ消えていくそれを眺める間も、僕は気が気でなかった。もっと速度を出せないのか、と貧乏ゆすりを繰り返した。
件の店に着くや否や紙幣をトレーに叩きつけて下車する。

「いらっしゃいませ、1名様でよろしかったですか?」
「迎えです、トイレはどこですか!?」
「えっ、トイレっ? あちらですが……」

きょとんとした顔の店員が指し示した方へと走る。
男女共用の個室が2つしか用意されていないトイレはどちらも使用中で、その手前には見覚えのある男子大学生数名が屯していた。一見するとトイレに並んでいるようにも見えなくもないが、片方の個室に向かってつくりものめいた陽気な声――まさに酔いどれである声を投げかけ、乱暴に扉を慣らしては、無反応な扉にげらげらと下品に笑う。

「怖がっちゃったんじゃねーの?」
「トイレで寝こけてたりして」
「ばーか、んな強い薬じゃねえよ」

学生たちの露骨な会話がレイプドラッグの使用を裏付けている。録音アプリを起動しておかなかったことを後悔した。
下衆な笑みの男達の間を大股ですり抜けて、彼らがやたらとノックや声掛けを繰り返していた方の個室の前まで来ると、中で籠城しているのであろう彼女に呼びかける。

「なまえ? 僕だけど」

僕の声に、背後の男達の視線が一斉にこちらへと集った。
間もなくして、がちゃり、と扉が開かれる。恐る恐る扉の隙間を広げていき、顔を見せたなまえは僕の姿を見つけると、恐怖に支配されていた表情を仄かに和らげた。

「は、降谷? なんでここに」
「聞きました。僕や諸伏、他の女子が参加すると言って彼女に参加を促したそうですね」
「ご、誤解だ、それは。他の女の子は先に帰って、この子だけになったんだ」

男の言葉は本当かとなまえを見ると、彼女は何度も横に首を振る。き、来てない、と僕の服の裾を掴んで絞り出された声は震えていた。

「何をするつもりだったのかは知りませんし、知りたくもない。二度とこんな事しないでください。次は警察を呼びます」

睨みつけた男達をまとめてなんらかの処罰の対象とする方法はないか、頭を回す。
なまえの手をしかと握って、僕は店から出た。会計は迷惑料として奴らに任せておけばいいだろう。
大学生やサラリーマンが群れをなして賑やかに行き交う飲み屋街を、人の流れにも楽しげな喧騒にも逆行するように、僕らは沈黙を纏って歩いていた。
来る時に使ったタクシーを表で待たせておけばよかった、と自分の無骨さを悔やむが、こちらも紳士であれるほど冷静ではなかったのだから仕方がない。
居酒屋を出るときに引いていたなまえの手は道を少し進んだ頃には解放していた。彼女の手を強引に引いたときにいい思い出はない。高校生の頃の思い出が自分を戒める。
俯きがちな彼女が僕の背中を鴨の行進のように追って歩いてくるのを時折横目に振り返って確かめつつ、帰路を急いだ。堪らず大股になりかけては彼女の存在を思い出し、歩幅を狭めて。

「――おねえさんかわいいねうちではたらかない?」

不意に背後から彼女の靴音が消え去った。振り返ると、なまえが棒読みのキャッチに引っかかって固まっているではないか。
やっぱり手、話しちゃ駄目だ――不意の出来事が僕の心を塗り替える。風俗のキャッチらしき男を前に身動きを取れなくなってしまっている彼女の手を握ると、連れ立って夜道に踵を乗せる。
視線を前に戻す直前、キャッチの男を軽く睨んでやればそいつはわかりやすく怯んだ。

手を繋いだまま歩く僕らは傍から見れば恋人同士に思われるのではないか。それを嬉しがるのはきっと僕だけだろう、彼女にとってすれば本意ではないだろう、なんて。転びようもないほど明るく照らされた足元に視線を落としながら、思ったとき。
なまえが唐突に、ぎゅ、と僕の指を握る力を強めたものだから、つま先に向けていた視線を勢いよく持ち上げた。
隣を一歩分だけ遅れて歩いていた彼女を見遣れば、繋いでいない方の手で目元を擦ってるではないか。夜風や人々のざわめきに阻まれて聞こえもしなかったはずのなまえの鼻を啜る音が、彼女が泣いていることを意識した途端、驚くほど明瞭に鼓膜を震わせる。

「怖かったな……。もう大丈夫だ。送っていくから帰りは安心して」
「送ってくれるの?」
「当たり前だろ」
「……帰んないで。泊まってって」

赤らんだ頬を滴り落ちる涙が、大袈裟なネオンの輝きを浴びて煌めいている。
頷いてしまいたい衝動に駆られるが、衝動を殴りつけて冷静さを纏い、僕は視線を彼女から外す。

「……君の家、女性限定のマンションじゃないか」
「ごめんね。うそ。冗談だよ。酔ってたみたい」
「酔ってたって。まだ駄目だろ、酒」
「断れなくて……」

零君真面目だからそういうの嫌だよね、ごめんね。そう言って睫毛を伏せた彼女を、僕が怒るはずがない。誰がどう見ても被害者はこの子じゃないか。押し付けを跳ね除けることができなかったのだとしても、そうさせたのは年上の男が複数という圧のある状況だ。それを落ち度として攻めるのは間違っている。

「僕の家、来たら。不安なんだろ」

頷いた頭をぽふりと撫でて、今度は僕からも手を握り返した。
帰りの電車はその路線の主要な駅を過ぎると乗客がどっと減って、僕の自宅の最寄りまでの数駅は、2人だけで座席をほとんど独占していた。
静かな車内で瞼を重たくさせていたなまえは、次第にこっくりこっくりと頭を揺らし始める。ガタン、と車体が揺れた表紙に、あろうことか彼女は僕と隣り合っていない方の空席に倒れ込みそうになったので、僕は慌てて抱き寄せて自分の肩に凭れさせた。

――起きない……。

暇と沈黙を持て余して携帯端末に手を伸ばそうとしていたくせに、肩にしなだれかかられたうえに体の側面まで密着してしまい、なにもできなくなってしまう。
寝ぼけた彼女が僕の腕に自身の腕を軽く絡めてくる。抱き枕とでも思っているのだろうか。
お互い薄着だ。半袖から伸びる腕が触れ合うと、ひんやりとして気持ちがいい。汗ばんだ鎖骨は若い男の目には鮮烈で、甘い香りが彼女から発せられているのだと気づいてしまえば否が応でも鼻に意識が集中する。

――寝顔、変わらないな。

もう1年もすれば酒と煙草を許される歳だというのに、寝顔は少女みたいだ。
両親や兄弟にそうするように全力の信頼を預けて、僕に寄りかかってくれる彼女が愛らしい。その無防備さにつけ込む下品な連中が疎ましくもあり、警戒心を和らげてくれる特権に甘えて、許される限り踏み込んでしまいたくなる。
そして、そんな穢れた願望が示すところは、所詮あの男達と自分に差異などないことで。それに気付かされ、後ろめたくなった。

――頼むから僕だけにしてくれ。それか、ヒロとか。

僕を選べとは言わないから、せめてあいつを選んでくれたら安心できるのに。
肩に預けられた頭にそっとすり寄り、目を瞑ると、汗とシャンプーの溶け合った甘い香りがした。
最寄り駅に停車すると、まどろむ彼女を揺すり起こして降車する。
そのまま真っすぐ変えるのではなく、自宅までの道の途中にあるコンビニに寄った。スーパーに比べてやや高価で、一人暮らしの人間に向けた内容量の少ない品が多く並ぶ棚を前にし、なまえに問いかける。

「オレンジジュース、珈琲、紅茶。どれがいい?」
「え?」
「二日酔い防止。まぁ、こんな夜にカフェイン摂るのは勧めないけど」
「じゃあオレンジジュースがいい、かも……」

了解、と言って小柄なパックのオレンジジュースをひとつ取る。

「朝は和食でいいか? そんなにいいもの出せないけど」
「うん、任せる」

レジに向かう前にインスタント系の製品の揃う棚に寄り、しじみの味噌汁のカップスープに手を伸ばした。これも二日酔い対策だ。せっかくだから自分の朝食もこれにしようと考え、カップスープは2つ買うこととする。
片方の二日酔いの心配をしてなにかを買ってやるのも、深夜にコンビニで一緒に物色するのも、明日の朝食の相談をするのも――まるで同棲をしている恋人のようじゃないか。
嗚呼、なんだか、素面のはずの僕まで酔いそうだ。

僕の家に着く頃には時刻は22時をとうに回っていた。
不可抗力で飲酒してしまったなまえは、受け答えはしっかりしているとはいえ、顔の赤みは依然として引いていないし、帰り道でも何度か自分の足にもつれて転倒しそうになっていた。その度僕が支えていたから幸い怪我はないが、風呂で足を滑らせられてはたまらない。
入浴は明日の朝まで見送らせ、着替えだけを渡して洗面所に向かわせた。

「あれ? 私の着替えは?」

ヒロやなまえが泊まりに来た時のために二人の着替えや下着一式は置いていた。勿論ヒロの家にも僕となまえの着替えが揃っている。男子禁制のマンション在住のなまえの自宅は例外だが、それぞれの合鍵は三人の中で共有されており、いつ泊まってもいいように着替えもまたそれぞれの家に置かれていたのだった。

「全部洗濯した。僕の着なよ」
「新品だよね?」
「今週泊まりに来るって話もなかったし、新品だけど使う前に洗った方がいいと思って。まさか今日使うとは思ってなかったんだ。ごめん」

下着は今日のものをそのまま使ってもらうとして、寝間着として僕が渡したのは自分のスウェットだった。寝るときに衣類が肌に触れていると落ち着かない質なので、出かけない日の部屋着以外であまり使ったことはない。
僕との身長差を考えると彼女が着用すれば上だけでもチュニックのようになるのは目に見えている。

「じゃあ、貸してもらうね」

彼女が洗面所の戸を閉め切ったのを確認し、僕は自分の着替えを用意する。軽くシャワーを浴びてから着替えるつもりだが……さすがに恋人でもない異性が泊まる部屋で全裸で眠るのは慎むべきだろう。着慣れぬスウェットに袖を通した状態で快眠できるか、今から不安だ。
買ったオレンジジュースのパックに店員がつけてくれたストローを差し、大きめのグラスに水を汲む。
洗面所からリビングに出てきた彼女に、飲んでおけよ、と伝えようとして、オーバーサイズのスウェットの袖も裾も余らせて、首周りに至っては服がずり落ちて肩や浮き出た鎖骨が露出している。少し前かがみになるだけで胸も見えてしまうんじゃないかなどと思うと直視すらできない。

――はあ、かわいいな。彼シャツ。興味ないとか思ってたけど。ていうか彼氏でもないか。

「零君? ぼうっとしてどうしたの? 着替えたよ」
「あ、あぁ……。じゃあこれ、ジュースと水、飲んでおくように。僕はシャワー浴びてくるから」
「ありがとう。ごめんね。迎えに来てもらった上に買ってもらって、着替えまで。あと、泊めてもらって」

なまえは僕からの親切を一通り羅列する。照れくさい。

「気にするな。君こそ災難だったな」

僕は人のいい笑顔を浮かべることに絶えきれなくなる前に浴室に駆け込んだ。
シャワーヘッドを一番高い位置に固定して、頭から滝のように打ち付ける人工の雨を被る。泥のようにこびりつく情欲を洗い流そうと試みた。
なまえに男を誘っているつもりなどないことはよくわかっている。高校時代のあの一件で、彼女自身、己の中に燻るセックスへの恐怖心は身に沁みて理解しているはずだ。
あの子は性と男を恐れたままで、唯一の例外が僕と景光の二人だけ。
僕達に甘えるような素振りを見せるのも、心を許しているからこそ。僕らならば乱暴を働くことも、自分を邪な眼で見ることもないと信頼を預けてくれているからだ。信頼と友愛に、それ以上の意図はない。下手に行間を読むと曲解に繋がる。
こんなものは不相応なのだ。僕の心をどうしようもなく侵食する、色めいた欲求なんて。まかり間違っても彼女に押し付けてはいけない、過ちの種子だ。
ざばざばと勢いよく落ちるシャワーの、鋭い雫を肩が痛くなるまで受け続けた。自分への罰のように。熱を帯びつつある雄の象徴を否定する為に。

「う……あ……なまえ……」

シャワーの音に紛れて彼女を呼んだ。
片手を浴室の壁につき、片手で控えめに屹立するそれを握る。夜でも30度前後を記録していた気怠い暑さの帰り道で、半ばのぼせたようになっていたが、それにしても手の中のものは体中どこを探しても見当たらないような熱を孕んでいる。

――零君。

宝珠を転がすようなきらやかな声で僕を呼ぶなまえを、欲を焚き付ける薪にする。

――降谷君なら、いいよ。これ以上のことしても。
――えっちしてもいいよ。

いつぞやの言葉を反芻する。
空想の中のあの子の服を乱して、あの日一度だけ見た裸の彼女を瞼の裏に呼び起こす。なだらかな肩、男にはない丸みのある胸の膨らみ、くびれた腰の輪郭、腹の中央にちょんと存在する臍。
下着の締め付けから開放され、やや形を崩した胸に、自分の日に焼けた指が沈む。柔らかな双丘を掌に収め、寄せて作った谷間に自分のペニスを挟み込む。
あの日のことは火照る脳で幾度も再演した。あの日の自分ができなかったことを、夢想の中でだけだからと妥協して、叶えた。ときに自身のペニスになまえにキスをさせ、ときに先端しか挿入できなかった自身を根本まで埋め、ときに感触も知らない最奥まで貫いて、何度となく「中に出して」だの「きもちい」だの卑猥な科白を吐かせた。
穢すべきではない相手に欲の矛を向けて、性の発露、ただそれだけのために消費する。あの子を対象にこんなことしてはならないのに、という戒めすらも、倒錯的な興奮材料として雄の芯を膨れさせるのだからどうしようもない。

下半身にもうひとつ心臓が増えたみたいにどくどくと脈を打つ鼓動が、腿に響く。先程バイト先からなまえの元に向かって走ったときと同じくらい、心臓が早鐘を奏で、息が上がっている。
先端から滲んだ先走りが手の動きを助け、滑らかにさせた。出しっぱなしのシャワーは臍を撫でるほど反り返っているペニスをも濡らすが、必死になって擦れば擦るほど水とは違う粘つきのある液が洗い流されたそばから溢れてくる。シャワーの弱い水圧が刺激となって心地よい。
せりあがる射精感に身を委ね、僕は頭を真っ白にした。

「ん……くっ……!」

ぶわりとひらいた汗腺から滲む汗は、かいたことを自覚する前に水に流されていく。
どろ、と掌に撒かれた濃ゆい白濁が、上からの雨に溶かされて薄くなり、排水口へと吸い込まれる。指の付け根に絡んだ自身の精が完全に水に連れて行かれてしまうまで、僕は呆然とシャワーに打たれていた。
最低だ。わかってる。それでも熱を持て余すから、秘密で彼女を快楽の餌にしている。僕は己を嘲った。

風呂上がり、当たり前だが彼女を直視できない。
濡れた髪の上からタオルを被り、視線を遮ろうと足掻く僕の前に、だぼついたスウェットの裾を引きずりながら、彼女は歩み寄ってくる。

「だめだよ、乾かさなきゃ」
「どうせすぐに乾くよ」
「いつもそうなの? 洗面所にドライヤーあったけど」
「あれ、君が来た時のために買ったんだ。僕は一回も使ってない」
「乾かしてあげようか?」

言うが早いかなまえは洗面所へとぱたぱたと消えていった。
勘弁してくれ、と頭を抱えたくなるが、その心の裏には喜んでいる自分もいる。
なまえに髪を乾かされるのは気持ちが良かった。平素は湿りけさえ拭えればいいとハンドタオルで適当にごしごしと擦って終わるだけだから、彼女の細い指先に丁寧に髪を梳かれると、まるで自分が宝物のような扱いを受けているかの如く錯覚する。

「零君の髪は綺麗だね。ちゃんとケアしなきゃ」
「必要ないよ」
「勿体ないじゃない」

どこへ行っても疎まれるだけの髪色も、なまえの指が魔法をかけて、悪くはないなんて思わせてくれる。
華奢な腕に持ち続けるには思いであろうドライヤーを懸命に動かす彼女。まるで頭を撫でられているようで、このまま眠りに落ちてしまえたらどんなに幸せだろうと考えながら瞼を下ろしてみる。
恋人のような戯れ。コンビニでのことといい、彼女にとっては最難な日だっただろうに、僕は役得ばかりだ。
かちり、というスイッチを切る音で目を開ける。振り返るとなまえがコードをくるくるとまとめあげていた。
そんな彼女が雨に濡れた子犬みたいな、あなただけなのと言外に告げるような、甘えた声で僕に言う。

「ねぇ……今日、一緒に寝ちゃ、駄目?」
「……好きにすればいい」


2023/06/22
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